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黒鴉年代記 ~戦火を超えて、受け継がれる意志~  作者: @12
第一部:幼年期編 第二章 帝国に迫る戦雲
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第19話 境界線の向こうに生きる者たち

第19話 境界線の向こうに生きる者たち


 帝政歴三三五年、六月九日。

 午前五時四十二分。

 帝国北部、ヴァイスベルク地方第三監視区域。

 夜明け前の丘陵地帯には、前日から続く湿った風が吹いていた。

 低い雲が国境沿いの山々を覆い、谷間には薄い霧が残っている。雨に濡れた草地では、軍靴が地面を踏むたびに水が染み出し、斜面を下る細い排水溝には濁った水が流れていた。

 帝国軍第三監視所の警戒壕では、カール・ヴェーゲナー軍曹が夜間勤務の報告書を確認していた。

 前日の発砲事件から、まだ一日も経過していない。

 事件そのものは連邦共和国側の警備区域で発生したとみられていたが、武装集団の所属も、最初に発砲した人物も特定されていなかった。

 帝国軍は警戒を強化していた。

 ただし、部隊には明確な指示が出されている。

 確認されていない敵対行動を理由に発砲しないこと。国境を越えないこと。そして、監視対象と実際の脅威を混同しないこと。

「軍曹、交代班が到着しました」

 通信兵のオットー・ライナー上等兵が、濡れた外套を払いながら報告した。

「分かった。夜間の記録を引き継いでくれ」

「了解です」

 ヴェーゲナーは双眼鏡を手に取り、壕の前方を確認した。

 共和国側の道路には、数台の軍用車両が停車していた。

 昨日までと異なるのは、道路の一部に規制線が張られ、周辺を共和国軍の兵士たちが調査していることだった。

「……まだ現場を調べているらしいな」

 隣に立ったライナーが呟いた。

「負傷者が出ているからな。簡単には終わらんだろう」

「共和国軍の兵士なんですよね」

「ああ」

「……助かったんでしょうか」

 ヴェーゲナーは双眼鏡を下ろした。

「今のところ、命に別状はないという報告だ」

 ライナーは安堵したように息を吐いた。

「そうですか」

 軍曹はその横顔を見た。

「意外か?」

「何がです?」

「共和国軍の負傷者を心配していることだ」

 若い兵士は少し考えた。

「……自分でも、よく分かりません。でも、昨日の銃声を聞いた時、もし自分たちが撃たれていたらと思ったんです」

 彼は国境の向こうを見た。

「向こうの兵士も、同じように怖かったんじゃないかって」

 ヴェーゲナーは答えず、しばらく共和国側の道路を見つめていた。

 やがて、低い声で言った。

「そう思えるうちは、まだ大丈夫だ」

「……何がですか?」

「向こうにいるのが人間だと、忘れずにいられる」

 ライナーはその言葉を胸の中で繰り返した。

 国境の向こうでは、共和国軍の兵士が地面に膝をつき、何かを確認していた。

 その姿は遠く、小さかった。

 けれど確かに、そこにも自分たちと同じように朝を迎えた人間がいた。

 午前六時三十一分。

 連邦共和国北西軍管区、国境警備第三中隊駐屯地。

 前日の発砲事件で負傷した兵士は、夜のうちに後方の軍病院へ搬送されていた。

 中隊長のアレクセイ・ミハイロヴィチ・オルロフ大尉は、執務室で医療報告書を読んでいた。

 負傷したのは、二十二歳のパーヴェル・セルゲーエヴィチ・ベロフ伍長。

 左前腕に銃創を負ったものの、初期治療後の状態は安定しており、追加検査と経過観察が続けられている。

 オルロフは報告書を閉じた。

 机の上には、昨日の現場写真が並んでいた。

 濡れた土。

 踏み荒らされた草。

 発砲後に放棄されたとみられる薬莢。

 そして、林の縁に残された足跡。

 しかし、いずれも武装集団の所属を決定づける証拠ではなかった。

 扉が叩かれた。

「入れ」

 若い情報士官、イリヤ・ソコロフ中尉が入室した。

「大尉、昨夜の聞き取り結果をまとめました」

「聞こう」

 ソコロフは書類を開いた。

「接触時、先頭の警戒班は林の中に複数の人影を確認しています。ただし、発砲前に相手が武器を構えたかどうかについて、証言が一致していません」

