第153話 壊れた教官の椅子――悪魔と犬の志願兵時代
第153話 壊れた教官の椅子――悪魔と犬の志願兵時代
帝政歴350年10月20日、午後15時51分。連邦共和国東部沿岸、第二港湾地区。
第二港湾の貨物岸壁には、奇妙な静寂が訪れていた。つい先ほどまで大和国軍の予備兵たちが慌ただしく行き交っていた場所には、置き去りにされた弾薬箱と輸送用台車が残され、倉庫の扉が潮風に揺られて軋んでいた。遠くから聞こえる砲声を除けば、三ヶ月に及ぶ沿岸戦闘の最中にあるとは思えないほど静かだった。
レイブン・S・クロウ《NoX》は、岸壁に積まれた木箱へ腰を下ろした。
黒い猫耳が周囲の物音を拾い、金色と黒色のオッドアイが港湾施設の奥を見渡している。膝の上にはBPSG-12が置かれ、いつでも手に取れる状態になっていた。
その隣では、ガイル・ベッカー《Hound》が背中を木箱へ預け、大きく息を吐いていた。
「……終わったのか?」
レイブンは港の奥を見た。
「少なくとも、この岸壁ではな」
「……信じられねえ」
ガイルは両手で顔を覆った。
「朝から七時間以上も撃ち合って、地下に潜って、ようやく敵の増援元を見つけたと思ったら……最後は俺が怒鳴っただけで終わりかよ」
「敵が後退しただけだ。まだ港全域の安全確認は終わっていない」
「分かってるよ。でも、今は少しくらい喜ばせろ」
レイブンは小さく笑った。
「そうだな」
二人はしばらく、何も言わずに海を眺めていた。
第二港湾の外側には、秋の午後の日差しを受けた海面が広がっている。遠方ではルナ率いる高速戦闘舟艇部隊が警戒を続け、後続の連邦共和国軍と帝国軍の部隊が到着するまでの間、周辺海域を監視していた。
レイブンは無線を開いた。
「こちらNoX。第二港湾の主要岸壁を確保。敵予備兵は後退した。後続部隊の到着を待ちながら警戒を継続する」
『こちらValkyrie。了解。第915旅団の先遣増援がそちらへ向かっているわ』
「到着予定は?」
『交通障害の確認が必要だから、もう少しかかるそうよ』
「分かった」
『それと、レイブン』
「何だ?」
『ガイルと二人で、また何か無茶なことをしないでね』
レイブンは隣を見た。
ガイルは木箱にもたれたまま、目を閉じていた。
「……大丈夫だ。今は座っている」
『本当に?』
「ああ」
『……ならいいけど』
通信が切れると、ガイルが片目を開いた。
「……おい、NoX」
「何だ?」
「俺たち、そんなに信用ねえのか?」
「今朝からの行動を考えれば、仕方ないだろう」
「……まあな」
ガイルは苦笑した。
そして、ふと思い出したように口を開いた。
「……なあ」
「何だ?」
「こうして二人で並んで座ってると、昔を思い出さねえか?」
レイブンは首を傾げた。
「昔?」
「志願兵学校だよ」
その言葉に、レイブンの表情が少しだけ和らいだ。
「……ああ」
ガイルは遠くの海を眺めた。
「覚えてるか? あの教官の椅子」
レイブンは一瞬だけ黙った。
そして、口元を押さえた。
「……まさか」
ガイルはにやりと笑った。
「そう。その椅子だ」
二人は顔を見合わせた。
次の瞬間、同時に吹き出した。
帝政歴350年10月20日、午後16時03分。第二港湾地区、中央貨物岸壁。
「……あれは酷かったな」
レイブンは笑いを堪えながら言った。
ガイルは腹を抱えていた。
「酷かったってもんじゃねえよ! 教官が座った瞬間、椅子が真っ二つになったんだぞ!」
レイブンは頷いた。
「脚が折れたんだったな」
「そうそう! しかも、あの教官、座る直前まで偉そうに説教してやがった!」
レイブンは遠い記憶を辿った。
志願兵学校に入学して間もない頃。
まだ制服が身体に馴染まず、銃の扱いも今ほど熟練していなかった時代。
レイブンとガイルは、同じ志願兵訓練班に所属していた。
ある日の午後、訓練棟の教官室では、古くなった椅子が一脚、机の前に置かれていた。
その椅子は以前から脚の接合部分が緩んでおり、座るたびに不吉な音を立てていた。
ガイルはそれを見つけると、妙なことを言い出した。
「なあ、レイブン」
「何だ?」
「この椅子、あと何回座ったら壊れると思う?」
「……知らん」
「賭けようぜ」
「何を?」
