第17話 故郷を離れる日
第17話 故郷を離れる日
帝政歴三三五年、六月七日。
午前五時二十三分。
夜明け前のヴァイスベルク地方には、前日から降り続く雨が残っていた。
クロウ家の屋敷を囲む石塀は黒く濡れ、庭園の芝生には細かな水滴が浮かんでいる。東の空には低い層雲が広がり、その切れ間からわずかに青白い光が差し込んでいた。
いつもなら、庭師が花壇の手入れを始める時間だった。
しかし、この朝、屋敷の前庭には庭師の姿がなかった。
代わりに停車していたのは、三台の自動車だった。
先頭には帝国軍の連絡車両。後方にはクロウ家所有の大型乗用車と、荷物を積んだ輸送車が並んでいる。
使用人たちは雨除けの外套を着込み、玄関と車両の間を忙しく行き来していた。
玄関ホールでは、ヴァルター・A・クロウが一通の公文書を読み返していた。
書類の上部には、ヴァイスベルク地方行政庁と帝国軍北部方面軍の連名による印章が押されている。
民間人保護に伴う指定区域住民の段階的避難命令。
その文字を見つめるヴァルターの表情は、厳しかった。
前日午後、地方行政庁は国境に近い複数の地区を対象として、住民の計画的な退避を命じていた。クロウ家の屋敷がある地区も、その対象に含まれていた。
戦争が始まったわけではない。
帝国と連邦共和国は、依然として外交交渉を続けている。
だが、国境付近の軍事的緊張が高まり、民間人をそのまま居住させておくことは適切ではないと判断されたのだった。
ヴァルターは書類を畳み、左手で上着の内ポケットへ収めた。
「車両の準備は?」
傍らにいた執事が答えた。
「すべて完了しております。燃料、予備の飲料水、医薬品も確認済みです。先行した使用人から、避難先の受け入れ準備が整ったとの連絡が入りました」
「道路の状況は?」
「南へ向かう幹線道路は混雑しておりますが、現在のところ通行可能です。ただし、一部の橋梁で交通規制が始まっております」
ヴァルターは頷いた。
「予定より早く出発しよう。交通規制が変わる前に、街の南側へ抜けたい」
「承知いたしました」
執事が一礼して立ち去ると、ヴァルターは静かに玄関の扉を見つめた。
十数年前、この屋敷へ初めてセレナを連れてきた日のことを思い出した。
彼女は広い庭園を見て驚き、それから少し困ったように笑っていた。
『こんな立派なお屋敷で、私が暮らしてもいいのでしょうか』
あの時、ヴァルターは答えた。
『君がいてくれなければ、ただの大きな建物だ』
その言葉を、今でも覚えている。
やがてレイブンが生まれ、ルナが生まれた。
屋敷の廊下には子供たちの足音が響くようになり、静かだった食堂は毎朝賑やかになった。
自分が異界から帰還した時も、家族はここで迎えてくれた。
ヴァルターは失われた右肩へ視線を落とした。
帰る場所があるということの重みを、彼ほど強く感じている者は少ないかもしれなかった。
「……あなた」
背後から声がした。
振り返ると、セレナが階段を下りてくるところだった。
白い猫耳の下で、普段は柔らかな表情を浮かべている彼女も、今朝ばかりは疲れを隠せていなかった。
「子供たちは?」
「レイブンは起きています。ルナは、まだ少し眠そうですけれど」
「そうか」
セレナは夫の隣へ歩み寄った。
「本当に、今日出発するのですね」
「ああ」
ヴァルターは短く答えた。
彼女は玄関の向こうへ視線を向けた。
「昨日まで、まだ時間があると思っていました」
「私もだ」
「……戻ってこられますよね」
ヴァルターはすぐに答えなかった。
軽々しく約束できることではなかった。
国境情勢は不安定で、これから何が起こるのか、軍の関係者である彼にも分からない。
それでも、妻が求めているのは、未来を保証する言葉ではないと理解していた。
「戻れるようにする」
ヴァルターは左手で妻の手を握った。
「屋敷の管理は残る職員と警備担当に任せる。私たちはまず、子供たちを安全な場所へ連れていく」
セレナは小さく頷いた。
「……はい」
彼女は夫の右肩へ一瞬だけ目を向けた。
「それから、あなたもです」
「私も?」
「あなたも、無理をなさらないでください。軍から何か頼まれても、今の身体でできないことまで引き受けないで」
ヴァルターは苦笑した。
「……耳が痛いな」
「耳が痛いだけで済ませないでくださいね」
「分かった。約束する」
その返事を聞いて、セレナはようやく少し笑った。
同じ頃、屋敷の二階では、レイブン・S・クロウが自分の部屋を見渡していた。
七歳の少年にとって、そこは世界の中心だった。
窓際には、幼い頃から使っている小さな机がある。
壁には、父が旅先から持ち帰った地図が掛けられていた。
本棚には、何度も読み返した物語の本が並んでいる。
そして机の上には、祖父アルベルトから贈られた歴史地理書と、小さな木箱が置かれていた。
レイブンは木箱を開いた。
中に収められていたのは、黒鴉の徽章だった。
金属製の小さな鳥は、両翼を広げている。
裏面には、祖父から教わった言葉が刻まれていた。
――名誉より責任を。
レイブンは指先で文字をなぞった。
祖父は、この徽章を今すぐ身につける必要はないと言っていた。
クロウ家の名を背負うことは、誰かに命じられて決めるものではない。
自分で考え、自分で選ぶことが大切なのだと。
少年は木箱を閉じ、鞄の奥へしまった。
その隣には、祖母ヘレーネからの手紙が入っている。
そして、もう一冊。
毎日少しずつ書き続けてきた日記帳。
レイブンはそれを手に取った。
表紙の角は少し擦れていたが、中の頁には、父が異界へ向かった日のことも、帰ってきた日のことも書かれている。
少年は日記帳を鞄へ入れようとして、ふと手を止めた。
部屋の隅に、木製の小さな箱があった。
以前、父と一緒に作ったものだった。
釘を打つのが難しく、何度も曲げてしまった。
それでも、父は怒らずに教えてくれた。
『急がなくていい。最初から上手にできる人間なんていない』
レイブンは箱へ歩み寄り、そっと持ち上げた。
鞄には、もうあまり余裕がない。
しばらく迷った後、少年は箱を元の場所へ戻した。
「……また、帰ってきたら」
そう呟いた時、廊下から小さな足音が聞こえた。
「……おにいちゃん?」
振り返ると、ルナが扉の前に立っていた。
白い猫耳は少し寝癖で曲がり、両手にはお気に入りの人形を抱えている。
「ルナ。起きたの?」
「……うん」
妹は部屋の中を見回した。
「……おへや、なくなる?」
レイブンは目を瞬かせた。
「え?」
「……おでかけしたら、なくなる?」
少年は妹の言葉を理解すると、ゆっくり首を振った。
「なくならないよ。ここは、ずっと僕たちの家だよ」
ルナは不安そうに兄を見上げた。
「……ほんと?」
「うん。だから、また帰ってこよう」
レイブンは妹の前にしゃがんだ。
「ルナのお人形も、一緒に連れていこうね」
ルナは人形を強く抱きしめた。
「……おにいちゃんも?」
「もちろん」
「……おとうさんも?」
「うん」
「……おかあさんも?」
レイブンは笑った。
「みんな一緒だよ」
ルナはようやく安心したように笑い、兄の首へ抱きついた。
レイブンは少しよろめきながらも、妹を抱き留めた。
窓の外では、雨が静かに降り続いていた。
午前六時十八分。
帝国北部方面軍、ヴァイスベルク地方防衛司令所。
作戦室の壁面には、国境一帯の地図が掲げられていた。
将校たちは交代で報告を受け取り、確認された情報を地図へ反映している。
帝国側の部隊を示す赤い標識と、連邦共和国側の配置を示す青い標識が、国境線を挟んで並んでいた。