「最初の銃声は?」

「共和国側の兵士が発砲したとする証言と、林の方向から発砲されたとする証言があります」

 オルロフは眉を寄せた。

「ベロフ伍長の負傷については?」

「銃弾の種類を調査中です。ただ、使用弾薬が分かったとしても、直ちに所属を特定できるとは限りません」

「その通りだ」

 オルロフは椅子の背へ身体を預けた。

「誰かが帝国軍の仕業だと言い始める前に、確認できた事実を整理しておけ」

 ソコロフは頷いた。

「既に軍管区司令部から、帝国側の関与について問い合わせが来ています」

「何と答えた?」

「現時点では確認されていない、と」

「それでいい」

 オルロフは窓の外を見た。

 駐屯地の中庭では、兵士たちが車両を点検している。

 整備兵が濡れた車体の下へ潜り、別の兵士が補給品を運んでいた。

 いつもと変わらない朝の光景だった。

 しかし、一人の兵士が負傷したことで、中隊の空気は明らかに変わっていた。

「中尉」

「はい」

「ベロフの家族には連絡したか?」

「はい。軍病院を通じて、容体を伝えています」

「そうか」

 オルロフは少しだけ安堵した。

「本人にも伝えてくれ。焦って復帰しようとするな、と」

「了解しました」

 ソコロフは敬礼し、退室した。

 オルロフは机の引き出しを開けた。

 中には、妻と娘が写った写真が入っていた。

 娘は今年、八歳になる。

 数日前に届いた手紙には、学校で覚えた歌と、庭に咲いた花のことが書かれていた。

 最後の一文は、何度も読み返していた。

『お父さん、帰ってきたら一緒に散歩しようね。』

 オルロフは写真を元の場所へ戻した。

 彼は共和国軍の士官だった。

 祖国を守る責任があり、命令に従う義務がある。

 それでも、国境の向こうにいる帝国軍兵士を、理由もなく憎んでいるわけではなかった。

 自分の娘と同じように、誰かの帰りを待っている子供が、帝国にもいるのだろう。

 そう考えると、地図に引かれた一本の線が、ひどく重く感じられた。

 午前七時十八分。

 クロウ家の別邸。

 朝食の席では、ルナが小さな匙を握り、スープを飲もうとしていた。

 しかし、匙を持つ手が少し傾き、スープが皿の縁からこぼれてしまった。

「あっ……」

 ルナは驚いて手を止めた。

 セレナがすぐに布巾を取った。

「大丈夫ですよ。熱くなかった?」

 ルナは首を振った。

「……だいじょうぶ」

「それなら良かった」

 セレナはこぼれたスープを拭き取った。

 向かい側では、レイブンがその様子を見ていた。

「ルナ、こうやって持つといいよ」

 少年は自分の匙を持ち上げ、ゆっくりと動かしてみせた。

 ルナは兄の手をじっと見つめた。

「……こう?」

「うん。ゆっくりね」

 妹は真剣な顔で匙を動かした。

 今度は、スープをこぼさず口へ運ぶことができた。

「……できた!」

 ルナは嬉しそうに笑った。

 レイブンも笑った。

「すごい!」

 ヴァルターは二人を見つめながら、パンを小さくちぎっていた。

 以前なら右手で押さえながら簡単にできた動作も、今では少し工夫が必要だった。

 彼は皿の縁を利用し、左手だけでパンを扱っている。

 レイブンは父の手元へ視線を向けた。

「……父さん」

「何だ?」

「僕、パン切ろうか?」

 ヴァルターは息子を見た。

「ありがとう。だが、これは父さんがやってみるよ」

「……難しくない?」

「難しいさ」

 ヴァルターは笑った。

「でも、少しずつ慣れてきた」

 レイブンは頷いた。

 父が右腕を失ってから、家の中では多くのことが変わった。

 食事。

 着替え。

 書類を書く時の姿勢。

 扉を開ける動作。

 どれも、以前は当たり前のように行っていたことだった。

 けれど父は、できないことを無理に隠そうとはしなかった。

 困った時には母や使用人に助けを求め、自分でできることは時間をかけて練習していた。

 レイブンは、そんな父の姿を毎日見ていた。

「……父さん」

「ん?」

「僕も、難しいことがあっても練習する」

 ヴァルターは微笑んだ。

「そうか」

 そして、少しだけ真剣な表情になった。

「ただし、無理をすることと、努力することは違うからな」

