第18話 守るべき命、遠ざかる平穏
第18話 守るべき命、遠ざかる平穏
帝政歴三三五年、六月八日。
午前六時十二分。
クロウ家がヴァイスベルク地方の本邸を離れてから、一夜が明けた。
帝国中央部の丘陵地帯には、夜明けとともに薄い霧が立ち込めていた。
前日の雨で湿った土から水蒸気が立ち上り、別邸を囲む森の低い場所に白い靄が漂っている。東の空には層積雲が広がっていたが、その隙間から差し込む朝日が、庭園の芝生を淡く照らしていた。
遠くで鳥が鳴いた。
屋敷の窓が一つ開き、冷たい朝の空気が室内へ流れ込む。
レイブン・S・クロウは、見慣れない天井を眺めながら目を覚ました。
しばらくの間、自分がどこにいるのか分からなかった。
いつもの部屋なら、窓の右側に大きな樫の木が見えるはずだった。朝になると庭師が芝生へ水を撒き、廊下の向こうから母が使用人と話す声が聞こえてくる。
しかし、今朝の窓の外には、低い石垣と小さな花壇が見えた。
机の位置も、本棚の形も違っている。
そこでようやく、昨日の出来事を思い出した。
避難命令。
雨の降る朝。
長い車列。
父と一緒に見たヴァイス川。
そして、遠ざかっていく故郷の屋敷。
「……そっか」
レイブンは小さく呟いた。
黒い猫耳が、寝癖のついた髪の間からゆっくりと立ち上がる。
少年は毛布をめくり、ベッドから降りた。
床板は本邸のものより少し冷たかった。
机の上には、昨夜整理した歴史地理書と日記帳が置かれている。
引き出しの中には、祖父アルベルトから預かった黒鴉の徽章もあった。
それを確かめると、レイブンはようやく安心した。
扉の向こうから、小さな足音が聞こえてきた。
「……おにいちゃん?」
ルナだった。
扉を開けると、白い猫耳を持つ妹が、お気に入りの人形を抱えて立っていた。
「ルナ、おはよう」
「……おはよ」
ルナは眠そうに目を擦った。
「……おうち、ちがう」
「うん。昨日来たお家だよ」
「……いつもの、おうち?」
レイブンは少し考えた。
「いつものお家には、まだ帰れないんだ。でも、ここにも父さんと母さんがいるから大丈夫だよ」
ルナは兄の顔を見上げた。
「……おにいちゃんも?」
「もちろん」
その返事を聞くと、ルナは安心したように笑った。
レイブンは妹の手を握り、廊下へ出た。
階段を下りる途中、食堂から食器の触れ合う音が聞こえてきた。
焼きたてのパンの香りが漂っている。
少なくとも朝食の時間だけは、昨日までと変わらないらしかった。
食堂では、セレナが使用人と話していた。
白い猫耳の下で、彼女は少し疲れた表情を浮かべていたが、子供たちの姿を見ると柔らかく微笑んだ。
「おはよう、二人とも。よく眠れましたか?」
「うん!」
レイブンが答えると、ルナも真似をした。
「……ねた!」
「それは良かった」
セレナは娘を抱き上げ、椅子へ座らせた。
その時、食堂の扉が開いた。
「おはよう」
ヴァルター・A・クロウが入ってきた。
左手には数枚の書類を持ち、右袖は肩の下で丁寧に留められている。
彼は以前よりも杖を使わずに歩ける距離が伸びていたが、長時間の移動や疲労が重なった時には、今でも身体の均衡を崩しやすかった。
昨日の移動は、想像以上に負担が大きかったらしい。
セレナは夫の歩き方を見て、わずかに眉を寄せた。
「あなた、脚は大丈夫ですか?」
「ああ。少し疲れが残っているだけだ」
「それなら、今日は無理をしないでください」
「分かっているよ」
ヴァルターは苦笑し、椅子へ腰を下ろした。
レイブンが父の隣へ座った。
「父さん、今日は何するの?」
「まずは荷物の整理だな。それから、別邸の周囲を少し確認しようと思っている」
「僕も行っていい?」
「もちろん。ただし、遠くまでは行かないぞ」
「うん!」
ルナが顔を上げた。
「……ルナも!」
