第148話 不沈の犬と悪魔の飼い主――三人の戦場伝説
第148話 不沈の犬と悪魔の飼い主――三人の戦場伝説
帝政歴350年07月19日、午後19時26分頃。連邦共和国東部沿岸、第915旅団第二防衛線。
夜の海岸線に、再び大和国軍の砲声が響き渡った。昼間から続く戦闘によって、連邦共和国軍第915旅団の防衛陣地は原形を失いつつあった。土嚢は破れ、塹壕の一部は砲弾によって崩落し、地面には薬莢と砕けた木材が散乱している。それでも兵士たちは陣地を放棄せず、帝国軍SHADOW LADYの支援を受けながら、押し寄せる大和国軍の上陸部隊に抵抗していた。
レイブン・S・クロウ《NoX》は塹壕の曲がり角に身を寄せ、BPSG-12の装填状態を確認していた。黒い猫耳は遠方の銃声へ向けられ、金色と黒色のオッドアイは暗闇の中に浮かぶ敵兵の動きを追っている。
「Hound、左翼の状況は?」
『こちらHound。敵歩兵を追い返したところだ。だが、連中も諦めが悪い。さっきから同じ場所に何度も突っ込んできやがる』
「負傷者は?」
『軽傷が一名。もう衛生班へ引き渡した。こっちはまだ戦えるぜ』
「了解。無理に前へ出るなよ」
『おいおい、誰に向かって言ってんだ? 俺はそう簡単に沈まねえよ』
レイブンは苦笑した。
「その台詞、何度目だ?」
『数えてねえな。生き残った回数と同じくらいじゃねえか?』
通信が切れると、隣でHARを構えていたエリシア・L・ヴォルハラム《Valkyrie》が小さく笑った。
「ガイルは相変わらずね」
「ああ。あいつの声を聞くと、まだ戦える気がしてくる」
「分かるわ。あんな状況でも冗談を言えるんだもの」
エリシアは照準器から目を離し、レイブンの顔を見た。
「でも、あなたも人のことは言えないわよ」
「俺が?」
「ええ。昨夜、大和国の山中で包囲されて、川へ飛び込んで、ようやく帰ってきたと思ったら、今度は私のいる戦場へ来たんでしょう?」
「……そうなるな」
「普通なら、少しは休もうと思うものよ」
「休むつもりだった」
「本当に?」
「少なくとも、軍港に着くまでは」
エリシアは呆れたように息を吐いた。
「もう……」
その時、塹壕の前方で銃声が激しくなった。
「敵歩兵、接近! 距離百五十!」
連邦共和国軍の観測員が叫ぶ。
レイブンはすぐに表情を引き締めた。
「Valkyrie、右側を頼む」
「了解。あなたは?」
「中央を抑える」
「分かった。でも、無茶はしないで」
「約束する」
エリシアは頷き、HARを構え直した。
二人の銃口が、暗闇の向こうへ向けられた。
帝政歴350年07月19日、午後19時34分頃。第915旅団左翼防衛地区。
ガイル・ベッカー《Hound》は、崩れた塹壕の内側で弾倉を交換していた。
彼の軍服は泥と煤に覆われ、左肩の装備には砲弾の破片が掠めた跡が残っている。頬には浅い擦過傷があったが、本人はまるで気にしていなかった。
「……ったく、今日だけで何回死にかけたんだ?」
隣のSHADOW LADY隊員が答えた。
「少なくとも五回は見ました」
「五回? 少ねえな。俺の感覚じゃ十回は超えてるぞ」
「自慢することじゃありませんよ」
「生き残ってんだから自慢していいだろ」
ガイルは笑いながら銃の作動を確認した。
その時、隣の連邦共和国軍兵士が不思議そうに彼を見た。
「……あんた、本当に怖くないのか?」
ガイルは振り向いた。
「怖いに決まってんだろ」
「え?」
「弾が飛んでくるし、砲弾は落ちてくるし、いつ死ぬか分からねえ。怖くねえ奴なんざ、よほどの馬鹿か、自分が死なねえと思い込んでる奴だけだ」
連邦共和国軍兵士は少し驚いた表情を浮かべた。
「……じゃあ、どうして笑っていられる?」
ガイルは肩をすくめた。
「笑ってねえと、やってられねえからな」
彼は塹壕の向こうを見た。
「それに、俺には帰る場所がある。待ってる連中もいる。だから、簡単にはくたばれねえ」
その言葉を聞いた兵士は、静かに頷いた。
「……なるほど」
「お前もそうだろ?」
「……ああ」
「だったら生き残れ。戦争が終わったら、酒でも飲もうぜ」
兵士は初めて笑った。