「……うん」

「疲れたら休む。分からなければ聞く。危険なことなら、誰かに手伝ってもらう」

 レイブンは頷いた。

「……分かった」

 セレナは夫と息子を見つめながら微笑んだ。

 ルナはその会話の意味をすべて理解しているわけではなかったが、兄の真似をして大きく頷いた。

「……わかった!」

 その声に、食卓には小さな笑いが広がった。

 午前八時五十四分。

 帝国中央部、地方行政庁避難者支援事務所。

 広い会議室には、避難者の受け入れ状況を示す地図と一覧表が並べられていた。

 地方行政官のマルティン・エーベルハルトは、昨夜から届いている報告を確認していた。

 避難施設の収容人数。

 食料と飲料水の備蓄。

 医療機関の受け入れ能力。

 学校へ通う子供たちの一時的な教育環境。

 そして、避難先で家族が離れ離れにならないための登録制度。

 軍の作戦地図とは異なる種類の地図だった。

 そこに描かれているのは、部隊の位置ではなく、人々がどこで生活できるかという問題だった。

「エーベルハルト行政官」

 女性職員が声を掛けた。

「北部から到着した避難者の登録について、追加の相談があります」

「どうした?」

「家族の一部が別の輸送便に乗ったため、合流できていない世帯があります」

 エーベルハルトは書類を受け取った。

「人数は?」

「現在確認できているだけで十数世帯です。大半は移動先が判明していますが、連絡が取れていない方もいます」

「分かった。鉄道局と地方警察へ照会しよう」

 彼は少し考えた。

「それから、避難施設の掲示板に家族照会の窓口を明記してくれ。子供だけでなく、高齢者にも分かりやすい案内が必要だ」

「承知しました」

 女性職員が立ち去ると、エーベルハルトは窓の外を見つめた。

 庁舎の前には、避難者を乗せたバスが到着していた。

 荷物を抱えた人々が降りてくる。

 疲れた表情の母親。

 眠そうな子供。

 杖をついた老人。

 そして、周囲を見回しながら家族の姿を探す若者。

 彼らの多くは、昨日まで自分の家で暮らしていた。

 その生活が、国境情勢によって突然変わってしまったのだ。

 エーベルハルトは書類を閉じた。

「……戦争になっていないだけ、まだ良いと思うべきなのか」

 そう呟いたものの、答えは出なかった。

 戦争が始まっていなくても、故郷を離れなければならない人々がいる。

 その事実は、決して軽いものではなかった。

 午前十時二十七分。

 クロウ家の別邸、書斎。

 ヴァルターは軍から届いた連絡書類を確認していた。

 予備役への移行に関する手続きは、引き続き進められている。

 申請自体は受理されていたが、最終的な医療評価と職務引き継ぎが残っていた。

 彼は現在も帝国軍少佐としての身分を保持しており、療養期間中の活動には制限が設けられている。

 書類には、今後の教育任務に関する提案も含まれていた。

 若手将校の指揮教育。

 負傷者の保護と後送判断。

 部隊の撤収における指揮官の責任。

 そして、民間人の安全を考慮した作戦判断。

 ヴァルターはその項目を読み返した。

 異界から帰還した彼には、実戦で得た経験がある。

 しかし、それは必ずしも誇らしい記憶ばかりではなかった。

 判断が遅れたこともあった。

 部下を失ったこともあった。

 そして、自分自身も右腕を失った。

 それでも、その経験を次の世代へ伝えることができるなら、軍人としての役割はまだ残されているのかもしれなかった。

 扉が叩かれた。

「……父さん?」

 レイブンだった。

「入っていい?」

「ああ、もちろん」

 少年は歴史地理書を抱えて入室した。

「……地図、見てもいい?」

 ヴァルターは微笑んだ。

「いいとも」

 レイブンは机の上へ本を広げた。

 そこには、帝国と連邦共和国の国境が描かれていた。

 帝国の領域は赤く、共和国の領域は青く色分けされている。

 少年は指先で国境線をなぞった。

「……父さん」

「何だ?」

「どうして、国と国の間には線があるの?」

 ヴァルターは少し考えた。

「土地を管理する国がどこなのか、分かるようにするためだ」

「……でも、本当の地面には線がないよね?」