情報将校が通信記録を読み上げた。
「北東監視区域において、連邦共和国軍の車両移動を確認。装輪車両および履帯式車両が混在しています。部隊規模は現在分析中です」
防衛司令官は地図を見つめた。
「昨日の配置と比較してくれ」
「はい。こちらが昨日二十時時点の情報です」
将校は地図上の標識を移動させた。
「一部の部隊が南側へ移動しています。ただし、演習区域内での配置転換である可能性も残っています」
「砲兵は?」
「複数の火砲を確認していますが、射撃準備を示す確証はありません」
司令官は腕を組んだ。
「連邦側からの回答は?」
「昨夜の外交照会に対し、通常の軍事演習であり、帝国への攻撃を意図したものではないとの説明がありました」
別の将校が口を開いた。
「信用できるのでしょうか」
司令官は彼を見た。
「信用するかどうかと、確認できた事実は分けて考えろ」
将校は姿勢を正した。
「失礼しました」
「疑うことは必要だ。しかし、疑いだけで部隊を動かせば、相手も同じことをする。そうして互いに銃口を向け続ければ、誰か一人の判断ミスで取り返しがつかなくなる」
司令官は地図から視線を離した。
「民間人の退避状況を報告しろ」
「現在、第一指定区域で移送を実施中です。地方行政庁と軍警察が交通整理に当たっています。病院の入院患者については、優先移送を開始しました」
「列車は?」
「南部方面への臨時便が二本追加されています。ただし、駅周辺で混雑が発生しています」
司令官は頷いた。
「輸送を止めるな。必要なら軍の輸送能力も回せ。ただし、軍用車両を優先するために救急搬送を妨げるようなことはするな」
「了解しました」
司令官はしばらく黙っていた。
その脳裏には、五月十七日の銃撃事件が浮かんでいた。
あの日、国境監視所は所属不明の武装集団から銃撃を受けた。
負傷者は出たが、事件は局地的なものに留まった。
その後の調査でも、連邦共和国軍が直接関与したという確証は得られていない。
しかし、世論は必ずしも事実の確認を待ってはくれなかった。
新聞は強い見出しを掲げ、議会では強硬論が勢いを増していた。
連邦共和国側でも、帝国軍の部隊増強が脅威として報じられているという。
双方が相手の行動を恐れ、その恐怖に備えようとしている。
司令官は深く息を吐いた。
「……戦争の準備をしているつもりが、戦争を呼び込むこともある」
その言葉に答える者はいなかった。
午前七時二分。
クロウ家の屋敷では、最後の荷物が車両へ積み込まれていた。
レイブンは玄関の階段に立ち、庭園を眺めていた。
春には色とりどりの花が咲いていた花壇も、雨に濡れて静まり返っている。
父と走った芝生。
ルナと遊んだ木陰。
そして、以前、父が片手で身体を支えながら自分の走り方を見てくれた長椅子。
すべてが、いつも通りそこにあった。
ただ、自分たちだけが去ろうとしていた。
「……レイブン」
背後から父の声がした。
ヴァルターは旅行用の外套を羽織り、左手に杖を持っていた。
「荷物は全部持ったか?」
「……うん」
「忘れ物は?」
「たぶん、ない」
ヴァルターは少年の表情を見た。
「……寂しいか?」
レイブンは少し俯いた。
「……うん」
ヴァルターは隣へ歩み寄った。
少年の黒い尻尾が、力なく下がっている。
「この家、好きだから」
「ああ。父さんも好きだ」
「……また帰ってこられる?」
ヴァルターは庭園へ目を向けた。
雨粒が木々の葉を伝い、地面へ落ちている。
「帰ってくるつもりだ」
そして、息子へ視線を戻した。
「ただし、今はここに残るより、安全な場所へ行くことが大切だ」
レイブンは小さく頷いた。
「……家を守らなくていいの?」
ヴァルターは少し驚いたように少年を見た。
「どうしてそう思う?」
「だって、父さんは、守ることが大切だって言ってたから」
ヴァルターはしばらく黙っていた。
そして、少年の前に膝を折った。
「レイブン。家を守ることと、家族を守ることは、いつも同じではないんだ」
「……違うの?」
「ああ。建物は壊れたとしても、いつか直せるかもしれない。だが、人の命はそうはいかない」
レイブンは父の顔を見つめた。
「父さんが一番守りたいのは、この屋敷じゃない」
ヴァルターは左手で息子の肩へ触れた。
「お前とルナ、それから母さんだ」
少年はしばらく考えていた。
やがて、小さく頷いた。
「……分かった」
「それに、逃げることは恥ずかしいことじゃない」
ヴァルターは続けた。
「危険を避けて、生き延びる。それも大切な判断だ」
レイブンは少しだけ顔を上げた。
「……父さんも、逃げたことある?」
ヴァルターは一瞬、言葉を止めた。
異界の記憶が胸をよぎった。
暗い森。
崩れた石造りの建物。
負傷した仲間を支えながら、夜明けまで歩き続けた山道。
そして、戻ることのできなかった者たち。
「……ある」
彼は静かに答えた。
「何度もある」
レイブンは目を見開いた。
「……父さんも?」
「ああ。生きて帰るために、退かなければならない時がある」
ヴァルターは微笑んだ。
「それを覚えておきなさい」
少年は真剣に頷いた。
「……うん」
その時、玄関の向こうからセレナの声が聞こえた。
「あなた、レイブン。そろそろ出発ですよ」
ヴァルターは立ち上がった。
「行こうか」
レイブンはもう一度だけ屋敷を振り返った。
そして、父の左手を握った。
「……うん」
午前七時十四分。
クロウ家の車列が屋敷を出発した。
先頭の連絡車両が門を抜け、続いて家族を乗せた乗用車がゆっくりと動き出す。
後部座席では、レイブンが窓に顔を近づけていた。
石造りの門柱。
黒鴉の紋章。
そして、雨に霞む屋敷の屋根。
車が曲がり角を抜けると、その姿は木々の向こうへ消えていった。
レイブンはしばらく窓を見つめていた。
隣ではルナが母の腕に寄り添い、人形を抱えている。
セレナは娘の頭を撫でながら、窓の外へ視線を向けていた。
助手席に座るヴァルターは、前方の道路を見つめている。
しばらくして、レイブンが口を開いた。
「……父さん」
「何だ?」
「……避難する人、いっぱいいるね」
道路には、多くの車両が並んでいた。
家財道具を積んだ乗用車。
荷台を幌で覆った小型貨物車。
そして、地方行政庁が手配した大型バス。
歩道には、鞄を抱えた人々が列を作っている。
幼い子供の手を引く母親。
杖をついた老人。
大きな荷物を背負った若者。
皆、南へ向かおうとしていた。
「ああ」
ヴァルターは答えた。
「この辺りの人たちも、同じように避難しているんだ」
レイブンは窓の外を見つめた。
「……みんな、帰ってこられるといいね」
ヴァルターは少しだけ振り返った。
「……そうだな」
車列は街の中心部へ近づいた。
普段なら賑やかな商店街も、今日は様子が違っていた。
いくつもの店がシャッターを下ろし、窓には休業を知らせる紙が貼られている。
市場の一角では、地方行政庁の職員たちが避難案内を配っていた。
街角の掲示板には、指定避難所と臨時列車の時刻が記されている。
道路脇には帝国軍警察の車両が停車し、兵士たちが交通整理に当たっていた。
「南行きの車両は右側へ! 歩行者は誘導員の指示に従ってください!」
拡声器を持った兵士が声を張り上げる。
別の兵士は、車椅子に乗った老人を手伝っていた。
雨に濡れた軍服の肩から、水滴が流れ落ちている。
その近くでは、一人の女性が幼い子供を抱え、困り果てた表情で立っていた。
「すみません! 駅へ行くには、どちらへ……」
女性の声は、車のエンジン音と人々の話し声にかき消されそうになっていた。