「帝国軍の兵士と飲むことになるとは思わなかった」
「俺もだよ」
その直後、前方の土嚢に銃弾が命中した。
ガイルは即座に身を低くした。
「おっと! 敵さん、会話に割り込んでくるとは礼儀がなってねえな!」
彼は銃口を上げ、敵の射撃位置を確認した。
「SHADOW LADY、左翼を維持するぞ! 連邦の連中と射界を合わせろ!」
「了解!」
連邦共和国軍の機関銃手が応答した。
「こちらも準備できている!」
「よし! 敵が近づいたら教えてくれ!」
再び銃声が響いた。
大和国軍の歩兵は、崩れた建物と砲弾孔を利用しながら前進していた。しかし、そのたびにガイルが率いる防衛班の射撃によって足を止められていた。
一度目の攻撃では、敵の迫撃砲弾が塹壕のすぐ後方へ落下した。
二度目の攻撃では、機関銃座が破壊され、ガイル自身が負傷者を引きずって後退した。
三度目の攻撃では、敵の装甲車が左翼へ接近し、連邦共和国軍の対戦車班が到着するまで防衛線を維持しなければならなかった。
それでも、ガイルは一度も持ち場を放棄しなかった。
「Hound! また敵が来ます!」
「見えてる! ったく、しつこい連中だな!」
ガイルは泥だらけの顔で笑った。
「いいぜ! 何度でも来やがれ! こっちはまだ沈んじゃいねえぞ!」
その姿を見た連邦共和国軍の若い兵士が、思わず呟いた。
「……不沈の犬だ」
隣の兵士が振り向いた。
「何だって?」
「何度砲撃されても、何度包囲されても、あの男は戻ってくる。しかも、仲間まで連れて」
兵士はガイルの背中を見つめた。
「まるで、不沈の軍艦みたいじゃないか」
「……犬のコールサインだから、不沈の犬か」
「そうだ」
その呼び名は、左翼の兵士たちの間で少しずつ広まっていった。
帝政歴350年07月19日、午後19時47分頃。大和国陸軍、前線臨時指揮所。
大和国軍の前線指揮官は、通信兵からの報告を聞きながら地図を見つめていた。
「……また左翼の攻撃が失敗したのか」
「はい。敵の抵抗が予想以上に激しく、突破できません」
「帝国軍の増援は?」
「少数の特殊部隊が確認されています。その中に、昨夜の沿岸要塞で交戦したレイブン・S・クロウがいるとの情報です」
指揮官の表情が険しくなった。
「〈塹壕の悪魔〉か」
「はい」
通信兵は続けた。
「さらに、敵の左翼には《Hound》と呼ばれる兵士がいます」
「Hound?」
「ガイル・ベッカーという帝国軍兵士です。何度も砲撃を受けながら防衛線を維持し、負傷者の救出にも参加しているとのことです」
指揮官は地図へ目を落とした。
「……悪魔の隣には犬がいるというわけか」
「それだけではありません」
「何?」
「連邦共和国軍の女性兵士が、レイブン・S・クロウと行動を共にしています」
「連邦軍の?」
「はい。金髪で、HARを使用する兵士です。コールサインは《Valkyrie》。エリシア・L・ヴォルハラムと確認されています」
指揮官は眉をひそめた。
「……何者だ?」
「連邦共和国軍第915旅団所属の兵士です。射撃技術に優れ、NoXの側面援護を担当しているようです」
通信兵は報告書をめくった。
「彼女が射撃で敵の動きを抑え、NoXが接近してきた部隊を迎撃するという連携が確認されています」
「……なるほど」
指揮官はしばらく考え込んだ。
そして、低い声で呟いた。
「悪魔を自由に戦わせているのは、その女ということか」
通信兵が顔を上げた。
「……はい?」
「悪魔を止める者ではない。悪魔が暴れられるように、周囲を整えている」
指揮官は苦々しく笑った。
「……まるで、悪魔の飼い主だな」
その言葉に、周囲の将校たちが顔を見合わせた。
「〈悪魔の飼い主〉……」
「〈塹壕の悪魔〉と行動する連邦共和国軍兵士か」
「しかも、その悪魔を守っている」
やがて、その呼び名は大和国軍の前線報告にも現れ始めた。
帝政歴350年07月19日、午後20時03分頃。第915旅団第二防衛線、中央塹壕。
レイブンはBPSG-12の弾薬を補充しながら、エリシアと短い休息を取っていた。
二人の周囲では、連邦共和国軍の兵士たちが塹壕の補修を進めている。
「……少し静かになったわね」