「ああ。場所によっては川や山が境になっているが、地図に描かれた線が、そのまま地面に引かれているわけではない」

 レイブンは頷いた。

「……じゃあ、向こうにも人が住んでるんだよね?」

「もちろんだ」

「……僕たちみたいな家族も?」

 ヴァルターは息子を見つめた。

「ああ。父親も、母親も、子供もいる」

 レイブンは地図を見つめた。

「……その人たちも、怖いのかな」

 ヴァルターは少し黙った。

「……怖いと思っている人も、いるだろうな」

「……どうして?」

「帝国の人々が共和国軍を恐れているように、共和国の人々も帝国軍を恐れているかもしれない」

 少年は不思議そうな顔をした。

「……お互いに?」

「ああ」

 ヴァルターは頷いた。

「相手が何を考えているのか分からない時、人は怖くなることがある」

 レイブンは地図へ視線を落とした。

「……じゃあ、お話しすればいいのに」

 ヴァルターは思わず微笑んだ。

「そうだな」

 そして、静かに続けた。

「だが、国と国の話し合いは、家族同士の会話ほど簡単ではないんだ。歴史も、利益も、守りたいものも違う」

 レイブンは少し考えた。

「……でも、話さないと分からないよね」

 ヴァルターは息子を見つめた。

 七歳の少年の言葉だった。

 政治も外交も、軍事的な均衡も、まだ知らない。

 それでも、その言葉には大切なものが含まれていた。

「ああ」

 ヴァルターは頷いた。

「その通りだ」

 レイブンは少し嬉しそうに笑った。

 そして、再び地図を見つめた。

 赤と青に塗り分けられた二つの国。

 その境界線の向こうにも、自分たちと同じように暮らしている人々がいる。

 少年は、そのことを忘れないようにしようと思った。

 午後零時四十一分。

 連邦共和国北西軍管区、軍病院。

 パーヴェル・ベロフ伍長は、白い天井を見つめながらベッドに横たわっていた。

 左腕には包帯が巻かれている。

 傷口の痛みは残っていたが、医師からは回復が見込めると説明されていた。

 ベッド脇の椅子には、同じ中隊の兵士が座っていた。

 ニコライ・グロモフ上等兵。

 ベロフとは訓練時代からの付き合いだった。

「……お前、昨日は本当に驚かせたぞ」

 グロモフが言った。

 ベロフは苦笑した。

「俺だって驚いた」

「笑い事じゃない」

「分かってる」

 ベロフは天井を見つめた。

「……最初、何が起きたのか分からなかった」

 グロモフは黙っていた。

「銃声がして、みんなが伏せた。俺も身を低くしたんだが、その直後に腕が熱くなって……」

 ベロフは包帯の巻かれた腕を見た。

「最初は、枝に引っかけたのかと思った」

 グロモフは眉を寄せた。

「……痛かったか?」

「後からな」

 ベロフは答えた。

「最初は怖くて、痛いかどうかも分からなかった」

 病室には、しばらく沈黙が流れた。

 窓の外では、風が木々を揺らしている。

「……ニコライ」

「何だ?」

「俺たち、本当に戦争になるのかな」

 グロモフは答えられなかった。

 ベロフは小さく息を吐いた。

「……母さんには、演習だって言ってきたんだ」

 グロモフは友人を見つめた。

「……そうか」

「帰ったら、怒られるだろうな」

 ベロフは少し笑った。

「怪我をするなって、何度も言われてたから」

 グロモフも、ようやく小さく笑った。

「そりゃ、怒られるだろうな」

 しかし、その笑いは長く続かなかった。

 二人とも、昨日の銃声を覚えていた。

 地面へ伏せた時の冷たい泥。

 耳に残る発砲音。

 そして、負傷した仲間の血。

 戦争が始まっていなくても、銃弾は人を傷つける。

 その事実だけは、疑いようがなかった。

 午後二時十八分。

 帝国中央部、クロウ家別邸の庭園。

 レイブンはルナと一緒に、小さな花壇の前へしゃがんでいた。

 花壇には、淡い紫色の花が咲いている。

 ルナは花を見つめながら、首を傾げた。

「……きれい」

「うん」

 レイブンは頷いた。

「でも、取っちゃ駄目だよ」

「……だめ?」

「うん。ここで咲いてるから、みんなが見られるんだ」

 ルナは少し考えた。

 そして、花へ伸ばしかけていた手を引っ込めた。

「……みる」

「そうそう」

 レイブンは笑った。