「教官が座った瞬間に壊れるかどうか」
レイブンは呆れた。
「くだらない」
「いいじゃねえか!」
「それより、危ないから報告したほうがいい」
「分かってるって。あとで言うよ」
しかし、二人が椅子を調べようとした時、ガイルが不用意に背もたれへ体重を掛けてしまった。
嫌な音が響いた。
――バキッ。
二人は固まった。
「…………」
「…………」
ガイルがゆっくりとレイブンを見た。
「……おい」
「……何だ」
「……今、何か聞こえたか?」
「……聞こえた」
二人は椅子を見た。
背もたれの接合部分が割れ、片側の脚が不自然に傾いていた。
「……やべえ」
ガイルが呟いた。
レイブンは額へ手を当てた。
「だから言っただろう」
「いや、まさかこんな簡単に壊れるとは思わねえだろ!」
「どうする?」
「……直す」
「どうやって?」
「……気合いで」
「無理だ」
その時、廊下の向こうから足音が聞こえた。
教官が戻ってきたのである。
ガイルは慌てて椅子を元の位置へ戻した。
レイブンは止めようとしたが、既に間に合わなかった。
教官は二人を見つけると、眉をひそめた。
「貴様ら、ここで何をしている?」
レイブンは直立した。
「教官、椅子が――」
しかし、ガイルが横から大声で答えた。
「清掃であります!」
教官は二人を睨んだ。
「清掃だと?」
「はい!」
「……ふん。ならばさっさと戻れ」
教官は机へ向かった。
レイブンはもう一度口を開いた。
「教官、その椅子は――」
「黙れ、クロウ!」
「……了解」
教官はそのまま椅子へ腰を下ろした。
次の瞬間。
――バキバキッ!!
椅子の脚が折れ、背もたれが外れた。
「うおおっ!?」
教官は机の下へ転がり落ちた。
室内に凄まじい音が響いた。
レイブンとガイルは、その場で完全に固まった。
「…………」
「…………」
教官は床から起き上がり、顔を真っ赤にして叫んだ。
「貴様らああああっ!!」
ガイルが震える声で答えた。
「……はい」
「何をしたあああっ!!」
レイブンは冷静に答えようとした。
「椅子が破損していたため、報告を――」
「言い訳するなあああっ!!」
ガイルは思わず叫んだ。
「いや、俺たちも壊れるとは思わなかったんですって!」
「つまり貴様らが壊したんだな!?」
「……あ」
レイブンはゆっくりと目を閉じた。
「……ガイル」
「……何だ?」
「……今のはまずい」
「……だよな」
教官は二人を指差した。
「貴様ら! 校舎外周、追加走十周!!」
ガイルの顔が引きつった。
「……十周!?」
「返事は!!」
「りょ、了解であります!!」
レイブンも敬礼した。
「了解しました」
こうして二人は、壊れた椅子一脚のために、学校の外周を走ることになったのである。
帝政歴350年10月20日、午後16時17分。第二港湾地区。
「……あの時のお前の顔、今でも忘れられねえわ!」
ガイルは木箱を叩きながら笑っていた。
レイブンも肩を震わせていた。
「お前こそ、教官に全部白状しただろう」
「仕方ねえだろ! あんな顔で怒鳴られたら、誰だって口が滑るって!」
「俺は説明しようとした」
「そうだったな! お前が椅子のことを言おうとした瞬間、教官が『黙れ!』って怒鳴ったんだよな!」
「……ああ」
レイブンは笑った。
「結果的に、説明を聞かなかった教官が自分で壊したようなものだった」
「そうそう!」
ガイルは腹を抱えた。
「しかも、あの後の十周だ!」
レイブンは頷いた。
「……あれも酷かった」
ガイルは遠い記憶を辿るように空を見上げた。
「最初は普通に走ってたんだよな」
「ああ」
「でも、三周目くらいで俺が言ったんだ」
「……覚えている」
レイブンは笑った。
「『どうせ走るなら競争しようぜ』だったな」
ガイルは嬉しそうに指を鳴らした。
「それだ!」
志願兵学校の外周道路は、校舎と訓練場を囲むように整備されていた。
二人が追加走を命じられたのは、夕方の訓練終了後だった。
他の志願兵たちが食堂へ向かう中、レイブンとガイルだけが校舎の外周を走っていた。
最初の二周は、互いに無言だった。
しかし、三周目に入ったところで、ガイルが突然笑い始めた。
「なあ、レイブン!」
「何だ?」
「どうせ十周走るなら、競争しようぜ!」