エリシアが言った。
「ああ。敵も再編成しているんだろう」
「今のうちに休んだほうがいいわ」
「お前もな」
エリシアは小さく笑った。
「私は大丈夫」
「その台詞は信用できない」
「どうして?」
「俺と同じことを言っているからだ」
エリシアは一瞬だけ目を丸くした。
そして、声を出して笑った。
「……確かに」
その時、Houndが塹壕の向こうから歩いてきた。
「おーい、NoX! 面白え話があるぞ!」
レイブンは顔を上げた。
「また何かやったのか?」
「俺じゃねえよ!」
Houndはにやにやしながら二人の前へ立った。
「どうやら、俺にも二つ名がついたらしい」
エリシアが首を傾げた。
「二つ名?」
「そうだ。〈不沈の犬〉だとよ」
レイブンは一瞬、黙り込んだ。
そして、ゆっくりと口を開いた。
「……似合っているな」
「だろ!?」
Houndは嬉しそうに笑った。
「何度撃たれても沈まねえ犬だぜ! 悪くねえだろ!」
エリシアも微笑んだ。
「ええ。あなたらしいわ」
「おう! 分かってるじゃねえか!」
しかし、Houndはそこで言葉を止めなかった。
「……で、もう一つある」
レイブンが眉をひそめた。
「何だ?」
Houndはエリシアを見た。
「お前にもついたらしいぞ、Valkyrie」
エリシアは驚いた。
「……私に?」
「ああ」
「何て呼ばれているの?」
Houndは笑いを堪えるように口元を押さえた。
「〈悪魔の飼い主〉」
沈黙が流れた。
エリシアはゆっくりと瞬きをした。
「……え?」
レイブンも動きを止めた。
「……何だって?」
Houndはついに吹き出した。
「ぶははははっ! 〈悪魔の飼い主〉だとよ! お前が〈塹壕の悪魔〉だから、その飼い主がエリシアってわけだ!」
エリシアの頬が赤くなった。
「ちょ、ちょっと待って! どうして私が飼い主なのよ!?」
「知らねえよ! 敵さんが勝手に呼び始めたんだ!」
レイブンは額へ手を当てた。
「……待て。俺は飼われているのか?」
Houndは腹を抱えて笑った。
「そういうことになるな!」
「笑い事じゃないだろ」
「いや、笑うだろ! こんなの!」
エリシアは腕を組んだ。
「……失礼ね」
Houndが笑いながら尋ねた。
「どっちに怒ってんだ? 飼い主って呼ばれたことか? それともNoXが悪魔って呼ばれてることか?」
「両方よ!」
レイブンは思わず笑った。
エリシアが振り向く。
「レイブンまで笑わないで!」
「すまない。だが……」
「だが?」
「お前が俺の飼い主なら、俺は随分と幸せな悪魔なんだろうな」
その言葉に、エリシアは固まった。
「……っ!」
Houndも一瞬だけ黙った。
そして、次の瞬間。
「おいおいおい! 今の聞いたか!?」
周囲のSHADOW LADY隊員たちが笑い始めた。
「NoXが自分から認めましたよ!」
「これは正式採用ですね!」
「やめろ、お前たち」
レイブンは苦笑しながら首を振った。
エリシアは顔を赤くしたまま、彼の腕を軽く叩いた。
「……もう、馬鹿」
「悪かった」
「……でも」
「何だ?」
エリシアは少しだけ声を落とした。
「……嫌じゃないわ」
レイブンは彼女を見た。
エリシアは照れたように視線を逸らした。
「あなたの隣にいるって意味なら、悪くないもの」
レイブンは静かに微笑んだ。
「……そうか」
その時、インカムからルナの声が響いた。
『こちらNYX。お兄ちゃん、聞こえる?』
「良好だ」
『さっき、Houndさんから面白い報告が来たんだけど』
レイブンは嫌な予感がした。
「……何だ?」
『〈不沈の犬〉と〈悪魔の飼い主〉って、本当?』
Houndが再び笑い始めた。
「ぶははっ! もう妹に伝わってやがる!」
レイブンはHoundを睨んだ。
「……お前か」
「いやあ、情報共有は大事だろ?」
ルナは楽しそうに続けた。
『なるほどね。お兄ちゃんが〈塹壕の悪魔〉で、Houndさんが〈不沈の犬〉。それで、エリシアさんが〈悪魔の飼い主〉なんだ』
「ルナ、あまり面白がるな」
『だって、すごく似合ってるんだもん』
エリシアがインカムへ向かって言った。
「ルナ! あなたまで!」