 少し離れた場所では、セレナが庭園の長椅子に座っていた。

 その隣には、ヴァルターがいる。

 彼は左手に小さな手帳を持ち、時折何かを書き込んでいた。

「……あなた」

 セレナが声を掛けた。

「はい?」

「また仕事のことを考えているのでしょう」

 ヴァルターは少し困ったように笑った。

「……顔に出ていたか?」

「ええ」

 セレナは微笑んだ。

「あなたが難しいことを考えている時は、いつも同じ顔をします」

 ヴァルターは手帳を閉じた。

「……軍から、教育任務についての連絡が来ている」

「そうですか」

「まだ正式なものではないが、予備役への移行後に、若手将校の教育へ協力できないかという話だ」

 セレナは夫を見つめた。

「……引き受けたいのですか?」

 ヴァルターは少し考えた。

「……正直に言えば、迷っている」

「どうして?」

「教えられることはあると思う。だが、私の経験が、本当に役に立つのか分からない」

 セレナは静かに首を振った。

「あなたは、帰ってきました」

 ヴァルターは妻を見た。

「……え?」

「右腕を失っても、仲間を失っても、それでも帰ってきてくれました」

 セレナは夫の左手へ、自分の手を重ねた。

「その経験を、誰かに伝えることには意味があると思います」

 ヴァルターは黙っていた。

 セレナは続けた。

「ただし、無理をしないこと。それだけは守ってください」

 ヴァルターは微笑んだ。

「……分かった」

 そして、庭園で遊ぶ子供たちへ視線を向けた。

 レイブンはルナの手を取り、花壇の周囲をゆっくり歩いていた。

 妹が転びそうになると、すぐに立ち止まっている。

 その姿を見つめながら、ヴァルターは静かに呟いた。

「……あの子たちが大人になる頃には、もう少し穏やかな世界になっているといいんだが」

 セレナは夫の横顔を見つめた。

「……そうですね」

 風が吹き、庭園の花々が静かに揺れた。

 午後四時三十二分。

 帝国北部方面軍司令部。

 国境で発生した発砲事件について、帝国と連邦共和国の軍当局間で情報照会が行われていた。

 帝国側は、第三監視所が確認した発砲時刻と位置の概略を外交経路を通じて提供した。

 共和国側も、事件の調査が継続中であることを伝えていた。

 双方の主張には依然として隔たりがあったが、少なくとも現時点では、互いの正規軍が交戦したと断定する情報はなかった。

 帝国軍司令官は報告を受け、静かに頷いた。

「……よし」

 そして、続けた。

「この件を口実に、部隊を前進させる必要はない。監視を継続し、外交当局との連絡を維持しろ」

「了解しました」

 情報将校が敬礼した。

 司令官は地図を見つめた。

 国境線を挟んで、帝国軍と共和国軍の部隊が向かい合っている。

 その距離は、場所によっては数キロメートルしかない。

 しかし、その間には、長い歴史と政治的な対立が横たわっていた。

「……一発の銃声で、すべてを決めてはならん」

 司令官は低い声で呟いた。

 誰かがその言葉を記録することはなかった。

 それでも、彼はその考えを忘れないようにしていた。

 午後七時十一分。

 クロウ家の別邸。

 夕食の後、レイブンは父の隣で歴史地理書を読んでいた。

 ルナは母の膝の上で眠そうにしている。

 暖炉には小さな火が灯され、部屋には柔らかな光が広がっていた。

「……父さん」

 レイブンが尋ねた。

「何だ?」

「……共和国の子供たちも、学校に行くの?」

 ヴァルターは頷いた。

「ああ。もちろんだ」

「……勉強するの?」

「そうだ。読み書きも、計算も、歴史も学ぶ」

 レイブンは少し考えた。

「……僕と同じだね」

「ああ」

「……じゃあ、友達になれるかな」

 ヴァルターは息子を見つめた。

 少年は真剣な表情をしていた。

「……どうだろうな」

 ヴァルターは静かに答えた。

「言葉や習慣が違うかもしれない。考え方も違うだろう」

 レイブンは少し残念そうな顔をした。

「……そっか」

「だが」

 ヴァルターは続けた。

「違うからといって、友達になれないわけじゃない」

 少年は顔を上げた。

「……ほんと?」

「ああ」

 ヴァルターは微笑んだ。

「相手を知ろうとすることが、最初の一歩だ」