ヴァルターは笑った。
「ルナも一緒だ」
セレナはそんな家族のやり取りを見つめていた。
昨日まで張り詰めていた胸の奥が、少しだけ軽くなるのを感じた。
食卓には、温かいスープと焼きたてのパン、卵料理が並べられた。
窓の外では朝霧がゆっくりと薄れ、森の輪郭が見え始めている。
しかし、屋敷の外に広がる世界は、穏やかな朝食の時間とは異なる方向へ動き続けていた。
午前七時四十六分。
帝国北部国境、第三監視区域。
国境線に近い丘陵地帯では、帝国軍の警戒部隊が夜明けから監視を続けていた。
前夜の雨によって地面はぬかるみ、軍用車両が通過した未舗装道路には深い轍が残っている。
低い丘の斜面には、灌木と背の低い針葉樹が点在していた。
その一角に設けられた監視陣地では、帝国軍の歩兵分隊が交代で警戒任務に就いていた。
陣地は土嚢と掘り下げられた壕によって構成され、雨水が溜まらないよう排水溝が設けられている。
兵士たちの軍服は湿り、靴の底には泥が付着していた。
分隊長のカール・ヴェーゲナー軍曹は、双眼鏡を下ろして腕時計を確認した。
「……七時四十七分。交代まで、あと十三分か」
隣にいた若い兵士が、冷えた指を擦り合わせた。
「軍曹、昨夜から何もありませんね」
「何もないなら、それでいい」
ヴェーゲナーは答えた。
「監視任務は、何かが起きるのを待つ仕事じゃない。起きそうなことを見つけて、知らせる仕事だ」
「はい」
若い兵士は双眼鏡を構え直した。
遠方には、連邦共和国側の道路が見えていた。
道路脇には木々が並び、その向こうに小さな農村がある。
共和国軍の部隊が付近で活動していることは分かっていたが、現時点で帝国領内への侵入は確認されていなかった。
ヴェーゲナーは監視記録へ視線を落とした。
昨夜確認された車両移動。
未確認の無線通信。
そして、早朝に観測された小規模な人員移動。
どれも、それだけで敵対行動と判断できるものではなかった。
「軍曹」
監視兵が声を掛けた。
「北東方向、道路脇に人影です」
ヴェーゲナーは双眼鏡を構えた。
湿った空気の向こう、低い丘の斜面を数人の人影が移動している。
距離があり、服装の細部までは分からない。
「人数は?」
「三、いえ……四名と思われます」
「武装は?」
「確認できません」
ヴェーゲナーは少し考えた。
「記録しろ。現時点では所属不明。監視を続ける」
若い兵士が頷いた。
その時だった。
乾いた音が、遠くの丘陵地帯に響いた。
パンッ。
続いて、短い間隔で二発。
パンッ、パンッ。
監視陣地の兵士たちは一斉に顔を上げた。
「……銃声?」
若い兵士が呟いた。
ヴェーゲナーはすぐに双眼鏡を構え直した。
「全員、遮蔽物から出るな。発砲位置を確認しろ!」
兵士たちは土嚢の陰へ身を低くした。
数秒後、再び銃声が響いた。
今度は連続した短い発砲音だった。
タタタッ、タタッ。
銃声は丘の向こうから聞こえており、監視陣地そのものが攻撃を受けている様子はなかった。
ヴェーゲナーは無線機へ手を伸ばした。
「こちら第三監視所、ヴェーゲナー軍曹。北東方向で複数の発砲音を確認。発砲主体、目標ともに不明。現在位置への着弾は確認していない」
『第三監視所、こちら地区指揮所。了解。監視を継続し、状況を報告せよ。交戦を確認するまでは不用意に接近するな』
「了解」
ヴェーゲナーは無線機を戻した。
若い兵士が尋ねた。
「軍曹、撃たないんですか?」
「何を撃つつもりだ?」
「……それは」
「相手が誰かも、何を撃っているのかも分からん。こちらが攻撃を受けたわけでもない」
ヴェーゲナーは厳しい表情で続けた。
「銃声が聞こえたからといって、撃ち返していいわけじゃない」
兵士は唇を結んだ。
「……了解しました」
ヴェーゲナーは再び丘陵地帯を観察した。
薄い霧の向こうに、人影が動いている。