『ごめんなさい、エリシアさん。でも……』
「でも?」
『お兄ちゃんのこと、これからもよろしくお願いします』
エリシアは一瞬、言葉を失った。
そして、静かに微笑んだ。
「……ええ。任せて」
レイブンは二人の会話を聞きながら、少しだけ照れたように視線を逸らした。
「……俺の意思は?」
ルナとエリシアの声が重なった。
『もちろん尊重するよ』
「もちろん尊重するわ」
Houndが再び吹き出した。
「はははっ! 完全に包囲されてんじゃねえか!」
レイブンは深く息を吐いた。
「……敵より手強いな」
帝政歴350年07月19日、午後20時21分頃。連邦共和国東部沿岸、第915旅団前線指揮所。
通信兵が、最新の敵情報告を指揮官へ提出していた。
「大和国軍の前線通信を複数傍受しました」
「内容は?」
「帝国軍SHADOW LADYの主要人物について、敵側で新たな識別呼称が使用されています」
指揮官は報告書を開いた。
そこには、三人の名前が記されていた。
レイブン・S・クロウ《NoX》。
ガイル・ベッカー《Hound》。
エリシア・L・ヴォルハラム《Valkyrie》。
そして、それぞれの名前の横には、敵側で使用され始めた異名が記録されていた。
〈塹壕の悪魔〉。
〈不沈の犬〉。
〈悪魔の飼い主〉。
指揮官はしばらく報告書を見つめていた。
「……なるほど」
通信兵が尋ねた。
「何か問題がございますか?」
「いや」
指揮官は小さく笑った。
「敵が恐れているということは、それだけ彼らが戦場で結果を出しているということだ」
「確かに」
「ただし、異名に頼って戦争をするわけにはいかん。彼らも一人の兵士だ。休息と補給を忘れるな」
「了解しました」
指揮官は報告書を閉じた。
「……それにしても」
「はい?」
「〈悪魔の飼い主〉とは、随分と変わった呼び名だな」
通信兵は笑いを堪えながら答えた。
「……同感です」
帝政歴350年07月19日、午後20時37分頃。第915旅団第二防衛線。
夜の海岸線に、再び敵の照明弾が打ち上げられた。
白い光が空に広がり、塹壕と砂浜を照らし出す。
レイブンはBPSG-12を構え、エリシアはHARを肩へ当てた。
Houndも隣の塹壕から顔を出し、敵の動きを確認している。
「……さて」
Houndが笑った。
「〈塹壕の悪魔〉さん、次はどうする?」
レイブンは呆れたように答えた。
「その呼び方はやめろ」
「じゃあ、〈悪魔の飼い主〉さんに聞くか?」
エリシアは冷静に答えた。
「まずは敵の動きを確認することね。それから、味方の防衛線を維持する」
Houndは大げさに頷いた。
「了解しました、飼い主殿!」
「ガイル!」
レイブンは笑いながら、無線を開いた。
「SHADOW LADY、こちらNoX。敵の夜間攻撃に備える。各員、配置を確認しろ」
『了解!』
エリシアが隣へ近づいた。
「レイブン」
「何だ?」
「……無茶しないでね」
「ああ」
「約束よ?」
レイブンは彼女を見つめた。
そして、静かに頷いた。
「約束する」
その様子を見たHoundが、にやりと笑った。
「……やっぱり飼い主だな」
「聞こえているぞ」
「おっと!」
三人の笑い声が、ほんの一瞬だけ塹壕に響いた。
しかし、次の瞬間には全員が戦闘へ意識を戻していた。
遠方の砂浜では、大和国軍の夜間攻撃部隊が再び動き始めている。
帝国軍と連邦共和国軍の共同戦線は、まだ多くの困難を抱えていた。
それでも、彼らは互いを支え合いながら戦い続けていた。
レイブン・S・クロウ《NoX》。
〈塹壕の悪魔〉。
ガイル・ベッカー《Hound》。
〈不沈の犬〉。
エリシア・L・ヴォルハラム《Valkyrie》。
〈悪魔の飼い主〉。
その三つの異名は、第二次世界大戦の開戦初日に生まれた共同戦線の象徴として、敵味方双方の兵士たちの間へ広まり始めていた。
そして、後の戦史において、この三人が同じ塹壕に立った戦場は、幾度となく語り継がれることになる。
ただし、その夜の彼らにとって重要だったのは、異名でも名誉でもなかった。
目の前の仲間を守り、次の朝を迎えること。
ただ、それだけだった。