レイブンは窓の外へ目を向けた。
「……父さん」
ヴァルターも気づいていた。
「どうした?」
「あの人、困ってる」
女性は荷物を抱え直しながら、周囲を見回していた。
ヴァルターは運転手へ声を掛けた。
「少し停められるか?」
「はい。前方の待避場所へ入ります」
車は交通の妨げにならない場所へ寄せられた。
ヴァルターは左手で扉を開き、杖を使って車外へ降りた。
雨が外套の肩を濡らした。
「失礼。何かお困りですか?」
女性が振り返った。
「あ……軍の方ですか?」
「帝国軍のヴァルター・クロウ少佐です。現在は療養中ですが」
彼は穏やかに答えた。
「駅をお探しですか?」
「はい。避難列車に乗るよう言われたのですが、道路が封鎖されていて……」
女性は抱いている子供を見下ろした。
「夫は仕事で別の地区にいて、連絡が取れなくて……」
ヴァルターは周囲を確認した。
すぐ近くには、地方行政庁の臨時案内所が設けられていた。
「分かりました。あちらで避難列車への案内を受けられるはずです」
彼は女性と一緒に案内所へ向かった。
職員へ事情を説明すると、女性は駅行きの連絡バスへ案内された。
「ありがとうございます……!」
女性は何度も頭を下げた。
ヴァルターは静かに首を振った。
「お気をつけて。ご家族と無事に合流できることを願っています」
女性は子供を抱き直し、案内所の職員について歩いていった。
ヴァルターが車へ戻ると、レイブンが嬉しそうに笑っていた。
「父さん、助けてあげたんだね!」
「案内しただけだよ」
「でも、あの人、嬉しそうだった」
ヴァルターは助手席へ戻りながら微笑んだ。
「……それなら良かった」
レイブンは窓の外へ視線を向けた。
案内所では、別の職員が避難者たちへ説明を続けている。
少年はその光景を、静かに見つめていた。
午前九時四十一分。
連邦共和国北西軍管区。
国境から数十キロメートル離れた野戦指揮所では、共和国軍の将校たちが朝の報告を受けていた。
共和国軍の制服は帝国軍のものとは異なり、厚手の野戦服と実用性を重視した装備が中心だった。
壁には国境一帯の地図が掲げられ、帝国軍の部隊配置を示す標識が並んでいる。
「帝国側で民間人の退避が進んでいます」
若い情報士官が報告した。
「国境南側の道路で、避難車両の増加を確認しています」
指揮官の大佐は地図を見つめた。
「軍の移動と混同するな。確認できたものだけを報告しろ」
「了解しました」
別の将校が口を開いた。
「帝国軍は、我々の演習を侵攻準備と受け取っているのでしょうか」
「そうかもしれん」
大佐は答えた。
「だが、我々も向こうの部隊増強を見て、同じことを考えている」
将校たちは黙った。
大佐は椅子へ腰を下ろした。
「国境での接触は避けろ。偵察部隊には、相手を刺激する行動を控えるよう伝えろ」
「しかし、大佐。帝国軍が先に行動した場合は?」
「正当な自衛まで禁じるつもりはない。だが、誤認による発砲は許さん」
大佐は机の上に置かれた家族写真へ一瞬だけ目を向けた。
写真には、妻と二人の子供が写っている。
彼は低い声で続けた。
「向こうにも、家族を待たせている兵士がいる」
その言葉に、若い士官が顔を上げた。
「……はい」
「我々の任務は国境を守ることだ。戦争を始めることではない」
大佐は地図へ視線を戻した。
「それを忘れるな」
共和国側でも、緊張は確実に高まっていた。
しかし、そこにいる兵士たち全員が戦争を望んでいるわけではなかった。
国境線を挟んで向かい合う二つの軍隊。
互いの姿は、監視装置の画面や報告書の数字としてしか見えない。
その向こうにいる人間の生活まで、想像できる者は多くなかった。
午前十一時二十六分。
クロウ家の車列は、ヴァイス川に架かる大橋へ差しかかっていた。
空は少しずつ明るくなり、雨は小降りになっていた。
橋の上では、避難車両が長い列を作っている。
大型バスの窓には、不安そうな顔が並んでいた。
川面には灰色の雲が映り、上流から流れてきた木の枝がゆっくりと橋脚の間を通り抜けていく。
レイブンは窓の外を見つめた。
「……父さん」
「何だ?」
「ここ、前に地図で見た川だよね?」
ヴァルターは顔を向けた。
「よく覚えていたな。ヴァイス川だ」
「……本物は、すごく大きいね」
「ああ。地図で見るのと、実際に見るのとでは違うだろう」
少年は頷いた。
その時だった。
遠くから、低い轟音が聞こえてきた。
最初は雷かと思った。
しかし、音は途切れることなく続き、次第に大きくなっていった。
レイブンの黒い猫耳が反射的に動いた。
「……何の音?」
ヴァルターは窓の外へ目を向けた。
雲の切れ間から、複数の航空機が姿を現した。
灰色の機体。
後退翼。
機体下面には増槽が取り付けられ、翼下には訓練用ではない装備が確認できた。
帝国空軍の戦闘機だった。
四機編隊が、一定の間隔を保ちながら南西方向へ飛行している。
低い雲の下を通過した機体は、翼をわずかに傾け、やがて雲の向こうへ消えていった。
レイブンは目を輝かせた。
「……飛行機!」
ルナも顔を上げた。
「……ひこうき!」
セレナは二人を見つめながら微笑んだが、その表情には不安が残っていた。
ヴァルターは機影が消えた方向を見つめていた。
戦闘機が飛ぶこと自体は、珍しいことではない。
しかし、国境地帯の警戒態勢が強化されている今、その飛行には以前とは違う意味があった。
「……父さん?」
レイブンが尋ねた。
「どうして、あんなにいっぱい飛んでるの?」
ヴァルターは少し考えた。
「空の安全を確かめるためだろう」
「……誰か、悪い人が来るの?」
「そうとは限らない」
ヴァルターは答えた。
「空にも、国境がある。知らない航空機が近づいた時、何者なのかを確認する必要があるんだ」
少年は頷いた。
「……じゃあ、守ってるんだね」
「ああ」
ヴァルターは静かに答えた。
「だが、できれば何事もなく帰ってきてほしいものだ」
レイブンはもう一度、空を見上げた。
雲の向こうに消えた戦闘機の姿は、もう見えなかった。
ただ、遠くで響くエンジン音だけが、しばらく耳に残っていた。
午後一時四十八分。
帝国北部方面軍航空管制所。
監視レーダーの画面には、複数の航空機を示す光点が映っていた。
管制官が通信機へ声を掛ける。
「こちら北部航空管制。第六警戒飛行隊、現在位置を報告せよ」
『第六警戒飛行隊、こちらリーダー。指定空域へ到達。視界は雲量の影響を受けているが、飛行に支障なし』
「了解。警戒飛行を継続。国境線への接近に注意せよ」
『了解』
管制官は画面を確認した。
帝国側の航空機は、定められた空域を飛行している。
その北側では、連邦共和国軍の航空機とみられる反応が確認されていた。
双方の距離は、徐々に縮まりつつあった。
「……共和国側も上げてきたか」
隣の管制官が呟いた。
「まだ国境は越えていない」
主任管制官は落ち着いた声で答えた。
「警戒を続けろ。不要な接近を避けるよう伝えるんだ」
通信機から、戦闘機の操縦士の声が聞こえた。
『リーダーより管制。北方に複数の航空機を視認。識別を継続する』
「了解。相手の行動を監視せよ。こちらから挑発するな」
『了解した』
数分後。
両軍の航空機は、国境線を挟んで互いの存在を確認した。
帝国軍の操縦士は、遠くに見える
第17話 再開始【内容そのまま/増補指示】
1m 1s考えました
調査した第一次大戦設定と自然描写
黒鴉年代記 — NEXT v2.4
第一部 戦火に生きる者たち
第二章 帝国に迫る戦雲
第17話 故郷を離れる日