その直後、地面の近くで小さな土煙が上がった。
銃弾が着弾したものなのか、別の原因なのか、距離があるため断定できなかった。
しかし、発砲音が続いていることは確かだった。
ヴェーゲナーは眉を寄せた。
五月十七日の国境銃撃事件。
あの日以来、兵士たちは誰もが神経を尖らせていた。
今聞こえている銃声が、新たな衝突の始まりなのか。
それとも、まったく別の出来事なのか。
まだ分からなかった。
午前八時三分。
連邦共和国側、国境警備部隊の前哨所。
「発砲を停止しろ! 繰り返す、発砲を停止!」
共和国軍の指揮官が怒鳴った。
低い丘の陰では、複数の兵士が銃を構えていた。
その前方、林の縁には、所属不明の武装した人影が確認されていた。
最初に発砲したのが誰だったのか、現場の兵士たちの証言は一致していなかった。
共和国軍の若い兵士は、荒い呼吸を繰り返しながら銃を握っていた。
「……撃たれたと思ったんです」
彼は震える声で言った。
「向こうの茂みが動いて、その直後に銃声がして……」
指揮官は彼の肩へ手を置いた。
「分かった。今は銃口を下げろ」
兵士は指示に従った。
その近くでは、別の兵士が地面へ座り込んでいた。
左前腕を負傷している。
軍服の袖には血が滲み、衛生兵が応急処置を行っていた。
「痛みは?」
「……あります。でも、指は動きます」
「そのまま動かさないで。出血を確認する」
衛生兵は負傷部位を露出させ、出血の状態を確認した。
傷口からの出血は続いていたが、意識は清明で、会話もできていた。
衛生兵は清潔な被覆材を当て、圧迫して止血を試みた。
「搬送の準備をお願いします」
指揮官は頷いた。
「車両を回せ。無理に歩かせるな」
負傷兵は歯を食いしばった。
「……すみません」
「謝る必要はない。今は治療を受けろ」
指揮官は周囲を見回した。
発砲音は止んでいた。
林の向こうにいた人影は、既に見えなくなっている。
彼は無線機を取り、上級指揮所へ報告した。
「こちら国境警備第三中隊。所属不明の武装集団との接触事案が発生。現在、発砲は停止しています。味方負傷者一名。相手側の状況は不明」
『帝国軍との交戦か?』
「確認できません。現場から帝国軍の標識は確認されていません」
『了解。位置を保持し、追加の発砲を避けよ。負傷者を後送し、現場記録を保全すること』
「了解」
指揮官は通信を終えた。
そして、泥に汚れた軍靴を見つめた。
ほんの数分前まで、彼らはいつも通りの警戒任務を続けていた。
今は一人が負傷し、誰が何のために撃ったのかさえ分からない。
銃声が止んだ後も、恐怖だけは簡単には消えなかった。
午前九時二十六分。
帝国北部方面軍司令部。
作戦室には、第三監視区域で確認された発砲事案の報告が届いていた。
「……共和国側で負傷者が出たとの情報があります」
情報将校が報告した。
「ただし、発砲した武装集団の所属は不明です。帝国軍の関与を示す情報は確認されていません」
司令官は地図を見つめた。
「共和国側の発表は?」
「国境警備部隊が所属不明の武装集団と接触したとしています。現時点では帝国軍による攻撃とは断定していません」
「そうか」
司令官は少しだけ息を吐いた。
「こちらの監視記録と照合しろ。事実関係が分かるまでは、憶測を報告書へ混ぜるな」
「了解しました」
別の将校が尋ねた。
「国境部隊の警戒態勢を引き上げますか?」
「局地的な警戒は強化する。ただし、必要以上の部隊移動は避けろ」
司令官は答えた。
「この状況で双方が大きく動けば、別の場所でも誤認が起こりかねん」
将校たちは頷いた。
司令官は窓の外へ目を向けた。
六月の空は、朝から雲に覆われていた。
戦争が始まっていないという事実は、何も危険がないことを意味しなかった。
