第147話 塹壕の悪魔――包囲された上陸軍
第147話 塹壕の悪魔――包囲された上陸軍
帝政歴350年07月19日、午後18時24分頃。連邦共和国東部沿岸、南部河口地区。
夕闇が迫る海岸線に、大和国軍の上陸艇が次々と接近していた。沖合には二隻の輸送艦と複数の護衛艦艇が展開し、艦砲射撃によって沿岸の防衛施設を制圧しようとしていた。しかし、上陸予定地点には目立った反撃がなく、海岸に設けられていた連邦共和国軍の監視所も無人となっていた。
大和国陸軍の上陸部隊を率いる高瀬隆一中佐は、上陸艇の艦首から双眼鏡を覗き込み、静まり返った海岸を見つめていた。
「……妙だな」
隣に立つ副官が振り向いた。
「何か問題がございますか?」
「敵の抵抗が弱すぎる。先ほどまで沿岸砲兵が活動していたはずだ」
「艦砲射撃によって後退したのでは?」
「それならいいが……」
高瀬は双眼鏡を下ろした。
「全艇、警戒を厳にしろ。上陸後、周辺の建造物と道路を確認する」
「はっ!」
上陸艇の艦首扉が開いた。
兵士たちが次々と海水へ飛び込み、膝ほどの深さの浅瀬を駆け抜けて砂浜へ上がる。後続の舟艇からは軽装甲車両が降ろされ、工兵たちが上陸地点の障害物を調査し始めた。
しかし、海岸は異様なほど静かだった。
砲撃で破壊された監視所。
放棄された土嚢陣地。
道路脇に残された空の弾薬箱。
それらは連邦共和国軍が慌ただしく撤退したようにも見えたが、高瀬は違和感を拭えなかった。
「……前進部隊、報告せよ」
『こちら第一中隊。海岸から約八百メートル前進。敵影なし』
「第二中隊は?」
『こちら第二中隊。北側道路を確保。ただし、複数の車両走行痕を確認』
「車両?」
『はい。大型車両と思われます。比較的新しい痕跡です』
高瀬の眉が動いた。
「……戦車か?」
『現時点では不明です』
その時、遠方の丘陵地帯から低いエンジン音が聞こえてきた。
最初は一つだった。
しかし、次第に複数の音が重なり、地面を震わせるような重低音へ変わっていった。
副官が顔を上げた。
「……中佐?」
高瀬は双眼鏡を構えた。
そして、息を呑んだ。
丘陵地帯の稜線に、複数の戦車が姿を現していた。
その車体には、連邦共和国軍の識別標識が描かれている。
「……何だと?」
さらに、南側の森林からも装甲車両が現れた。
北側の道路には機械化歩兵部隊。
そして、海岸へ通じる主要道路には対戦車陣地が設けられていた。
高瀬の顔から血の気が引いた。
「……まさか」
その直後、無線機から悲鳴のような報告が入った。
『中佐! 後方の上陸地点に敵の砲撃! 輸送車両が移動できません!』
「何!?」
『さらに、海上に敵艦艇を確認! 撤収航路が封鎖されています!』
高瀬は海岸へ振り向いた。
沖合では、帝国軍と連邦共和国軍の艦艇が共同で警戒線を形成し、大和国軍の上陸部隊を孤立させようとしていた。
「……包囲されている?」
副官が震える声で呟いた。
高瀬は戦況図を見下ろした。
そして、ようやく理解した。
連邦共和国軍は撤退したのではなかった。
大和国軍を内陸へ誘い込み、既に構築していた包囲網の中へ進ませたのだ。
「……罠だったのか」
帝政歴350年07月19日、午後18時31分頃。連邦共和国東部沿岸、共同戦線臨時作戦指揮所。
大型の戦況表示装置には、南部河口地区へ上陸した大和国軍の部隊配置が映し出されていた。
その周囲には、連邦共和国軍の機械化部隊と帝国軍の支援部隊が展開している。
連邦共和国軍の作戦参謀が、戦況図を指差した。
「敵上陸部隊は予定どおり、南部河口地区へ進入しました」
帝国軍の連絡将校が頷いた。
「北側の退路は?」
「連邦共和国軍機械化歩兵部隊が封鎖しています」
「南側は?」
「戦車部隊が展開済みです」
「海上は?」
「帝国海軍と連邦共和国海軍が共同で警戒中。敵の増援と撤収を阻止しています」
作戦参謀は静かに息を吐いた。