帝政歴三三五年、六月七日。
午前五時二十三分。
夜明け前のヴァイスベルク地方には、前日から降り続く雨が残っていた。
クロウ家の屋敷を囲む石塀は黒く濡れ、庭園の芝生には細かな水滴が浮かんでいる。東の空には低い層雲が広がり、その切れ間からわずかに青白い光が差し込んでいた。
いつもなら、庭師が花壇の手入れを始める時間だった。
しかし、この朝、屋敷の前庭には庭師の姿がなかった。
代わりに停車していたのは、三台の自動車だった。
先頭には帝国軍の連絡車両。後方にはクロウ家所有の大型乗用車と、荷物を積んだ輸送車が並んでいる。
使用人たちは雨除けの外套を着込み、玄関と車両の間を忙しく行き来していた。
玄関ホールでは、ヴァルター・A・クロウが一通の公文書を読み返していた。
書類の上部には、ヴァイスベルク地方行政庁と帝国軍北部方面軍の連名による印章が押されている。
民間人保護に伴う指定区域住民の段階的避難命令。
その文字を見つめるヴァルターの表情は、厳しかった。
前日午後、地方行政庁は国境に近い複数の地区を対象として、住民の計画的な退避を命じていた。クロウ家の屋敷がある地区も、その対象に含まれていた。
戦争が始まったわけではない。
帝国と連邦共和国は、依然として外交交渉を続けている。
だが、国境付近の軍事的緊張が高まり、民間人をそのまま居住させておくことは適切ではないと判断されたのだった。
ヴァルターは書類を畳み、左手で上着の内ポケットへ収めた。
「車両の準備は?」
傍らにいた執事が答えた。
「すべて完了しております。燃料、予備の飲料水、医薬品も確認済みです。先行した使用人から、避難先の受け入れ準備が整ったとの連絡が入りました」
「道路の状況は?」
「南へ向かう幹線道路は混雑しておりますが、現在のところ通行可能です。ただし、一部の橋梁で交通規制が始まっております」
ヴァルターは頷いた。
「予定より早く出発しよう。交通規制が変わる前に、街の南側へ抜けたい」
「承知いたしました」
執事が一礼して立ち去ると、ヴァルターは静かに玄関の扉を見つめた。
十数年前、この屋敷へ初めてセレナを連れてきた日のことを思い出した。
彼女は広い庭園を見て驚き、それから少し困ったように笑っていた。
『こんな立派なお屋敷で、私が暮らしてもいいのでしょうか』
あの時、ヴァルターは答えた。
『君がいてくれなければ、ただの大きな建物だ』
その言葉を、今でも覚えている。
やがてレイブンが生まれ、ルナが生まれた。
屋敷の廊下には子供たちの足音が響くようになり、静かだった食堂は毎朝賑やかになった。
自分が異界から帰還した時も、家族はここで迎えてくれた。
ヴァルターは失われた右肩へ視線を落とした。
帰る場所があるということの重みを、彼ほど強く感じている者は少ないかもしれなかった。
「……あなた」
背後から声がした。
振り返ると、セレナが階段を下りてくるところだった。
白い猫耳の下で、普段は柔らかな表情を浮かべている彼女も、今朝ばかりは疲れを隠せていなかった。
「子供たちは?」
「レイブンは起きています。ルナは、まだ少し眠そうですけれど」
「そうか」
セレナは夫の隣へ歩み寄った。
「本当に、今日出発するのですね」
「ああ」
ヴァルターは短く答えた。
彼女は玄関の向こうへ視線を向けた。
「昨日まで、まだ時間があると思っていました」
「私もだ」
「……戻ってこられますよね」
ヴァルターはすぐに答えなかった。
軽々しく約束できることではなかった。
国境情勢は不安定で、これから何が起こるのか、軍の関係者である彼にも分からない。
それでも、妻が求めているのは、未来を保証する言葉ではないと理解していた。
「戻れるようにする」
ヴァルターは左手で妻の手を握った。
「屋敷の管理は残る職員と警備担当に任せる。私たちはまず、子供たちを安全な場所へ連れていく」
セレナは小さく頷いた。
「……はい」
彼女は夫の右肩へ一瞬だけ目を向けた。
「それから、あなたもです」
「私も?」
「あなたも、無理をなさらないでください。軍から何か頼まれても、今の身体でできないことまで引き受けないで」
ヴァルターは苦笑した。
「……耳が痛いな」
「耳が痛いだけで済ませないでくださいね」
「分かった。約束する」
その返事を聞いて、セレナはようやく少し笑った。
同じ頃、屋敷の二階では、レイブン・S・クロウが自分の部屋を見渡していた。
七歳の少年にとって、そこは世界の中心だった。
窓際には、幼い頃から使っている小さな机がある。
壁には、父が旅先から持ち帰った地図が掛けられていた。
本棚には、何度も読み返した物語の本が並んでいる。
そして机の上には、祖父アルベルトから贈られた歴史地理書と、小さな木箱が置かれていた。
レイブンは木箱を開いた。
中に収められていたのは、黒鴉の徽章だった。
金属製の小さな鳥は、両翼を広げている。
裏面には、祖父から教わった言葉が刻まれていた。
――名誉より責任を。
レイブンは指先で文字をなぞった。
祖父は、この徽章を今すぐ身につける必要はないと言っていた。
クロウ家の名を背負うことは、誰かに命じられて決めるものではない。
自分で考え、自分で選ぶことが大切なのだと。
少年は木箱を閉じ、鞄の奥へしまった。
その隣には、祖母ヘレーネからの手紙が入っている。
そして、もう一冊。
毎日少しずつ書き続けてきた日記帳。
レイブンはそれを手に取った。
表紙の角は少し擦れていたが、中の頁には、父が異界へ向かった日のことも、帰ってきた日のことも書かれている。
少年は日記帳を鞄へ入れようとして、ふと手を止めた。
部屋の隅に、木製の小さな箱があった。
以前、父と一緒に作ったものだった。
釘を打つのが難しく、何度も曲げてしまった。
それでも、父は怒らずに教えてくれた。
『急がなくていい。最初から上手にできる人間なんていない』
レイブンは箱へ歩み寄り、そっと持ち上げた。
鞄には、もうあまり余裕がない。
しばらく迷った後、少年は箱を元の場所へ戻した。
「……また、帰ってきたら」
そう呟いた時、廊下から小さな足音が聞こえた。
「……おにいちゃん?」
振り返ると、ルナが扉の前に立っていた。
白い猫耳は少し寝癖で曲がり、両手にはお気に入りの人形を抱えている。
「ルナ。起きたの?」
「……うん」
妹は部屋の中を見回した。
「……おへや、なくなる?」
レイブンは目を瞬かせた。
「え?」
「……おでかけしたら、なくなる?」
少年は妹の言葉を理解すると、ゆっくり首を振った。
「なくならないよ。ここは、ずっと僕たちの家だよ」
ルナは不安そうに兄を見上げた。
「……ほんと?」
「うん。だから、また帰ってこよう」
レイブンは妹の前にしゃがんだ。
「ルナのお人形も、一緒に連れていこうね」
ルナは人形を強く抱きしめた。
「……おにいちゃんも?」
「もちろん」
「……おとうさんも?」
「うん」
「……おかあさんも?」
レイブンは笑った。
「みんな一緒だよ」
ルナはようやく安心したように笑い、兄の首へ抱きついた。
レイブンは少しよろめきながらも、妹を抱き留めた。
窓の外では、雨が静かに降り続いていた。
午前六時十八分。
帝国北部方面軍、ヴァイスベルク地方防衛司令所。
作戦室の壁面には、国境一帯の地図が掲げられていた。
将校たちは交代で報告を受け取り、確認された情報を地図へ反映している。
帝国側の部隊を示す赤い標識と、連邦共和国側の配置を示す青い標識が、国境線を挟んで並んでいた。
情報将校が通信記録を読み上げた。