そして、国境で撃たれた一発の銃弾が、どこまで大きな影響を及ぼすのかも、まだ誰にも分からなかった。
午前十時十五分。
クロウ家の別邸。
レイブンは父と共に庭園を歩いていた。
朝霧はほとんど消え、木々の葉には雨上がりの光が差し込んでいる。
庭の一角には、小さな池があった。
水面には白い雲が映り、風が吹くたびに細かな波紋が広がっていた。
ルナは池の近くで、母と一緒に水鳥を眺めていた。
「……おにいちゃん!」
妹が手を振った。
「……とり!」
レイブンは笑った。
「見えてるよ!」
水鳥は二羽並んで泳いでいた。
ルナは嬉しそうに手を叩いた。
ヴァルターはその光景を見つめていた。
白い猫耳。
小さな手。
まだ幼い声。
彼はふと、娘が生まれる前のことを思い出した。
あの頃、クロウ家にはまだレイブンしかいなかった。
ヴァルターは軍務と家族の時間を両立させようと努めていたが、北部方面軍での勤務は忙しく、屋敷を空けることも少なくなかった。
ある冬の夕方だった。
帝国北部には雪が降り、クロウ家の屋敷では暖炉に火が灯されていた。
ヴァルターが帰宅すると、セレナが居間で待っていた。
彼女はいつも通り微笑んでいたが、どこか落ち着かない様子だった。
「……あなた、お帰りなさい」
「ただいま。レイブンは?」
「先ほど眠りました」
「そうか」
ヴァルターは外套を脱ぎ、妻の隣へ腰を下ろした。
「今日は寒かったな」
「ええ。朝から雪が降っていましたもの」
セレナは微笑んだ。
しかし、その後も何かを言いたそうにしていた。
ヴァルターは気づいた。
「……どうした?」
「え?」
「何か話があるんじゃないか?」
セレナは少し驚いたように目を見開いた。
そして、ゆっくりと頷いた。
「……実は、あなたにお伝えしたいことがあります」
ヴァルターは妻へ身体を向けた。
「何だ?」
セレナは自分のお腹へ、そっと手を添えた。
その仕草を見た瞬間、ヴァルターは息を止めた。
「……まさか」
セレナは頷いた。
「……ええ」
彼女は少し照れたように笑った。
「赤ちゃんが、できました」
ヴァルターはしばらく言葉を失った。
暖炉の薪が小さく爆ぜた。
窓の外では、雪が静かに降り続いている。
「……本当か?」
「はい」
セレナは笑った。
「医師にも診ていただきました」
ヴァルターは妻を見つめた。
そして、ゆっくりと笑った。
「……そうか」
彼は妻の手を取った。
「……ありがとう」
セレナは首を振った。
「あなた、まだ生まれてもいませんよ」
「それでも、嬉しいんだ」
ヴァルターは静かに答えた。
その時、居間の扉が少し開いた。
「……父さん?」
幼いレイブンが顔を覗かせていた。
黒い猫耳は眠そうに傾き、手には小さな毛布を持っている。
「レイブン、起きたのか?」
ヴァルターが尋ねると、少年は頷いた。
「……父さんの声がした」
セレナは微笑んだ。
「ちょうど良かったですね」
ヴァルターは息子を抱き上げ、膝の上へ座らせた。
「レイブン。お前に話がある」
「……なあに?」
「もう少ししたら、家族が一人増えるんだ」
レイブンは目を瞬かせた。
「……ふえる?」
「ああ」
ヴァルターは頷いた。
「お前に、弟か妹ができるんだよ」
少年はしばらく考えていた。
そして、突然、目を輝かせた。
「……ほんと!?」
「本当だ」
「……赤ちゃん!?」
「そうだ」
レイブンは嬉しそうに笑った。
「……僕、お兄ちゃんになるの!?」
セレナは頷いた。
「そうですよ」
少年は父の膝から降りると、母の前へ歩み寄った。
そして、お腹をじっと見つめた。
「……ここにいるの?」
「ええ」
セレナは優しく答えた。
「まだ、とても小さいですけれどね」
レイブンは少し考えた。
それから、小さな声で言った。
「……こんにちは」
ヴァルターは思わず笑った。
「まだ聞こえないかもしれないぞ」
