第142話 宣戦なき侵攻――燃える海岸線
第142話 宣戦なき侵攻――燃える海岸線
帝政歴350年07月19日、午前03時27分頃。大和国北東部沿岸、河口沖合へ向かう帝国軍高速戦闘舟艇。
夜明け前の河川を、三隻の高速戦闘舟艇が猛烈な勢いで駆け抜けていた。
ウォータージェット推進装置が大量の水を船尾から噴き出し、暗い水面に白い航跡を描いている。両岸にそびえていた山々は次第に低くなり、遠方には河口を示す航路標識と、月光を反射する広大な海面が見え始めていた。
先頭艇の甲板では、レイブン・S・クロウ《NoX》が濡れた戦闘服の上から防寒用の外套を羽織り、船体の手すりに身体を預けていた。
金色と黒色のオッドアイが、遠ざかっていく大和国の山並みを見つめている。
つい数分前まで、彼は敵歩兵部隊に追い詰められ、急流へ飛び込むという危険な撤収を余儀なくされていた。
しかし、今は違う。
彼の隣には、白い髪を夜風になびかせる妹、ルナ・V・クロウ《Nyx》が立っていた。
「お兄ちゃん、寒くない?」
「少しな」
「だから言ったでしょ。川に飛び込むなら、ちゃんと装備を固定してって」
「飛び込めと言ったのはお前だろう」
「それとこれとは別!」
レイブンは小さく笑った。
ルナは呆れたように頬を膨らませたが、すぐに兄の外套を整えた。
「……でも、本当に無事でよかった」
「助かったよ、ルナ」
「うん」
その時、操舵席から通信担当者が顔を出した。
「NYX! 帝国軍統合司令部より緊急通信! 優先度、最上位!」
ルナの表情が変わった。
「内容は?」
「大和国軍による大規模軍事行動を確認! 連邦共和国沿岸部への攻撃が開始された模様です!」
レイブンが振り向いた。
「……何?」
通信担当者は受信した暗号電文を読み上げた。
「大和国海軍の複数の艦隊が、連邦共和国東部沿岸へ接近! 艦砲射撃を開始すると同時に、輸送船団から上陸部隊が発進! 連邦共和国軍の沿岸防衛施設に対して強襲上陸戦を開始したとのことです!」
ルナは息を呑んだ。
「……上陸戦?」
「さらに、大和国航空部隊による連邦共和国軍基地への攻撃も確認されています! 現時点で、大和国政府による正式な宣戦布告は確認されていません!」
レイブンは無言で海の方角へ視線を向けた。
昨夜、大和国軍の将校と交渉した際に感じた違和感。
海岸要塞の異常な警戒態勢。
港湾施設に集結していた軍艦。
そして、深夜にもかかわらず次々と離陸していた航空機。
それらの意味が、ようやく一つにつながった。
「……やはり、そういうことか」
ルナが兄を見た。
「お兄ちゃん?」
「大和国は、最初から戦争を始めるつもりだったんだ」
「でも、宣戦布告もなしに?」
「ああ」
レイブンは静かに頷いた。
「相手が戦争を始める準備を整える前に、先制攻撃で主導権を握るつもりなんだろう」
その時、通信担当者が続報を読み上げた。
「連邦共和国軍は沿岸防衛部隊を緊急展開! 複数の港湾都市で戦闘が発生しています! また、帝国軍統合司令部は全方面軍に対し、警戒態勢の引き上げを命令しました!」
ガイル・ベッカー《Hound》が後方から近づいてきた。
「……おいおい、マジかよ」
彼は濡れた髪を乱暴に拭いながら、通信担当者の持つ電文を覗き込んだ。
「俺たちが川で泳いでる間に、あいつら本当に戦争を始めやがったのか?」
「そうらしい」
「クソッ……こりゃ、とんでもねえことになったな」
レイブンは腕を組み、しばらく考え込んだ。
そして、ある人物の顔が脳裏に浮かんだ。
金色の髪。