「北東監視区域において、連邦共和国軍の車両移動を確認。装輪車両および履帯式車両が混在しています。部隊規模は現在分析中です」
防衛司令官は地図を見つめた。
「昨日の配置と比較してくれ」
「はい。こちらが昨日二十時時点の情報です」
将校は地図上の標識を移動させた。
「一部の部隊が南側へ移動しています。ただし、演習区域内での配置転換である可能性も残っています」
「砲兵は?」
「複数の火砲を確認していますが、射撃準備を示す確証はありません」
司令官は腕を組んだ。
「連邦側からの回答は?」
「昨夜の外交照会に対し、通常の軍事演習であり、帝国への攻撃を意図したものではないとの説明がありました」
別の将校が口を開いた。
「信用できるのでしょうか」
司令官は彼を見た。
「信用するかどうかと、確認できた事実は分けて考えろ」
将校は姿勢を正した。
「失礼しました」
「疑うことは必要だ。しかし、疑いだけで部隊を動かせば、相手も同じことをする。そうして互いに銃口を向け続ければ、誰か一人の判断ミスで取り返しがつかなくなる」
司令官は地図から視線を離した。
「民間人の退避状況を報告しろ」
「現在、第一指定区域で移送を実施中です。地方行政庁と軍警察が交通整理に当たっています。病院の入院患者については、優先移送を開始しました」
「列車は?」
「南部方面への臨時便が二本追加されています。ただし、駅周辺で混雑が発生しています」
司令官は頷いた。
「輸送を止めるな。必要なら軍の輸送能力も回せ。ただし、軍用車両を優先するために救急搬送を妨げるようなことはするな」
「了解しました」
司令官はしばらく黙っていた。
その脳裏には、五月十七日の銃撃事件が浮かんでいた。
あの日、国境監視所は所属不明の武装集団から銃撃を受けた。
負傷者は出たが、事件は局地的なものに留まった。
その後の調査でも、連邦共和国軍が直接関与したという確証は得られていない。
しかし、世論は必ずしも事実の確認を待ってはくれなかった。
新聞は強い見出しを掲げ、議会では強硬論が勢いを増していた。
連邦共和国側でも、帝国軍の部隊増強が脅威として報じられているという。
双方が相手の行動を恐れ、その恐怖に備えようとしている。
司令官は深く息を吐いた。
「……戦争の準備をしているつもりが、戦争を呼び込むこともある」
その言葉に答える者はいなかった。
午前七時二分。
クロウ家の屋敷では、最後の荷物が車両へ積み込まれていた。
レイブンは玄関の階段に立ち、庭園を眺めていた。
春には色とりどりの花が咲いていた花壇も、雨に濡れて静まり返っている。
父と走った芝生。
ルナと遊んだ木陰。
そして、以前、父が片手で身体を支えながら自分の走り方を見てくれた長椅子。
すべてが、いつも通りそこにあった。
ただ、自分たちだけが去ろうとしていた。
「……レイブン」
背後から父の声がした。
ヴァルターは旅行用の外套を羽織り、左手に杖を持っていた。
「荷物は全部持ったか?」
「……うん」
「忘れ物は?」
「たぶん、ない」
ヴァルターは少年の表情を見た。
「……寂しいか?」
レイブンは少し俯いた。
「……うん」
ヴァルターは隣へ歩み寄った。
少年の黒い尻尾が、力なく下がっている。
「この家、好きだから」
「ああ。父さんも好きだ」
「……また帰ってこられる?」
ヴァルターは庭園へ目を向けた。
雨粒が木々の葉を伝い、地面へ落ちている。
「帰ってくるつもりだ」
そして、息子へ視線を戻した。
「ただし、今はここに残るより、安全な場所へ行くことが大切だ」
レイブンは小さく頷いた。
「……家を守らなくていいの?」
ヴァルターは少し驚いたように少年を見た。
「どうしてそう思う?」
「だって、父さんは、守ることが大切だって言ってたから」
ヴァルターはしばらく黙っていた。
そして、少年の前に膝を折った。
「レイブン。家を守ることと、家族を守ることは、いつも同じではないんだ」
「……違うの?」
「ああ。建物は壊れたとしても、いつか直せるかもしれない。だが、人の命はそうはいかない」
レイブンは父の顔を見つめた。
「父さんが一番守りたいのは、この屋敷じゃない」
ヴァルターは左手で息子の肩へ触れた。
「お前とルナ、それから母さんだ」
少年はしばらく考えていた。
やがて、小さく頷いた。
「……分かった」
「それに、逃げることは恥ずかしいことじゃない」
ヴァルターは続けた。
「危険を避けて、生き延びる。それも大切な判断だ」
レイブンは少しだけ顔を上げた。
「……父さんも、逃げたことある?」
ヴァルターは一瞬、言葉を止めた。
異界の記憶が胸をよぎった。
暗い森。
崩れた石造りの建物。
負傷した仲間を支えながら、夜明けまで歩き続けた山道。
そして、戻ることのできなかった者たち。
「……ある」
彼は静かに答えた。
「何度もある」
レイブンは目を見開いた。
「……父さんも?」
「ああ。生きて帰るために、退かなければならない時がある」
ヴァルターは微笑んだ。
「それを覚えておきなさい」
少年は真剣に頷いた。
「……うん」
その時、玄関の向こうからセレナの声が聞こえた。
「あなた、レイブン。そろそろ出発ですよ」
ヴァルターは立ち上がった。
「行こうか」
レイブンはもう一度だけ屋敷を振り返った。
そして、父の左手を握った。
「……うん」
午前七時十四分。
クロウ家の車列が屋敷を出発した。
先頭の連絡車両が門を抜け、続いて家族を乗せた乗用車がゆっくりと動き出す。
後部座席では、レイブンが窓に顔を近づけていた。
石造りの門柱。
黒鴉の紋章。
そして、雨に霞む屋敷の屋根。
車が曲がり角を抜けると、その姿は木々の向こうへ消えていった。
レイブンはしばらく窓を見つめていた。
隣ではルナが母の腕に寄り添い、人形を抱えている。
セレナは娘の頭を撫でながら、窓の外へ視線を向けていた。
助手席に座るヴァルターは、前方の道路を見つめている。
しばらくして、レイブンが口を開いた。
「……父さん」
「何だ?」
「……避難する人、いっぱいいるね」
道路には、多くの車両が並んでいた。
家財道具を積んだ乗用車。
荷台を幌で覆った小型貨物車。
そして、地方行政庁が手配した大型バス。
歩道には、鞄を抱えた人々が列を作っている。
幼い子供の手を引く母親。
杖をついた老人。
大きな荷物を背負った若者。
皆、南へ向かおうとしていた。
「ああ」
ヴァルターは答えた。
「この辺りの人たちも、同じように避難しているんだ」
レイブンは窓の外を見つめた。
「……みんな、帰ってこられるといいね」
ヴァルターは少しだけ振り返った。
「……そうだな」
車列は街の中心部へ近づいた。
普段なら賑やかな商店街も、今日は様子が違っていた。
いくつもの店がシャッターを下ろし、窓には休業を知らせる紙が貼られている。
市場の一角では、地方行政庁の職員たちが避難案内を配っていた。
街角の掲示板には、指定避難所と臨時列車の時刻が記されている。
道路脇には帝国軍警察の車両が停車し、兵士たちが交通整理に当たっていた。
「南行きの車両は右側へ! 歩行者は誘導員の指示に従ってください!」
拡声器を持った兵士が声を張り上げる。
別の兵士は、車椅子に乗った老人を手伝っていた。
雨に濡れた軍服の肩から、水滴が流れ落ちている。
その近くでは、一人の女性が幼い子供を抱え、困り果てた表情で立っていた。
「すみません! 駅へ行くには、どちらへ……」
女性の声は、車のエンジン音と人々の話し声にかき消されそうになっていた。
レイブンは窓の外へ目を向けた。
「……父さん」
ヴァルターも気づいていた。