「……包囲完成です」
連邦共和国軍の指揮官が腕を組んだ。
「よし。まずは降伏を勧告する」
帝国軍の連絡将校が顔を上げた。
「攻撃しないのですか?」
「抵抗を続けるなら必要な攻撃は行う。しかし、無駄な犠牲を増やす理由はない」
「同意します」
指揮官は無線機を取った。
「こちら共同戦線司令部。南部河口地区の大和国軍部隊へ降伏勧告を送信せよ」
帝政歴350年07月19日、午後18時38分頃。南部河口地区、大和国軍臨時指揮所。
高瀬中佐は、砂浜近くの建物に設置された臨時指揮所で戦況報告を受けていた。
「北側道路、敵機械化歩兵部隊によって封鎖!」
「南側丘陵、敵戦車多数!」
「海上の輸送艦が後退を開始しました!」
報告が次々と飛び込んでくる。
高瀬は机に広げた地図を見つめた。
「……我々は完全に囲まれたということか」
副官が頷いた。
「はい。敵は既に周辺の高地と道路を確保しています」
その時、通信兵が駆け込んできた。
「中佐! 敵から通信です!」
「内容は?」
「帝国軍および連邦共和国軍の共同戦線司令部より、降伏勧告です!」
高瀬は目を閉じた。
帝国と連邦共和国。
長年対立してきた二つの国家が、今は共同で大和国軍を包囲している。
その事実は、彼にとって信じ難いものだった。
「……帝国が連邦共和国と手を組んだのか」
副官が小さく答えた。
「そのようです」
「……我々は、敵を見誤ったのかもしれんな」
高瀬は窓の外を見た。
砂浜には、まだ多くの若い兵士たちがいた。
上陸直後の混乱の中で負傷した者。
補給物資を運ぶ者。
仲間の安否を確認している者。
彼らの多くは、まだ戦争が始まって一日も経っていないことを知っていた。
高瀬は長い息を吐いた。
「……これ以上、部下を死なせるわけにはいかん」
副官が顔を上げた。
「中佐……」
「全部隊へ通達。射撃を停止し、武器を置け」
「……降伏なさるのですか?」
「ああ」
高瀬は静かに頷いた。
「我々の戦いは、ここまでだ」
帝政歴350年07月19日、午後18時46分頃。南部河口地区。
大和国軍の臨時指揮所から、白旗が掲げられた。
その報告は、包囲網を形成していた連邦共和国軍と帝国軍の双方へ伝えられた。
「敵、降伏の意思を表明!」
「全部隊、射撃停止!」
「捕虜受け入れ準備!」
連邦共和国軍の兵士たちは警戒を維持しながら、武器を置いた大和国軍兵士たちを誘導した。
帝国軍の衛生兵も負傷者の救護へ参加し、国籍に関係なく応急処置を行っていた。
こうして、大和国軍による別地点への上陸作戦は、連邦共和国軍と帝国軍の共同包囲によって失敗に終わった。
しかし、その頃、別の戦場では一人の帝国軍兵士の名前が再び広まり始めていた。
帝政歴350年07月19日、午後19時02分頃。連邦共和国東部沿岸、第915旅団第二防衛線。
夜の帳が降り始めた海岸線では、依然として断続的な戦闘が続いていた。
大和国軍の主力上陸部隊は南部河口地区での作戦失敗を知らされておらず、第915旅団の防衛線へ攻撃を続けていた。
その塹壕の一角で、レイブン・S・クロウ《NoX》はBPSG-12を構え、接近する敵歩兵へ向けて射撃を続けていた。
「敵歩兵、右側面!」
エリシアの声が響いた。
「確認!」
レイブンは身体を低くしながら塹壕の角へ移動し、敵の接近を阻止した。
Houndが隣から援護射撃を行う。
「クソッ! まだ来やがる!」
「Hound、左を頼む!」
「了解!」
銃声が続いた。
大和国軍の歩兵たちは、帝国軍の特殊部隊が防衛線へ加わったことを既に把握していた。
しかし、その中に誰がいるのかまでは知らされていなかった。
その時、敵側の無線に一つの報告が流れた。
『……敵防衛線に、黒髪の猫系亜人を確認』
大和国軍の前線指揮官が顔を上げた。
「猫系亜人?」
『はい。金色と黒色の異なる瞳を持つ兵士です。散弾銃を使用し、連邦共和国軍の兵士と共同で行動しています』