「……でも、言いたかった」
その言葉に、セレナは目を細めた。
「きっと、嬉しいと思いますよ」
レイブンは満足そうに頷いた。
その日から、少年は母のお腹にいる赤ちゃんへ話しかけるようになった。
朝起きた時。
食事の前。
眠る前。
自分が覚えた言葉や、庭で見つけた鳥のことまで、何でも話した。
時には、父が読んでくれた物語を、自分なりの言葉で聞かせることもあった。
セレナはそんな息子を見つめながら、穏やかに笑っていた。
季節が移り、雪が溶け、庭園に新しい芽が出始めた頃。
セレナのお腹は少しずつ大きくなっていった。
レイブンは母の身体を気遣うようになり、階段を上る時には小さな手を差し出した。
「母さん、ゆっくりね」
「ありがとう、レイブン」
「赤ちゃんも、転んだら大変だから」
セレナは笑った。
「そうですね」
ヴァルターも、できる限り家族と過ごす時間を増やそうとしていた。
軍務の都合で帰宅が遅くなる日もあったが、休暇が取れた時には妻と息子を連れて庭園を歩いた。
ある日の夕方。
ヴァルターは書斎で、出生後に必要となる書類を確認していた。
その隣で、セレナが赤ちゃん用の衣服を畳んでいた。
「……名前、どうしましょうか」
セレナが尋ねた。
ヴァルターは顔を上げた。
「そうだな」
彼は少し考えた。
「男の子なら、いくつか候補がある」
「女の子なら?」
ヴァルターは微笑んだ。
「……ルナ、という名前はどうだろう」
セレナは目を瞬かせた。
「ルナ?」
「ああ」
ヴァルターは窓の外を見つめた。
夕暮れの空には、薄い月が浮かんでいた。
「レイブンが黒い鴉なら、その隣に静かに輝く月があってもいいと思ってな」
セレナは少し考えた。
そして、優しく微笑んだ。
「……素敵な名前ですね」
「気に入ってくれたか?」
「ええ」
セレナはお腹へ手を添えた。
「もし女の子なら、ルナにしましょう」
ヴァルターは頷いた。
その時、書斎の扉が開いた。
「……父さん!」
レイブンが入ってきた。
「名前、決まったの!?」
ヴァルターは笑った。
「まだ、女の子だった場合の候補だよ」
「……何て名前?」
「ルナだ」
少年は少し考えた。
「……ルナ」
そして、嬉しそうに笑った。
「……いい名前!」
セレナは微笑んだ。
「そう思いますか?」
「うん!」
レイブンは母のお腹を見つめた。
「……ルナ、早く会いたいな」
その声を聞きながら、ヴァルターは静かに目を細めた。
そして、出産の日が訪れた。
早朝からセレナの身体に陣痛が始まり、屋敷には医師と助産師が呼ばれた。
ヴァルターは予定していた軍務を調整し、妻のそばに残った。
レイブンは祖父アルベルトと共に、別室で待っていた。
少年は落ち着かない様子で、何度も扉の方を見つめた。
「……おじいちゃん」
「何だ、レイブン」
「……母さん、大丈夫かな」
アルベルトは孫の隣へ腰を下ろした。
「医師たちが診てくれている。私たちは、信じて待とう」
レイブンは小さく頷いた。
しかし、しばらくすると再び尋ねた。
「……赤ちゃんも、大丈夫かな」
アルベルトは少年の頭へ手を置いた。
「心配なのだな」
「……うん」
「それなら、無事に生まれてくることを願っていよう」
レイブンは両手を握りしめた。
その頃、別室ではセレナが懸命に呼吸を整えていた。
助産師が落ち着いた声で呼びかける。
「セレナ様、次の陣痛が来たら、呼吸を合わせましょう。無理に急がなくて大丈夫です」
セレナは汗に濡れた額を拭い、頷いた。
ヴァルターは妻の手を握っていた。
「……大丈夫だ。私はここにいる」
セレナは苦しそうに息を吐いた。
「……あなた」
「ああ」
「……手を、離さないで」
「離さない」
ヴァルターは強く頷いた。
出産は、彼がこれまで経験してきたどの任務とも違っていた。