 レイブンは嬉しそうに頷いた。

 そして、地図の青い部分を見つめた。

 そこには、まだ会ったことのない人々が暮らしている。

 自分と同じくらいの年齢の子供もいる。

 その子供たちは、どんな遊びをしているのだろう。

 どんな本を読んでいるのだろう。

 どんな夢を持っているのだろう。

 レイブンは、そんなことを考えていた。

 午後九時四十六分。

 連邦共和国北西軍管区。

 オルロフ大尉は、執務室で娘から届いた手紙を読み返していた。

 手紙には、学校で描いた絵が同封されていた。

 青い空。

 緑の草原。

 そして、家族三人が手を繋いでいる姿。

 絵の下には、幼い文字で書かれていた。

『お父さん、早く帰ってきてね。』

 オルロフは静かに息を吐いた。

 そして、机の上の地図へ視線を向けた。

 国境の向こうには、帝国がある。

 帝国軍の兵士たちがいる。

 そして、その兵士たちを待つ家族がいる。

 彼は引き出しから便箋を取り出した。

 娘への返事を書こうと思った。

 しかし、最初の一文を書き始めるまで、少し時間がかかった。

 やがて、彼はゆっくりと筆を動かした。

『元気にしているか。

 お父さんは、今日も元気だ。

 お前が描いてくれた絵を、毎日見ている。

 帰ったら、一緒に散歩しよう。』

 そこまで書いて、彼は筆を止めた。

 帰れるかどうか、今は分からない。

 それでも、帰りたいと思った。

 娘の待つ家へ。

 妻のいる場所へ。

 自分が守りたいと思っている日常へ。

 午後十時二十八分。

 クロウ家の別邸。

 レイブンは自室で日記帳を開いていた。

 窓の外には、雲の切れ間から月が見えている。

 少年は万年筆を握り、ゆっくりと文字を書き始めた。

『今日は、父さんと地図を見た。

 帝国と共和国の間には、国境がある。

 でも、地面に本当の線が引いてあるわけじゃない。

 向こうにも、人が住んでいる。

 お父さんも、お母さんも、子供もいる。

 父さんは、相手を知ろうとすることが大切だって言っていた。

 僕は、共和国の子供たちとも友達になれるかもしれないと思った。

 いつか、会ってみたい。

 それから、ルナと庭で遊んだ。

 ルナは花を見て、きれいって言っていた。

 僕も、きれいだと思った。

 早く、みんなで元のお家に帰りたい。』

 レイブンは万年筆を置いた。

 そして、日記帳を閉じた。

 机の引き出しには、黒鴉の徽章が収められている。

 祖父から教わった言葉。

 名誉より責任を。

 その意味を、少年はまだ十分には理解していなかった。

 けれど、父が教えてくれたことを、少しずつ覚えていこうと思っていた。

 帝政歴三三五年、六月九日。

 帝国と連邦共和国の国境では、前日に発生した発砲事件の調査が続いていた。

 負傷した共和国軍兵士は、軍病院で治療を受けている。

 帝国軍と共和国軍の双方は、引き続き警戒を続けながら、偶発的な衝突を避けるための対応を取っていた。

 しかし、両国の緊張が解けたわけではなかった。

 国境線を挟んで向かい合う兵士たちは、それぞれの国の制服を着ていた。

 異なる言葉を話し、異なる旗の下で任務に就いている。

 だが、その一人ひとりには、名前があった。

 家族がいた。

 帰る場所があった。

 そして、失いたくない日常があった。

 その夜、帝国中央部の別邸では、レイブン・S・クロウが静かに眠りについていた。

 遠く離れた共和国軍の駐屯地では、アレクセイ・オルロフ大尉が娘への手紙を書き終えていた。

 二人は、まだ互いの存在を知らない。

 これから先、出会うことがあるのかどうかも分からない。

 それでも、二人が願っていることには、どこか似たところがあった。

 家族と共に過ごしたい。

 大切な人に、無事でいてほしい。

 そして、明日も穏やかな朝を迎えたい。

 国境線は、その願いまで分けることはできなかった。

 夜風が、帝国と共和国の双方の大地を静かに吹き抜けていった。

 まだ戦争は始まっていない。

 しかし、平和を守るための時間は、確実に過ぎていた。

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