指揮官の表情が変わった。
「……まさか」
隣の通信兵が尋ねた。
「ご存じなのですか?」
指揮官はゆっくりと頷いた。
「昨夜、我が軍の沿岸要塞で交戦した帝国軍兵士の報告を覚えているか?」
「……はい」
「黒髪の猫系亜人。金と黒のオッドアイ。散弾銃を使用し、包囲された部隊を率いて撤退した男」
通信兵は息を呑んだ。
「……NoX?」
指揮官は低い声で答えた。
「そうだ」
そして、周囲の兵士たちへ視線を向けた。
「帝国軍のレイブン・S・クロウ」
その名前を聞いた兵士の一人が、顔色を変えた。
「……〈塹壕の悪魔〉」
その言葉が、周囲へ伝わっていった。
帝政歴350年07月19日、午後19時11分頃。第915旅団第二防衛線、中央塹壕。
「……おい、NoX」
Houndが声をかけた。
「何だ?」
「敵の無線を傍受したらしいんだがよ」
「内容は?」
Houndはにやりと笑った。
「お前の名前が出てる」
レイブンは眉をひそめた。
「俺の?」
「ああ。しかも、随分と懐かしい呼び方でな」
エリシアが振り向いた。
「……まさか」
Houndは楽しそうに頷いた。
「そう、そのまさかだ」
彼はレイブンの肩を軽く叩いた。
「おかえり、〈塹壕の悪魔〉」
レイブンは呆れたように息を吐いた。
「……その名前は、もう忘れられたと思っていたんだが」
「残念だったな。敵さんはしっかり覚えてたらしいぜ」
エリシアは小さく笑った。
「あなたらしいわね」
「褒められている気がしない」
「褒めているつもりよ」
「……そうか」
その時、無線機からルナの声が響いた。
『こちらNYX。NoX、聞こえる?』
「良好だ」
『南部河口地区の敵上陸部隊が降伏したって! 共同戦線司令部から正式な報告が来たよ!』
「そうか」
レイブンは静かに頷いた。
「よくやったな」
『お兄ちゃんたちもね。それと……』
ルナは少しだけ声を弾ませた。
『また〈塹壕の悪魔〉って呼ばれてるんだって?』
レイブンは目を閉じた。
「……誰から聞いた?」
『Houndさん』
「……Hound」
隣でHoundが腹を抱えて笑っていた。
「ぶはははっ! いやあ、懐かしいじゃねえか!」
「お前という奴は……」
エリシアも笑いを堪えきれなかった。
「ふふっ……でも、悪くないと思うわ」
レイブンは二人を見た。
そして、諦めたように小さく笑った。
「……好きに呼べ」
その時、遠方から再び砲声が響いた。
大和国軍の主力部隊は、依然として第915旅団の防衛線へ攻撃を続けていた。
しかし、南部河口地区での別上陸作戦が失敗したことで、大和国軍の作戦計画には大きな狂いが生じ始めていた。
一方、帝国軍と連邦共和国軍の共同戦線は、初めての大規模な共同包囲作戦を成功させた。
その勝利は、両国の兵士たちに新たな希望を与えていた。
レイブンは塹壕の外を見つめた。
暗闇の向こうには、まだ敵の砲火が見えている。
「……まだ終わらないな」
エリシアが隣に立った。
「ええ」
Houndも銃を構え直した。
「だったら、もうひと頑張りするか!」
レイブンは静かに頷いた。
「そうだな」
そして、インカムを開いた。
「こちらNoX。SHADOW LADY、全員に告ぐ。第915旅団の防衛線を維持する。負傷者を優先し、無理な追撃はするな」
『了解!』
夜の海岸線に、再び銃声が響いた。
帝政歴350年07月19日。
第二次世界大戦開戦初日。
帝国軍と連邦共和国軍による共同包囲作戦は、大和国軍の別上陸部隊を降伏へ追い込んだ。
そして、戦場では一人の帝国軍兵士の異名が再び囁かれ始めていた。
レイブン・S・クロウ《NoX》。
かつて北部の泥濘に覆われた塹壕で、幾度となく死線を越えた男。
その名は今、敵味方双方の兵士たちの記憶に、再び刻まれようとしていた。
〈塹壕の悪魔〉。
それは、戦争が再び彼を呼び戻した証でもあった。