「どうした?」
「あの人、困ってる」
女性は荷物を抱え直しながら、周囲を見回していた。
ヴァルターは運転手へ声を掛けた。
「少し停められるか?」
「はい。前方の待避場所へ入ります」
車は交通の妨げにならない場所へ寄せられた。
ヴァルターは左手で扉を開き、杖を使って車外へ降りた。
雨が外套の肩を濡らした。
「失礼。何かお困りですか?」
女性が振り返った。
「あ……軍の方ですか?」
「帝国軍のヴァルター・クロウ少佐です。現在は療養中ですが」
彼は穏やかに答えた。
「駅をお探しですか?」
「はい。避難列車に乗るよう言われたのですが、道路が封鎖されていて……」
女性は抱いている子供を見下ろした。
「夫は仕事で別の地区にいて、連絡が取れなくて……」
ヴァルターは周囲を確認した。
すぐ近くには、地方行政庁の臨時案内所が設けられていた。
「分かりました。あちらで避難列車への案内を受けられるはずです」
彼は女性と一緒に案内所へ向かった。
職員へ事情を説明すると、女性は駅行きの連絡バスへ案内された。
「ありがとうございます……!」
女性は何度も頭を下げた。
ヴァルターは静かに首を振った。
「お気をつけて。ご家族と無事に合流できることを願っています」
女性は子供を抱き直し、案内所の職員について歩いていった。
ヴァルターが車へ戻ると、レイブンが嬉しそうに笑っていた。
「父さん、助けてあげたんだね!」
「案内しただけだよ」
「でも、あの人、嬉しそうだった」
ヴァルターは助手席へ戻りながら微笑んだ。
「……それなら良かった」
レイブンは窓の外へ視線を向けた。
案内所では、別の職員が避難者たちへ説明を続けている。
少年はその光景を、静かに見つめていた。
午前九時四十一分。
連邦共和国北西軍管区。
国境から数十キロメートル離れた野戦指揮所では、共和国軍の将校たちが朝の報告を受けていた。
共和国軍の制服は帝国軍のものとは異なり、厚手の野戦服と実用性を重視した装備が中心だった。
壁には国境一帯の地図が掲げられ、帝国軍の部隊配置を示す標識が並んでいる。
「帝国側で民間人の退避が進んでいます」
若い情報士官が報告した。
「国境南側の道路で、避難車両の増加を確認しています」
指揮官の大佐は地図を見つめた。
「軍の移動と混同するな。確認できたものだけを報告しろ」
「了解しました」
別の将校が口を開いた。
「帝国軍は、我々の演習を侵攻準備と受け取っているのでしょうか」
「そうかもしれん」
大佐は答えた。
「だが、我々も向こうの部隊増強を見て、同じことを考えている」
将校たちは黙った。
大佐は椅子へ腰を下ろした。
「国境での接触は避けろ。偵察部隊には、相手を刺激する行動を控えるよう伝えろ」
「しかし、大佐。帝国軍が先に行動した場合は?」
「正当な自衛まで禁じるつもりはない。だが、誤認による発砲は許さん」
大佐は机の上に置かれた家族写真へ一瞬だけ目を向けた。
写真には、妻と二人の子供が写っている。
彼は低い声で続けた。
「向こうにも、家族を待たせている兵士がいる」
その言葉に、若い士官が顔を上げた。
「……はい」
「我々の任務は国境を守ることだ。戦争を始めることではない」
大佐は地図へ視線を戻した。
「それを忘れるな」
共和国側でも、緊張は確実に高まっていた。
しかし、そこにいる兵士たち全員が戦争を望んでいるわけではなかった。
国境線を挟んで向かい合う二つの軍隊。
互いの姿は、監視装置の画面や報告書の数字としてしか見えない。
その向こうにいる人間の生活まで、想像できる者は多くなかった。
午前十一時二十六分。
クロウ家の車列は、ヴァイス川に架かる大橋へ差しかかっていた。
空は少しずつ明るくなり、雨は小降りになっていた。
橋の上では、避難車両が長い列を作っている。
大型バスの窓には、不安そうな顔が並んでいた。
川面には灰色の雲が映り、上流から流れてきた木の枝がゆっくりと橋脚の間を通り抜けていく。
レイブンは窓の外を見つめた。
「……父さん」
「何だ?」
「ここ、前に地図で見た川だよね?」
ヴァルターは顔を向けた。
「よく覚えていたな。ヴァイス川だ」
「……本物は、すごく大きいね」
「ああ。地図で見るのと、実際に見るのとでは違うだろう」
少年は頷いた。
その時だった。
遠くから、低い轟音が聞こえてきた。
最初は雷かと思った。
しかし、音は途切れることなく続き、次第に大きくなっていった。
レイブンの黒い猫耳が反射的に動いた。
「……何の音?」
ヴァルターは窓の外へ目を向けた。
雲の切れ間から、複数の航空機が姿を現した。
灰色の機体。
後退翼。
機体下面には増槽が取り付けられ、翼下には訓練用ではない装備が確認できた。
帝国空軍の戦闘機だった。
四機編隊が、一定の間隔を保ちながら南西方向へ飛行している。
低い雲の下を通過した機体は、翼をわずかに傾け、やがて雲の向こうへ消えていった。
レイブンは目を輝かせた。
「……飛行機!」
ルナも顔を上げた。
「……ひこうき!」
セレナは二人を見つめながら微笑んだが、その表情には不安が残っていた。
ヴァルターは機影が消えた方向を見つめていた。
戦闘機が飛ぶこと自体は、珍しいことではない。
しかし、国境地帯の警戒態勢が強化されている今、その飛行には以前とは違う意味があった。
「……父さん?」
レイブンが尋ねた。
「どうして、あんなにいっぱい飛んでるの?」
ヴァルターは少し考えた。
「空の安全を確かめるためだろう」
「……誰か、悪い人が来るの?」
「そうとは限らない」
ヴァルターは答えた。
「空にも、国境がある。知らない航空機が近づいた時、何者なのかを確認する必要があるんだ」
少年は頷いた。
「……じゃあ、守ってるんだね」
「ああ」
ヴァルターは静かに答えた。
「だが、できれば何事もなく帰ってきてほしいものだ」
レイブンはもう一度、空を見上げた。
雲の向こうに消えた戦闘機の姿は、もう見えなかった。
ただ、遠くで響くエンジン音だけが、しばらく耳に残っていた。
午後一時四十八分。
帝国北部方面軍航空管制所。
監視レーダーの画面には、複数の航空機を示す光点が映っていた。
管制官が通信機へ声を掛ける。
「こちら北部航空管制。第六警戒飛行隊、現在位置を報告せよ」
『第六警戒飛行隊、こちらリーダー。指定空域へ到達。視界は雲量の影響を受けているが、飛行に支障なし』
「了解。警戒飛行を継続。国境線への接近に注意せよ」
『了解』
管制官は画面を確認した。
帝国側の航空機は、定められた空域を飛行している。
その北側では、連邦共和国軍の航空機とみられる反応が確認されていた。
双方の距離は、徐々に縮まりつつあった。
「……共和国側も上げてきたか」
隣の管制官が呟いた。
「まだ国境は越えていない」
主任管制官は落ち着いた声で答えた。
「警戒を続けろ。不要な接近を避けるよう伝えるんだ」
通信機から、戦闘機の操縦士の声が聞こえた。
『リーダーより管制。北方に複数の航空機を視認。識別を継続する』
「了解。相手の行動を監視せよ。こちらから挑発するな」
『了解した』
数分後。
両軍の航空機は、国境線を挟んで互いの存在を確認した。
帝国軍の操縦士は、遠くに見える共和国軍機の輪郭を慎重に追っていた。
雲底の低い空域では、機体が薄い雲へ出入りするたびに視認性が変わる。雨雲の切れ間から差し込む日光が機体の金属面を照らし、一瞬だけ白い反射を生んだ。
『リーダー、こちら二番機。北東方向に二機を確認。距離は維持されています』
「了解。こちらも視認した。編隊を崩すな」