落ち着いた声。
そして、つい先ほどインカム越しに自分の無事を喜んでくれた女性。
「……エリシア」
ルナが兄の表情を見た。
「エリシアさん?」
「ああ。彼女は連邦共和国軍所属だ」
「……まさか」
レイブンは通信担当者へ振り向いた。
「連邦共和国軍第915旅団の現在位置を確認できるか?」
「確認を試みます!」
「頼む」
通信担当者が無線機を操作し始める。
その頃、遠く離れた連邦共和国では、既に戦争の炎が燃え広がり始めていた。
帝政歴350年07月19日、午前03時34分頃。連邦共和国東部沿岸、第915旅団臨時集結地域。
巨大な軍用輸送機が、夜明け前の滑走路へ着陸した。
着陸装置が地面を捉え、機体が激しく振動する。逆噴射装置が轟音を立て、長い滑走の末に輸送機はようやく速度を落とした。
機内では、連邦共和国軍第915旅団所属のエリシア・L・ヴォルハラムが、安全帯を外しながら窓の外を見つめていた。
金色の髪は後頭部で束ねられ、戦闘服の上には防弾装備が着用されている。
彼女の表情には、先ほどまでの安堵とは異なる緊張が浮かんでいた。
数十分前、彼女はレイブンが無事に救出されたという報告を受け、ようやく胸を撫で下ろしたばかりだった。
しかし、その直後に届いたのは、大和国軍による連邦共和国沿岸部への大規模攻撃という衝撃的な情報だった。
「……こんなことになるなんて」
エリシアは小さく呟いた。
隣に座っていた同僚の女性兵士が、弾倉を確認しながら声をかけた。
「ヴォルハラム、聞いた?」
「何を?」
「東部沿岸の防衛線が突破されかけてるって。敵の上陸部隊が、もう海岸に取り付いてるらしい」
エリシアは眉をひそめた。
「……どの地区?」
「詳しい場所はまだ分からない。でも、第915旅団にも緊急出動命令が出た」
その時、機内放送が響いた。
『第915旅団所属の全将兵に告ぐ! 降機後、直ちに指定された輸送車両へ移乗せよ! 大和国軍の強襲上陸により、東部沿岸防衛線で戦闘が発生している!』
兵士たちの表情が一斉に引き締まった。
『本旅団は、沿岸防衛部隊の増援として前線へ急行する! 装備を確認し、速やかに行動せよ!』
エリシアはHAR系統の主武器を手に取り、弾倉と照準器の状態を確認した。
「……行きましょう」
隣の兵士が頷いた。
「ええ」
輸送機の後部ハッチが開くと、冷たい夜風が機内へ吹き込んできた。
滑走路の周囲には多数の軍用車両が並び、兵士たちが慌ただしく走り回っていた。
遠方では防空警報が鳴り響き、基地の上空を戦闘機が低高度で通過していく。
エリシアは地面へ降り立つと、誘導員の指示に従って装甲輸送車へ向かった。
その途中、基地の通信塔から緊急放送が流れた。
『連邦共和国軍統合司令部より全軍へ通達! 大和国軍は正式な宣戦布告を行わないまま、我が国の沿岸軍事施設および港湾地域へ攻撃を開始した!』
兵士たちの足が一瞬止まった。
『現在、東部沿岸各地で敵上陸部隊との戦闘が継続中! 全軍は所定の防衛計画に従い、敵の侵攻を阻止せよ!』
エリシアは空を見上げた。
「……レイブン」
彼女は小さく名前を呼んだ。
そして、先ほど交わした言葉を思い出した。
『帰ったら、ゆっくり話そう』
『……ええ。待ってるから』
しかし、その約束が果たされるまでには、まだ長い時間が必要になるのかもしれなかった。
「ヴォルハラム! 急いで!」
同僚の声に、エリシアは我に返った。
「今行く!」
彼女は装甲輸送車へ駆け寄り、後部ハッチから乗り込んだ。
