第139話 月下の方陣
第139話 月下の方陣
帝政歴350年07月18日、午後23時17分頃。大和国沿岸部、海岸要塞北西側山岳地帯。
夜の山林を、一つの黒い影が疾走していた。
月明かりが木々の隙間から差し込むたび、黒髪と猫耳を持つ青年の姿が浮かび上がる。レイブン・S・クロウ。帝国軍特殊任務部隊《SHADOW LADY》を率いる彼は、先ほど無線越しに聞こえた銃声と、ガイル・ベッカー《Hound》の怒鳴り声を頼りに、険しい山道を駆け抜けていた。
「こちらNoX。Hound、現在位置を再送しろ」
『クソッ! だから右だって言ってんだろうが! ……ああ!? NoXか!? 今それどころじゃねえんだよ!』
直後、無線の向こうで激しい銃声が響いた。
『こちらHound! 海岸要塞の北西、旧監視所付近だ! 敵に囲まれてる! ただし、今んところ全員生きてるぜ!』
「了解。あと三十秒で到着する」
『三十秒!? お前、どこから来るつもりだ!?』
「上だ」
『はあ!?』
通信を切ったレイブンは、目前に現れた崖を見上げた。
通常の兵士であれば迂回するしかない、高低差二十メートル以上の岩壁だった。
しかし、彼は速度を落とさなかった。
地面を強く蹴り、岩肌へ飛び移る。右足で突起を捉え、次の瞬間には身体を反転させて別の岩へ跳躍した。
〔身体超強化〕。
全身を巡る魔力が筋肉と神経の反応速度を引き上げ、常人には不可能な連続跳躍を可能にする。
数秒後、崖上へ到達したレイブンは、木々の向こうから漏れる銃口炎を確認した。
「……見つけた」
旧監視所の周辺には、崩れた石壁と放棄された軍用車両が散乱していた。その中央で、複数の人影が互いに背中を預けるように集まり、四方へ銃口を向けている。
SHADOW LADYだった。
レイブンを除く全員が既に合流しており、中央に負傷者と通信装備を置いた方陣を形成していた。
東側を守るHoundは、遮蔽物から半身を出して短い射撃を繰り返している。
「このクソ野郎共! 何人湧いてきやがるんだ! さっきから撃っても撃ってもキリがねえ!」
「Hound! 弾を無駄にしないで!」
反対側から女性隊員の声が飛んだ。
「分かってるっつーの! こっちは観光に来たんじゃねえんだぞ!」
「だったら少しは静かに戦いなさい!」
「無茶言うな!」
そのやり取りを聞きながら、レイブンは敵の配置を観察した。
方陣を囲んでいるのは、大和国軍の歩兵だった。
暗緑色の軍服に鉄帽、長銃身の小銃。数名は軽機関銃を携行しており、旧監視所へ通じる三本の山道を押さえていた。
さらに、南側の斜面には重機関銃陣地が設けられ、SHADOW LADYの退路を封鎖している。
「……ずいぶん派手に歓迎されたな」
レイブンは小さく呟き、背負っていたBPSG-12の安全装置を確認した。
その時、方陣の北側から叫び声が上がった。
「敵、接近! 距離四十!」
「撃て! 近づけるな!」
銃声が重なり、木々の間から飛び出した敵兵たちが次々と地面に倒れた。
しかし、さらに後続が現れる。
レイブンは木の枝へ飛び移り、眼下の敵部隊を見下ろした。
〔殺気看破〕。
周囲に満ちる敵意と攻撃の兆候が、彼の感覚に流れ込む。
敵の一人が方陣へ手榴弾を投げようとしていた。
「……遅い」
乾いた銃声が一発。
敵兵の腕が跳ね上がり、手榴弾は投げられることなく地面へ落ちた。
「伏せろ!」
敵兵たちが一斉に身を投げ出す。
直後、斜面の向こうで爆発が起こった。
その爆音に紛れ、レイブンは枝から飛び降りた。