命令を出すこともできない。
危険を取り除くこともできない。
ただ、妻のそばにいて、手を握ることしかできなかった。
それが、ひどくもどかしかった。
やがて、長い時間が過ぎた。
窓の外では、朝日が高く昇り始めていた。
そして。
小さな泣き声が、部屋に響いた。
ヴァルターは顔を上げた。
助産師が赤ん坊の状態を確認し、柔らかな布で身体を包んでいた。
「……おめでとうございます」
助産師は微笑んだ。
「元気な女の子ですよ」
セレナは涙を浮かべた。
ヴァルターはしばらく言葉を失った。
赤ん坊は小さな手を動かし、懸命に泣いていた。
白い髪の間には、小さな猫耳が見えている。
セレナは赤ん坊を抱き寄せた。
「……ルナ」
彼女は優しく名前を呼んだ。
「……生まれてきてくれて、ありがとう」
ヴァルターは妻と娘を見つめた。
そして、静かに微笑んだ。
「……ようこそ、ルナ」
その声は、わずかに震えていた。
しばらくして、レイブンが部屋へ案内された。
少年は扉の前で立ち止まった。
母の腕の中に、小さな赤ん坊がいる。
「……母さん?」
セレナは微笑んだ。
「レイブン、こちらへいらっしゃい」
少年はゆっくりと近づいた。
「……赤ちゃん?」
「ええ」
セレナは頷いた。
「あなたの妹、ルナですよ」
レイブンは目を大きく開いた。
赤ん坊の小さな手。
白い髪。
まだ閉じたままの目。
そして、小さな猫耳。
「……ちっちゃい」
少年は呟いた。
ヴァルターは笑った。
「そうだな」
「……触ってもいい?」
「優しくならね」
セレナが答えた。
レイブンは恐る恐る手を伸ばした。
小さな指先が、赤ん坊の手へ触れる。
その瞬間、ルナの指がわずかに動いた。
そして、レイブンの指を握った。
少年は驚いた。
「……父さん!」
「どうした?」
「……握った!」
ヴァルターは笑った。
「ああ。握っているな」
レイブンは嬉しそうに笑った。
「……ルナ!」
赤ん坊は小さく身じろぎした。
少年は妹を見つめながら、そっと言った。
「……僕、お兄ちゃんだよ」
セレナはその光景を見つめ、静かに涙を拭った。
ヴァルターは妻の肩へ手を添えた。
そして、家族を見つめながら思った。
この小さな命を、守っていきたい。
息子も、娘も、妻も。
軍人としての階級や名誉よりも、ずっと大切なものが、今ここにある。
その思いは、彼の胸に深く刻まれた。
「……父さん?」
現在のレイブンの声が、ヴァルターを現実へ引き戻した。
六月八日の庭園。
目の前では、七歳になった息子が父を見上げている。
「……どうしたの?」
ヴァルターは瞬きをした。
「いや。少し昔のことを思い出していた」
「昔?」
「ああ。ルナが生まれた日のことだ」
レイブンは目を輝かせた。
「……覚えてる!」
ヴァルターは微笑んだ。
「そうか」
「ルナ、僕の指を握ったんだよね!」
「ああ。よく覚えているな」
レイブンは嬉しそうに頷いた。
「……だって、すごく嬉しかったから」
ヴァルターは息子の頭を撫でた。
少し離れた場所では、ルナが母と一緒に水鳥を眺めている。
あの日、小さな手で兄の指を握った赤ん坊は、今では自分の足で庭を歩き、兄の名前を呼ぶようになっていた。
ヴァルターは静かに微笑んだ。
「……大きくなったな」
レイブンは父を見上げた。
「……僕も?」
「ああ。お前もだ」
少年は少し照れたように笑った。
午後一時三十四分。
帝国北部方面軍司令部。
国境で発生した発砲事案について、新たな報告が届いていた。
情報将校が書類を開いた。
「共和国側の発表によれば、負傷者は一名。命に別状はないとのことです」
司令官は頷いた。
「発砲した武装集団は?」
「依然として所属不明です。現場から回収された物証についても、調査が続いています」
「帝国軍の関与を示すものは?」