車内には既に十名近い兵士が座っており、それぞれが武器を抱えながら出発を待っていた。
やがて車列が動き始める。
先頭を走る装甲車両の後ろに、歩兵輸送車、弾薬輸送車、衛生車両が続いた。
道路の両側には、避難する民間人の車列が長く伸びていた。
子供を抱えた母親。
荷物を積み込む老人。
家族を探して叫ぶ人々。
エリシアは窓越しに、その光景を見つめていた。
「……また、戦争が始まるのね」
隣の兵士が答えた。
「もう始まってるわ」
その言葉に、エリシアは何も返せなかった。
帝政歴350年07月19日、午前04時12分頃。連邦共和国東部沿岸、第915旅団防衛担当地区。
海岸線は、既に戦場と化していた。
遠方の水平線には、大和国海軍の艦艇が黒い影となって浮かんでいる。
その周囲では上陸用舟艇が次々と発進し、海岸へ向かって白い航跡を描いていた。
連邦共和国軍の沿岸砲台が轟音を立てて火を噴き、海上へ向けて砲弾を撃ち込む。
数秒後、沖合で巨大な水柱が立ち上がった。
しかし、その直後、大和国海軍の艦艇から反撃の艦砲射撃が始まった。
空気を引き裂くような飛翔音。
続いて、海岸防衛陣地の一角で大爆発が発生した。
土砂とコンクリート片が空高く舞い上がり、爆風が塹壕の内部まで吹き込んでくる。
「伏せろォォッ!」
連邦共和国軍の指揮官が叫んだ。
兵士たちが一斉に身を低くする。
その数秒後、エリシアを乗せた装甲輸送車が防衛線後方へ到着した。
「第915旅団、降車! 各員、指定陣地へ急げ!」
エリシアは車両から飛び降りた。
足元の地面が、遠くの砲撃によって小刻みに震えている。
彼女はHARを胸元で保持しながら、前方の塹壕へ走った。
「ヴォルハラム! こちらだ!」
先行していた同僚が手を振る。
エリシアは塹壕へ滑り込み、膝をついた。
目の前には、海岸へ向かって延びる広大な防衛陣地があった。
機関銃座。
対戦車砲陣地。
迫撃砲陣地。
そして、後方には自走砲と多連装ロケット砲が展開している。
だが、それでも敵の上陸部隊を完全に阻止するには至っていなかった。
「敵上陸艇、接近! 距離二千!」
観測員が叫んだ。
「沿岸砲兵、射撃準備!」
指揮官が無線へ怒鳴る。
「目標、敵上陸艇群! 射撃開始!」
直後、後方の砲兵陣地から連続した轟音が響いた。
砲弾が海上へ降り注ぎ、複数の上陸艇の周囲で水柱が立ち上がる。
一隻が直撃を受け、船体を大きく傾けた。
しかし、残る舟艇は速度を落とさなかった。
エリシアは照準器越しに海岸を見つめた。
波打ち際へ接近する上陸艇。
艦首の扉が開き、次々と兵士たちが飛び出してくる。
大和国軍の歩兵だった。
「……来た」
エリシアは小さく呟いた。
その瞬間、指揮官の声が響いた。
「全員、戦闘配置! 敵を海岸線で阻止しろ!」
エリシアはHARを構えた。
金色の髪が、爆風に煽られて揺れる。
彼女の視線は、海岸へ向かって進撃してくる敵兵たちを捉えていた。
「……レイブン」
もう一度だけ、彼の名前を呟いた。
そして、引き金へ指をかける。
「私も、必ず帰るから」
直後、海岸防衛線の機関銃が一斉に火を噴いた。
激しい銃声が、夜明け前の海岸に響き渡る。
大和国軍の強襲上陸作戦。
連邦共和国軍第915旅団の防衛戦。
そして、帝国軍特殊任務部隊《SHADOW LADY》の撤収。
三つの出来事は、同じ夜のうちに発生していた。
帝政歴350年07月19日。
後に第二次世界大戦の開戦日として記録されるその日、レイブンとエリシアは、遠く離れた別々の戦場で、それぞれの戦いを迎えることになった。