レイブンは呆れた。
「……罰走だぞ」
「分かってるよ! だから面白くするんだろ!」
「疲れるだけだ」
「負けるのが怖いのか?」
レイブンの黒い猫耳が僅かに動いた。
「……何?」
ガイルはにやりと笑った。
「お前、足が速いって評判だけどよ。俺には勝てねえんじゃねえの?」
レイブンはしばらく黙った。
そして、静かに笑った。
「……言ったな?」
ガイルの表情が変わった。
「……お?」
「いいだろう」
レイブンは少しだけ前傾姿勢になった。
「勝負だ」
ガイルは嬉しそうに笑った。
「よっしゃあ!」
次の瞬間、二人は一斉に加速した。
夕方の校舎外周に、二人の足音が響き渡る。
ガイルは全力で走りながら叫んだ。
「おらあああっ! 負けねえぞ、レイブン!」
レイブンも笑いながら答えた。
「まだ三周目だぞ!」
「関係ねえ! 先にゴールした奴の勝ちだ!」
「十周走るんだろう?」
「そうだよ!」
二人は校舎の角を曲がり、訓練場の横を駆け抜けた。
途中、他の志願兵たちが窓から顔を出した。
「……何やってんだ、あいつら?」
「罰走じゃなかったのか?」
「……何で競争してるんだ?」
誰かが笑い始めた。
「頑張れー!」
「ガイル、負けるな!」
「レイブン、抜かせ!」
いつの間にか、校舎の窓から応援する声が響き始めた。
ガイルは笑いながら叫んだ。
「見ろよ、レイブン! 観客が増えたぞ!」
レイブンも笑った。
「……余計に怒られるな」
「もう十周走ってんだから変わらねえだろ!」
「……それもそうか」
二人はさらに速度を上げた。
そして、八周目。
ガイルの呼吸が荒くなり始めた。
「……はぁっ、はぁっ……」
レイブンが横を走りながら言った。
「……大丈夫か?」
「……余裕だ!」
「顔が真っ赤だぞ」
「……夕日のせいだ!」
「もう日が沈んでいる」
「細けえこと言うな!」
レイブンは笑った。
そして、九周目に入ったところで、少しだけ速度を落とした。
ガイルが横目で見た。
「……おい」
「何だ?」
「……手加減してんじゃねえだろうな?」
レイブンは首を振った。
「していない」
「嘘つけ!」
「本当だ」
ガイルは歯を食いしばった。
「……俺は、お前に勝ちてえんだよ」
その言葉に、レイブンは一瞬だけ目を丸くした。
そして、静かに頷いた。
「……分かった」
二人は最後の一周へ入った。
疲労で脚が重くなり、呼吸は荒くなっていた。
それでも、どちらも速度を落とさなかった。
ガイルが叫んだ。
「うおおおおっ!!」
レイブンも地面を蹴った。
二人は校舎の正門前を目指し、最後の直線を駆け抜けた。
そして。
ほとんど同時に、ゴール地点へ飛び込んだ。
「……はぁっ!」
「……はぁっ、はぁっ!」
二人はその場に倒れ込んだ。
ガイルが息を切らしながら言った。
「……俺の勝ちだな」
レイブンは仰向けになったまま答えた。
「……いや、俺だろう」
「……俺の方が先だった」
「……同時だった」
「……じゃあ、引き分けか?」
レイブンは空を見上げた。
「……そうだな」
二人はしばらく黙っていた。
そして、突然笑い始めた。
「ははははっ!」
「……ははっ!」
その時、背後から低い声が響いた。
「……貴様ら」
二人は固まった。
ゆっくりと振り向くと、そこには例の教官が立っていた。
「……誰が競争しろと言った?」
ガイルは震える声で答えた。
「……誰も言ってません」
「……そうか」
教官は腕を組んだ。
「ならば、追加五周だ」
「えええええっ!?」
ガイルの悲鳴が校舎前に響いた。
レイブンはその場で頭を抱えた。
「……だから言っただろう」
「お前だって乗ったじゃねえか!」
「……そうだったな」
二人は再び立ち上がり、校舎の外周を走り始めた。
しかし、その時も互いに笑っていた。
帝政歴350年10月20日、午後16時34分。第二港湾地区、中央貨物岸壁。
「……あの追加五周が一番きつかったな」
レイブンは苦笑した。
ガイルは大きく頷いた。
「当たり前だろ! 十周走った後に五周追加だぞ! 脚が棒になるかと思った!」
「翌日は二人とも筋肉痛だったな」
「おう。階段を降りるだけで地獄だった」
二人は顔を見合わせた。
そして、再び笑った。
「……懐かしいな」
レイブンが呟いた。