「現時点では確認されていません」
司令官は静かに息を吐いた。
「……そうか」
そして、続けた。
「この情報は、外交当局へ正確に伝えろ。共和国側との連絡経路も維持する」
「了解しました」
司令官は窓の外を見つめた。
国境では、兵士たちが互いを警戒している。
その一方で、帝国中央部では避難してきた家族たちが新しい生活を始めようとしていた。
戦争が始まっていない今でさえ、軍事的緊張は多くの人々の生活を変えていた。
彼は低い声で呟いた。
「……これ以上、広がらなければいいが」
午後六時四十八分。
クロウ家の別邸。
夕食の準備が進む中、レイブンは居間でルナと遊んでいた。
床には、小さな木製の積み木が並べられている。
ルナは積み木を三つ重ね、得意そうに笑った。
「……できた!」
レイブンは拍手した。
「すごいね、ルナ!」
ルナは嬉しそうに笑った。
しかし、次の瞬間、積み木が崩れた。
乾いた音が床に響く。
ルナは驚いた顔をした。
そして、泣きそうになった。
「……こわれた」
レイブンはすぐに妹の隣へ座った。
「大丈夫だよ」
彼は積み木を拾い集めた。
「また作ればいいんだよ」
ルナは兄を見つめた。
「……また?」
「うん。一緒に作ろう」
レイブンは笑った。
ルナも小さく頷いた。
二人は再び積み木を重ね始めた。
その様子を、ヴァルターとセレナが少し離れた場所から見つめていた。
「……あの子たち、仲が良いですね」
セレナが微笑んだ。
「ああ」
ヴァルターは頷いた。
「レイブンは、昔からルナのことを大切にしている」
「ええ」
セレナは夫を見つめた。
「あなたに似たのでしょうか」
ヴァルターは苦笑した。
「どうだろうな」
「少なくとも、誰かが困っていると放っておけないところは似ています」
ヴァルターは少し考えた。
「……それなら、良いところだけ似てくれるといいんだが」
セレナは笑った。
「悪いところも、少しは似るかもしれませんよ」
「それは困るな」
二人は静かに笑った。
居間には、子供たちの楽しそうな声が響いていた。
その時間だけは、国境の緊張も、避難の不安も、少し遠くに感じられた。
午後九時二十七分。
別邸の書斎。
ヴァルターは机に向かい、軍から届いた連絡書類を確認していた。
国境での発砲事案。
共和国軍の部隊移動。
そして、帝国軍の警戒態勢。
どれも、今後の情勢を慎重に見守る必要があることを示していた。
彼は書類を閉じ、椅子の背へ身体を預けた。
失われた右肩には、時折、存在しないはずの腕が痛むような感覚が残っていた。
幻肢痛。
医師から説明は受けていたが、慣れることは簡単ではなかった。
ヴァルターは左手で額を押さえた。
異界から帰還して以来、彼の生活は大きく変わった。
軍人としての将来。
身体の状態。
そして、家族との向き合い方。
以前なら、危険が迫れば自分が前に出ることを当然だと考えていた。
しかし、今は違う。
守るべきものがあるからこそ、退くことも必要になる。
彼は今日、息子へ伝えた言葉を思い出した。
家族を守ること。
生きて帰ること。
そして、命令や階級よりも大切な責任があること。
その意味を、自分自身も忘れてはならなかった。
書斎の扉が軽く叩かれた。
「……父さん?」
レイブンだった。
「どうした?」
「……まだ起きてた?」
「ああ。少し仕事をしていた」
少年は部屋へ入った。
手には日記帳を持っている。
「……父さん」
「何だ?」
「……ルナが生まれた日のこと、書いてもいい?」
ヴァルターは微笑んだ。
「もちろんだ」
レイブンは嬉しそうに頷いた。
「……忘れたくないから」
ヴァルターは息子を見つめた。
そして、静かに答えた。
「そうだな。大切なことは、覚えておくといい」
レイブンは机の端へ日記帳を置いた。
「……父さん」
「ん?」