着地と同時に膝を曲げ、衝撃を吸収する。続いてBPSG-12を構え、方陣へ接近しようとしていた敵兵へ銃口を向けた。
轟音。
散弾が至近距離の敵を捉え、さらに二発目が続いた。
「敵の増援か!?」
Houndが振り向く。
しかし、月光の下に立っていた黒い猫耳と、金色と黒色のオッドアイを見た瞬間、その表情が変わった。
「……おいおい」
レイブンは銃口を下げずに答えた。
「待たせたな、Hound」
「遅えんだよ、このクソ猫野郎!」
「三十秒と言ったはずだ」
「二十八秒だ! あと二秒早く来い!」
「相変わらず注文が多いな」
レイブンが軽く笑うと、Houndも歯を見せて笑った。
しかし、その直後、南側の重機関銃が再び火を噴いた。
石壁が砕け、破片が飛び散る。
「伏せろ!」
レイブンの警告と同時に、全員が身を低くした。
銃弾が頭上を通過し、背後の樹木を削り取っていく。
「状況を報告しろ」
レイブンは石壁の陰に滑り込み、Houndの隣へ膝をついた。
「降下後、予定どおり集合地点へ向かってたんだが、途中で大和国軍の巡察隊に見つかった。こっちが交戦を避けようとしても、向こうが撃ってきやがったんだ」
「こちらの損害は?」
「軽傷二名。重傷者なし。弾薬はまだあるが、長引けば厳しい」
「敵戦力は?」
「確認できただけで一個中隊規模。増援が来てる可能性もある」
レイブンは周囲を見渡した。
SHADOW LADYの隊員たちは、誰一人として持ち場を離れていなかった。
負傷した仲間を守りながら、各自が担当する射界を維持している。
方陣の中央には通信担当者が座り、暗号化された短距離通信で周辺状況を収集していた。
「よく持ちこたえた」
その言葉に、Houndは鼻を鳴らした。
「当然だろ。誰に鍛えられたと思ってやがる」
「俺だな」
「自分で言うな、馬鹿野郎」
二人の間に短い笑いが生まれた。
だが、レイブンの視線はすぐに鋭さを取り戻した。
「全員、聞こえるか。こちらNoX。指揮を引き継ぐ」
無線に次々と応答が返る。
『了解、NoX』
『西側、警戒継続』
『北側、敵歩兵の動きあり』
『南側、重機関銃陣地を確認』
レイブンは一度だけ深く息を吸った。
「方陣は維持しろ。負傷者を中央から動かすな。敵の射撃が止まるまで不用意に頭を出すな」
「で、お前はどうする?」
Houndが尋ねた。
レイブンは南側の斜面を見つめた。
そこには、月光を反射する機関銃の銃身が見えていた。
「まず、あれを黙らせる」
「一人でか?」
「お前が来てもいいぞ」
「冗談じゃねえ。せっかく全員揃ったってのに、またバラバラになるつもりかよ」
レイブンは一瞬、Houndを見た。
その言葉には、単なる戦術上の反対以上の意味があった。
長い戦争の中で離れ離れになり、ようやく再集結した仲間たち。
彼らはもう、昔の志願兵学校にいた少年少女ではない。
幾度もの戦場を生き延び、それぞれが仲間を失い、傷を負い、それでも再び同じ場所へ集まった兵士たちだった。
「……そうだな」
レイブンは小さく頷いた。
「なら、全員で突破する」
「最初からそう言えってんだ」
Houndが笑い、弾倉の残弾を確認した。
レイブンは無線を開いた。
「SHADOW LADY、全員に告ぐ。現在位置は敵の包囲下にある。しかし、我々の目的はこの山で敵を全滅させることではない。海岸要塞への潜入と、敵防衛施設の情報収集だ」
隊員たちは静かに耳を傾けた。
「敵は我々を包囲したと思っている。だが、それは違う」
レイブンはBPSG-12を握り直した。