操縦士は計器へ視線を落とし、再び前方を確認した。
無線には管制所からの声が入った。
『第六警戒飛行隊、こちら北部航空管制。共和国側航空機は国境線の北側を飛行中。領空侵犯は確認されていない。現行の警戒任務を継続せよ』
「リーダー、了解。こちらから接近する意図はない」
共和国軍機もまた、一定の距離を保っていた。
両軍の操縦士は、互いの機体が武装していることを知っている。
それでも、武装していることと、攻撃を開始することは違った。
帝国軍の編隊長は、機体を水平に保ちながら北方を見た。
彼には妻と幼い娘がいた。
出撃前、娘は眠そうな顔で尋ねてきた。
『お父さん、今日は早く帰る?』
彼は笑って答えた。
『できるだけ早く帰るよ』
その約束を思い出した時、通信機から二番機の声が聞こえた。
『リーダー、共和国側の一機が旋回を開始』
「確認した。こちらは針路を維持する」
遠方の共和国軍機は緩やかに旋回し、国境線から離れていった。
もう一機も、それに続いた。
管制所から通信が入る。
『共和国側航空機、北方へ離脱中。追尾の必要なし』
「了解。警戒飛行を継続する」
編隊長は静かに息を吐いた。
何も起こらなかった。
この日の任務において、それは最も望ましい結果だった。
しかし、彼は知っていた。
明日も同じように終わる保証はない。
午後二時三十七分。
帝国北部、ヴァイスベルク南方の鉄道分岐駅。
駅構内には、普段とは比較にならないほど多くの人々が集まっていた。
待合室から溢れた避難者たちは、屋根のある通路や臨時に設置された天幕の下で列車を待っている。
構内放送が繰り返し流れていた。
『南部方面行き臨時避難列車をご利用のお客様にお知らせいたします。列車は現在、前方区間の運行調整を行っております。乗車案内があるまで、係員の指示に従ってお待ちください』
長いホームの向こうでは、旅客用の客車が数両連結されていた。
通常の通勤列車に加え、予備車両を使った臨時便が組まれている。
駅の別の線路には、帝国軍の補給物資を積んだ貨車が停車していた。
木箱を満載した有蓋貨車。
燃料輸送用のタンク車。
そして、整備用機材を積載した平貨車。
それらは北部方面軍の後方支援部隊へ送られる予定だったが、現在は民間人の避難輸送を優先するため、発車時刻が調整されていた。
駅長は運行指令所との電話を終えると、隣にいた鉄道職員へ声を掛けた。
「第三線の貨物列車は、もう少し待機させてくれ」
「軍の輸送担当から問い合わせが来ていますが」
「事情は説明する。今は避難列車を通す」
職員は頷いた。
「承知しました」
駅長はホームを見渡した。
幼い子供を抱えた女性がいた。
杖をついた老人がいた。
大きな荷物を足元に置き、疲れ切った表情で座り込んでいる家族もいた。
彼らにとって、この列車は単なる交通手段ではない。
住み慣れた土地を離れ、安全な場所へ向かうための、数少ない選択肢だった。
その頃、クロウ家の車列は駅から少し離れた南方の幹線道路を進んでいた。
雨は止み、雲の切れ間から淡い日差しが差し込んでいる。
道路脇の草原には、細かな水滴が残っていた。
レイブンは車窓から、遠くを走る列車を見つけた。
「……父さん、列車だ!」
ヴァルターは視線を向けた。
緩やかな曲線を描く線路の上を、長い客車列車が走っている。
「ああ。避難列車だろう」
「……あれにも、いっぱい人が乗ってるの?」
「そうだと思う」
レイブンはしばらく列車を見つめていた。
「……みんな、どこに行くのかな」
「南部の街や、親戚の家、行政庁が用意した避難施設などだろうな」
「……僕たちと同じだね」
「ああ。同じだ」
少年は窓に手を添えた。
列車は遠ざかり、やがて丘の向こうへ消えていった。
ヴァルターはその姿を見送りながら、軍に所属していた頃の輸送任務を思い出していた。
軍隊を動かすためには、兵士だけではなく、食料、燃料、弾薬、医療品、交換部品など、膨大な物資が必要になる。
鉄道は、その輸送を支える重要な手段だった。
しかし、今は違う。
線路を走る列車の多くが、家を離れなければならなくなった人々を運んでいる。
それは、軍事的緊張が兵士だけの問題ではなくなっていることを示していた。
午後四時十二分。
クロウ家の車列は、ヴァイスベルク地方の南端にある検問所へ到着した。
道路の両側には、帝国軍警察と地方警察の車両が停車していた。
検問所では、避難車両の登録確認と通行先の案内が行われている。
運転手が窓を下ろすと、雨具を羽織った軍警察の兵士が近づいてきた。
「身分証明書と避難許可書をお願いします」
運転手は書類を差し出した。
兵士は確認を進め、助手席に座るヴァルターへ視線を向けた。
「……クロウ少佐?」
ヴァルターは顔を上げた。
「そうだが」
兵士は姿勢を正した。
「失礼いたしました。北部方面軍から、お名前を伺っております」
「構わん。確認を続けてくれ」
兵士は少し驚いた表情を浮かべた。
「……よろしいのですか?」
「当然だ。今は私も避難する住民の一人だ」
ヴァルターは静かに答えた。
「手続きを省略する必要はない」
兵士は頷いた。
「承知しました」
書類の確認が終わると、兵士は通行証を返却した。
「問題ありません。南方の道路は現在通行可能です。ただし、次の分岐点から交通量が増えています。お気をつけて」
「ありがとう。君たちも気をつけてくれ」
「ありがとうございます、少佐」
車が再び動き始めた。
後部座席では、レイブンが父を見つめていた。
「……父さん」
「何だ?」
「さっきの兵隊さん、父さんのこと知ってたの?」
「名前を聞いたことがあったんだろう」
「……父さん、有名なの?」
ヴァルターは困ったように笑った。
「どうだろうな。少なくとも、偉そうにしていい理由にはならんよ」
レイブンは少し考えた。
「……でも、父さんは少佐なんでしょ?」
「ああ」
「……じゃあ、命令できるの?」
「私の指揮下にある部隊なら、任務に必要な命令を出すことはある」
ヴァルターは答えた。
「だが、階級が高いからといって、何でも好きにしていいわけではない」
レイブンは父を見つめた。
「……どうして?」
「軍人にも守らなければならない規則がある。それに、部下の命を預かる以上、命令には責任が伴う」
ヴァルターは少し間を置いた。
「命令を出すことより、出した命令の結果に責任を持つことの方が、ずっと難しいんだ」
レイブンは真剣な表情で頷いた。
父の言葉のすべてを理解できたわけではなかった。
それでも、少年は覚えておこうと思った。
午後五時四十九分。
帝国北部方面軍司令部。
作戦室では、夕刻の状況報告が行われていた。
「本日実施された民間人の第一段階避難について、報告します」
担当将校が書類を開いた。
「主要指定区域の住民移送は、おおむね計画通り進行しています。ただし、一部の地域では高齢者と入院患者の移送に時間を要しています」
司令官は頷いた。
「医療班の増援は?」
「手配済みです。必要に応じて救急車両を追加投入します」
「分かった」
別の将校が報告を続けた。
「国境付近では、共和国軍の地上部隊による大規模な移動が確認されています。ただし、現時点で帝国領内への侵入は確認されていません」
「航空部隊は?」
「午後の警戒飛行において共和国軍機との接近事案がありましたが、双方とも国境線を越えることなく離脱しました」
司令官は深く息を吐いた。
「……ひとまず、衝突は避けられたか」
「はい」
司令官は地図を見つめた。
国境線を挟んで、二つの軍隊が向かい合っている。