「……僕、ルナを守れるお兄ちゃんになりたい」
ヴァルターは少し驚いたように少年を見た。
レイブンは真剣な表情をしていた。
「……ルナ、まだ小さいから」
ヴァルターは静かに微笑んだ。
「そうか」
そして、息子の頭へ左手を置いた。
「だが、レイブン」
「……なあに?」
「守るというのは、何でも一人で背負うことじゃない」
少年は首を傾げた。
「……どういうこと?」
「困った時には、誰かに助けを求めてもいい。自分だけで何とかしようとしなくてもいいんだ」
レイブンは少し考えた。
「……父さんにも?」
「ああ。父さんにも、母さんにも」
ヴァルターは頷いた。
「それに、いつかルナがお前を助けてくれることだってあるかもしれない」
少年は目を瞬かせた。
「……ルナが?」
「そうだ」
ヴァルターは微笑んだ。
「家族というのは、誰か一人が守るものじゃない。みんなで支え合うものなんだ」
レイブンはしばらく黙っていた。
そして、ゆっくりと頷いた。
「……分かった」
ヴァルターは息子の頭を撫でた。
「さあ、もう寝なさい」
「……うん」
レイブンは日記帳を抱え、書斎を出ていった。
ヴァルターはその背中を見送った。
そして、机の上に置かれた軍の報告書へ視線を戻した。
国境の向こうでは、今日も兵士たちが警戒を続けている。
だが、この屋敷には、子供たちの寝息がある。
その静かな時間を守るために、自分は何をすべきなのか。
ヴァルターはしばらく考え続けていた。
午後十時四十一分。
レイブンは自室で日記帳を開いていた。
机の上には、小さな灯りが置かれている。
少年は万年筆を握り、ゆっくりと文字を書き始めた。
『今日は、父さんと庭を歩いた。
ルナと一緒に鳥を見た。
父さんが、ルナが生まれた日のことを思い出していた。
僕も覚えている。
ルナは、とても小さかった。
僕の指を握ってくれた。
あの時、すごく嬉しかった。
父さんは、家族はみんなで支え合うものだって言っていた。
だから、僕もルナを助けたい。
それから、困った時には父さんと母さんに助けてもらおうと思う。
早く、みんなで元のお家に帰りたい。』
レイブンは万年筆を置いた。
そして、窓の外を見つめた。
夜空には雲が広がっていたが、その切れ間から月が見えていた。
淡い光が、庭園の木々を照らしている。
少年は小さく微笑んだ。
「……ルナ」
妹の名前を呟いた。
そして、日記帳を閉じた。
帝政歴三三五年、六月八日。
帝国と連邦共和国の国境では、新たな発砲事案が発生した。
負傷者が出たものの、事件は局地的なものに留まり、両国の正規軍による全面的な交戦には発展しなかった。
しかし、緊張は依然として続いていた。
その一方で、クロウ家では、避難先での新しい生活が始まっていた。
七歳のレイブンは、まだ戦争の本当の恐ろしさを知らない。
銃声が人の身体へ何をもたらすのか。
砲弾が街を破壊した後に、何が残るのか。
そして、家族を失うことが、どれほど深い悲しみを生むのか。
少年は、まだ知らなかった。
ただ一つ、確かなことがあった。
妹が生まれた日、小さな手で自分の指を握ってくれた。
その温もりを、レイブンは今でも覚えている。
守るべきものとは、遠くにある名誉や勲章ではない。
それは、手を伸ばせば触れられる場所にいる、大切な誰かの命なのだ。
夜の別邸には、静かな時間が流れていた。
レイブンは眠りにつき、ルナは母の隣で小さな寝息を立てている。
ヴァルターは書斎の灯りを消し、家族のいる部屋へ向かった。
国境では、兵士たちが夜間警戒を続けていた。
帝国と連邦共和国の間に広がる緊張は、まだ解けていない。
それでも、この夜、クロウ家の家族は同じ屋根の下で眠ることができた。
そして、レイブン・S・クロウの心には、妹が生まれた日の記憶が、静かに息づき続けていた。