ガイルは海を見つめた。
「……ああ」
しばらく沈黙が続いた。
遠くでは、共同戦線の後続部隊が第二港湾へ向かっている。
その姿を確認したレイブンは、ゆっくりと立ち上がった。
「……来たな」
ガイルも顔を上げた。
「……おう」
二人は銃を手に取り、港湾施設の奥へ視線を向けた。
その時、ガイルがふと思い出したように言った。
「……なあ、NoX」
「何だ?」
「もし、あの頃の俺たちが今の俺たちを見たら、どう思うんだろうな」
レイブンは少しだけ考えた。
そして、静かに答えた。
「……驚くだろうな」
「何に?」
「俺たちが、まだ一緒にいることに」
ガイルは一瞬だけ黙った。
そして、ゆっくりと笑った。
「……そうだな」
レイブンは続けた。
「志願兵学校で椅子を壊して、罰走で競争していた二人が、今じゃ同じ戦場で戦っている」
ガイルは海を見つめた。
「……しかも、敵からは〈塹壕の悪魔〉と〈不沈の犬〉なんて呼ばれてる」
レイブンは小さく笑った。
「……あの頃には想像もできなかったな」
「違いねえ」
ガイルはゆっくりと立ち上がった。
「……でもよ」
「何だ?」
「俺は、あの頃と変わってねえと思うぜ」
レイブンは首を傾げた。
「……そうか?」
「ああ」
ガイルはにやりと笑った。
「お前が走るなら、俺も走る。お前が戦うなら、俺も戦う。それだけだ」
レイブンはしばらく黙っていた。
そして、静かに微笑んだ。
「……そうだな」
二人は拳を軽く合わせた。
「……これからもよろしくな、レイブン」
「ああ。こちらこそ、ガイル」
その時、インカムからエリシアの声が響いた。
『こちらValkyrie。NoX、Hound、聞こえる?』
レイブンは無線を開いた。
「良好だ」
『後続部隊が第二港湾へ到着したわ。これから安全確認を始めるそうよ』
「了解」
『それと……』
エリシアは少しだけ声を和らげた。
『二人とも、無事でよかった』
レイブンは微笑んだ。
「ありがとう」
ガイルも笑った。
「おう! 〈不沈の犬〉は簡単には沈まねえからな!」
『はいはい』
エリシアの笑い声が聞こえた。
『……帰ったら、何か温かいものでも食べましょう』
ガイルは即座に答えた。
「おう! それと酒だ!」
レイブンは苦笑した。
「……まだ言っているのか」
「当たり前だ! お前の奢りだからな!」
『……また何か賭けでもしたの?』
レイブンは答えた。
「いや。昔の話をしていただけだ」
『昔の話?』
「ああ。志願兵学校の頃のな」
エリシアは少しだけ興味を示した。
『……へえ。どんな話?』
ガイルがにやりと笑った。
「教官の椅子をぶっ壊した話だ!」
『……え?』
レイブンは額へ手を当てた。
「……ガイル」
しかし、もう遅かった。
『……ちょっと待って。何をしたの、あなたたち!?』
ガイルは腹を抱えて笑った。
「はははっ! 詳しくは帰ってからだ!」
『絶対に聞かせてもらうからね!』
レイブンは深く息を吐いた。
「……分かった」
通信が切れると、ガイルは満足そうに笑った。
「……楽しみだな」
レイブンは苦笑した。
「……お前は本当に変わらないな」
「お互い様だろ」
二人は再び拳を合わせた。
その背後では、後続の帝国軍と連邦共和国軍の兵士たちが第二港湾へ進入し、施設の安全確認を開始していた。
第二港湾の岸壁は大規模な交戦を経ずに確保されつつあったが、倉庫内部や地下搬送路の残存敵兵については、引き続き慎重な確認が必要だった。
それでも、長時間に及んだ旧港湾地区の戦闘は、ようやく終結へ向かい始めていた。
レイブンとガイルは、後続部隊へ引き継ぐための報告を整理しながら、もう一度だけ海を見た。
志願兵学校の校舎を競いながら走った、あの日の夕暮れ。
壊れた椅子。
怒鳴り散らす教官。
追加の罰走。
そして、疲れ果てながらも笑い合った二人。
あの頃の彼らには、未来に何が待っているのかなど分からなかった。
だが、一つだけ確かなことがあった。
何年経っても、どれほど戦場が変わっても、二人の関係は変わらなかった。
〈塹壕の悪魔〉と〈不沈の犬〉。
敵から恐れられる二つの異名の裏には、かつて教官の椅子を壊して一緒に罰走を命じられた、二人の若い志願兵の姿が残っていたのである。