「敵は、自分たちの包囲網の内側に何を閉じ込めたのか、まだ理解していない」
Houndが口元を吊り上げた。
「……へっ。そうこなくっちゃな」
レイブンは全員の位置を確認すると、落ち着いた声で続けた。
「ここからは単独行動を禁止する。相互支援を維持し、負傷者を守りながら移動する。敵の射撃が弱まった瞬間、北西側の森林地帯へ突破する」
『了解!』
「Hound、お前は先頭を頼む」
「任せろ。道を開けりゃいいんだろ?」
「ただし、突っ込みすぎるな」
「分かってるって!」
「お前の『分かってる』は信用できん」
その言葉に、無線越しから小さな笑い声が漏れた。
Houndは不満そうに舌打ちしたが、その顔には笑みが浮かんでいた。
その時だった。
南側の機関銃が突然沈黙した。
続いて、敵陣から短い怒号が響いた。
「……何だ?」
Houndが眉をひそめる。
レイブンも顔を上げた。
斜面の向こうで複数の照明弾が打ち上げられ、白い光が夜空を照らした。
そこに浮かび上がったのは、海岸要塞から山道へ向かって進む装甲車両の列だった。
先頭車両には、大和国軍の軍旗が掲げられている。
「NoX、ありゃまずいぞ」
Houndが呟いた。
「歩兵だけじゃ飽き足らず、装甲車まで持ってきやがった」
レイブンは双眼鏡を取り出し、車列の動きを確認した。
装甲車両は旧監視所へ直接向かっているわけではなかった。
むしろ、周辺の歩兵部隊を収容しながら、一定の距離を保って停止している。
そして、先頭車両から一人の将校が降り立った。
将校は拡声器を手にすると、こちらへ向けて声を張り上げた。
『山中に潜伏する所属不明の武装集団に告ぐ! 貴様らは既に包囲されている! 武器を捨て、直ちに投降せよ!』
Houndが呆れたように笑った。
「今さら投降勧告かよ」
レイブンは答えなかった。
将校の言葉を聞きながら、周囲の銃声が次第に止んでいくことに気づいていた。
大和国軍は攻撃を一時中止していた。
それは、単に降伏を促すためなのか。
それとも、何か別の目的があるのか。
『繰り返す! 抵抗を続ければ、貴様らの安全は保証できない!』
レイブンはゆっくりと立ち上がった。
「NoX?」
Houndが声をかける。
「撃つな。全員、そのまま警戒を続けろ」
「おい、まさか投降する気じゃねえだろうな?」
「違う」
レイブンは敵将校の姿を見据えた。
「少し、話をしてみる」
そして、月明かりに照らされた崩れかけの石壁の前へ進み出た。
黒い猫耳が夜風に揺れ、金と黒のオッドアイが遠くの敵陣を捉える。
敵将校が拡声器を下ろした。
周囲の大和国軍兵士たちが、一斉にレイブンへ銃口を向ける。
その光景を見ても、彼は一歩も退かなかった。
「こちらは帝国軍所属、レイブン・S・クロウだ」
静かな声が、夜の山間に響いた。
「そちらの指揮官と話がしたい」
敵陣に動揺が走った。
そして、装甲車両の傍らに立っていた将校が、驚いたように顔を上げる。
『……レイブン・S・クロウ?』
将校の声色が変わった。
『まさか、貴様が……』
レイブンはその反応を見逃さなかった。
『帝国軍の……〈塹壕の悪魔〉か!?』
背後でHoundが吹き出した。
「ハッ! お前の悪名、こんな島国にまで届いてんのかよ!」
レイブンはため息をついた。
「……どうやら、自己紹介は必要なかったらしい」
月光の下、二つの軍勢が向かい合う。
銃口は互いに向けられたまま、誰も引き金を引かなかった。
そしてレイブンは、この大和国への降下任務が、当初想定していた単なる潜入作戦では済まなくなることを予感していた。