その間には、街があり、村があり、畑があり、家族の暮らしがある。
「外交交渉は?」
「継続中です。両国政府は、国境地帯での偶発的な衝突を防ぐため、軍当局間の連絡経路を維持する方針です」
司令官は頷いた。
「それだけは途切れさせるな」
そして、低い声で続けた。
「兵士が銃を持って向かい合っている時ほど、言葉を交わす手段が必要になる」
将校たちは静かに頷いた。
午後七時八分。
クロウ家の車列は、帝国中央部にある避難先の屋敷へ到着した。
そこはアルベルト・A・クロウが以前から管理していた、クロウ家の別邸だった。
北部の本邸ほど大きくはないが、周囲には森と小さな庭園が広がり、静かな環境に恵まれている。
門の前では、先に到着していた使用人たちが家族を迎えていた。
「お帰りなさいませ」
執事が頭を下げた。
「長旅、お疲れさまでございました」
ヴァルターは車を降りた。
長時間の移動で身体が少し強張っていたが、杖を使いながらゆっくりと立ち上がった。
「ありがとう。部屋の準備は?」
「すべて整っております」
「そうか。助かる」
セレナも車を降り、ルナを抱き上げた。
レイブンは別邸を見上げた。
「……ここが、今日からのお家?」
ヴァルターは頷いた。
「しばらくの間は、ここで暮らすことになる」
少年は建物を見つめた。
窓からは温かな灯りが漏れている。
玄関の脇には、雨に濡れた花壇があった。
見慣れない場所だった。
けれど、どこか落ち着いた雰囲気があった。
「……ルナ」
レイブンは妹へ声を掛けた。
「ここにも、お庭があるよ」
ルナは母の腕の中から庭園を見た。
「……おにわ?」
「うん。明日、見に行こう」
ルナは嬉しそうに頷いた。
「……いく!」
セレナは二人を見つめながら微笑んだ。
ヴァルターも、その様子を静かに見守っていた。
しかし、彼の胸には一つの不安が残っていた。
北部方面軍から届いている情報。
共和国軍の部隊移動。
そして、五月十七日の銃撃事件。
それらが、単なる偶然の積み重ねなのか。
それとも、より大きな何かの前触れなのか。
現時点では、誰にも断定できなかった。
午後八時二十一分。
クロウ家の別邸。
夕食を終えたレイブンは、新しい自室で荷物を整理していた。
窓際には小さな机があり、その上に祖父から贈られた歴史地理書を置いた。
続いて、日記帳を取り出す。
最後に、黒鴉の徽章を収めた木箱を机の引き出しへしまった。
少年は椅子に座り、日記帳を開いた。
『今日は、家を出た。
朝は雨が降っていた。
父さんと母さんとルナと、みんなで車に乗った。
街には、避難する人がたくさんいた。
父さんは、困っている人を助けていた。
大きな川を渡って、飛行機も見た。
それから、遠くで列車が走っていた。
父さんは、家を守ることと、家族を守ることは同じじゃないって言っていた。
僕は、まだよく分からない。
でも、父さんが大事なことを教えてくれたのは分かる。
早く、元の家に帰りたい。
みんなで、また庭で遊びたい。』
レイブンは万年筆を置いた。
そして、窓の外を見つめた。
別邸の庭園には、夕方まで降っていた雨の水滴が残っていた。
空には雲が広がっていたが、西の方角にはわずかな晴れ間が見えている。
遠くで、夜鳥の鳴き声が聞こえた。
少年は少しだけ寂しくなった。
いつもの部屋ではない。
いつもの庭でもない。
窓から見える景色も違う。
それでも、廊下の向こうからは母とルナの声が聞こえていた。
階下では、父が執事と話している。
家族は、みんなここにいる。
レイブンは小さく息を吐いた。
「……大丈夫」
そう呟き、日記帳を閉じた。
午後九時三十六分。
別邸の書斎。
ヴァルターは机に向かい、北部方面軍から届いた報告書を読んでいた。
予備役への移行に関する申請は既に提出していたが、正式な手続きはまだ完了していない。
現在も帝国軍少佐としての身分を保持しており、必要に応じて軍から連絡が入ることになっていた。
報告書には、国境地帯の最新情勢が記されていた。
共和国軍の部隊移動。
航空機の接近事案。
そして、民間人避難の進捗。
ヴァルターは左手で頁をめくった。
その時、書斎の扉が軽く叩かれた。
「……あなた」
セレナだった。
「まだ起きていたのですね」
「ああ。少し、報告書を確認していた」
セレナは夫の隣へ歩み寄った。
「……軍から、何か?」
「国境情勢についての定期報告だ」
ヴァルターは書類を閉じた。
「今のところ、大きな衝突は起きていない」
セレナは安堵したように息を吐いた。
「……そうですか」
そして、少し間を置いて尋ねた。
「これから、どうなるのでしょう」
ヴァルターは窓の外を見つめた。
庭園には夜の静けさが広がっている。
「……分からない」
彼は率直に答えた。
「だが、少なくとも今は、外交交渉が続いている。軍も、衝突を避けるための対応を取っている」
セレナは頷いた。
「……そうですね」
ヴァルターは妻へ顔を向けた。
「今日は、疲れただろう」
「ええ。でも、子供たちが無事に到着できて良かったです」
セレナは微笑んだ。
「レイブンは、少し寂しそうでしたけれど」
「そうだろうな」
ヴァルターは静かに頷いた。
「生まれてから、ずっとあの屋敷で暮らしてきたんだ」
「……ええ」
セレナは夫の左手へ、自分の手を重ねた。
「でも、あの子は頑張っています」
「ああ」
ヴァルターは微笑んだ。
「……私たちも、頑張らないとな」
セレナは静かに頷いた。
午後十時五十二分。
帝国北部国境監視所。
夜間勤務に就いていた兵士たちは、監視装置の画面を見つめていた。
国境線の向こうには、共和国軍の部隊が展開している。
遠くの道路では、車両の灯りがゆっくりと移動していた。
通信士が無線へ報告する。
「こちら北部監視所。共和国側道路において車両移動を確認。現時点で国境侵犯なし」
『了解。監視を継続せよ』
短い返答が聞こえた。
兵士は通信機を置いた。
隣にいた同僚が、窓の外へ視線を向けた。
「……静かだな」
「ああ」
「このまま、何も起きなきゃいいんだが」
兵士はしばらく黙っていた。
そして、静かに答えた。
「……そうだな」
遠くでは、共和国軍の車両がゆっくりと移動を続けていた。
国境線を挟んで、二つの軍隊が向かい合っている。
双方の兵士たちは、それぞれの任務を遂行していた。
そして、その背後には、守るべき家族と故郷があった。
帝政歴三三五年、六月七日。
クロウ家は、住み慣れた故郷を離れた。
それは、まだ戦争が始まる前の出来事だった。
しかし、この日の記憶は、レイブン・S・クロウの心に深く刻まれることになる。
故郷を守るために、故郷を離れなければならないことがある。
そして、生きて帰ることもまた、勇気を必要とする選択なのだ。
七歳の少年は、その意味を少しずつ学び始めていた。
夜の別邸には、静かな時間が流れていた。
レイブンは眠りにつき、ルナは母の腕の中で小さな寝息を立てている。
ヴァルターは書斎の灯りを消し、廊下へ出た。
家族のいる部屋へ向かいながら、彼は胸の中で静かに誓った。
今度こそ、家族を置いていかない。
守るべきものを、見失わない。
そして、どのような未来が訪れようとも、生きて帰る道を探し続ける。
遠くの国境では、夜間警戒の灯りが消えることなく輝いていた。
帝国と連邦共和国の緊張は、まだ解けていない。
だが、その夜、少なくとも一つの家族は、無事に新しい寝床へ辿り着いていた。
それは戦争の歴史には記されない、小さな出来事だった。
しかし、クロウ家にとっては、何よりも大切な一日だった。




