第136話 押し返す三か月と海へ続く道
第136話 押し返す三か月と海へ続く道
乃子夜軍港爆撃後、大和国軍前線指揮所
報告書を持つ参謀の額から、汗が落ちた。
地下の指揮所は冷えていた。それでも、襟元を伝う汗を拭う余裕がなかった。
乃子夜軍港との通信は途絶していた。周辺部隊から届いた報告は、港を覆う火災と、近づけない道路、運び切れない負傷者について伝えていた。
出港予定だった船団が、予定どおり来るかどうかさえ分からない。
机の前に立つ指揮官が、報告を読み終えた。
「後続の輸送は」
「確認中です。別の港へ振り替えるにも、船舶と荷役設備が――」
「分かっている」
言葉を遮った声は、掠れていた。
地図の上には、深く連邦領へ進出した部隊が並んでいた。その位置を保つために必要な補給は、途切れず海を渡ってくるはずだった。
指揮官は額を拭い、通信担当者へ向き直った。
「全軍へ撤退指示を出せ。前進を中止し、各部隊は指定される線へ後退する」
参謀の一人が顔を上げた。
「負傷者と、前方の集積物資は」
「可能な限り収容する。隣接部隊との連絡を切るな。後退中に孤立するぞ」
命令が書き取られた。
通信兵が復唱し、確認を受けると、すぐに送信へ移った。
受領の返答が、一つずつ戻り始めた。
しかし、遠くまで広がった部隊が、一斉に向きを変えられるわけではなかった。
命令を受けたとき、すでに戦闘中の部隊もあった。車両を修理している部隊も、負傷者を運ぶ手段を待つ部隊もあった。
地図上の印は、すぐには動かなかった。
連邦共和国前線では、敵の砲撃が減ったことに、最初に監視兵が気づいた。
それまで繰り返されていた攻撃が止まり、道路を前へ進んでいた車両が、逆方向へ動き始めた。
「後退しているように見えます」
報告を受けた下士官は、すぐに追撃を命じなかった。
「監視を続けろ。残っている火器を確かめる」
レイブンは建物の陰で待ちながら、通りの先を見ていた。
敵が退いたように見えても、角を曲がった先まで安全とは限らない。実際、確認に出た別の区画では、残置された敵部隊から射撃を受けていた。
ガイルが戻ってきた。
「こっちも押し上げが弱まってる。隣の区間でも同じらしい」
「何かあったのか」
「まだ分からん。指揮所で情報を集めてる」
乃子夜軍港への爆撃を二人が知ったのは、その後だった。
伝えられたのは、港湾機能に甚大な被害が出たことと、大和国軍の動きに変化が見られることだった。そこで何人が傷つき、何が失われたのかを示す数字は、まだなかった。
レイブンは報告を聞き終え、地図へ目を戻した。
敵が退けば、その先には取り戻すべき町がある。だが、進む兵の仕事が軽くなるわけではなかった。
帝国と連邦共和国の合同部隊は、各地で小規模な部隊行動を始めた。
正面から押し合うだけでは届かなかった場所へ、現地の道を知る連邦兵と帝国兵が入り、敵の後退を監視した。取り残された味方との連絡を回復し、住民から情報を集め、退路を守る大和国軍の部隊と交戦した。
報告には、ゲリラ式の戦術による戦果が増えていった。
レイブンたちも、一つの場所に長く留まらなくなった。
村へ入った翌日に別の区画へ移り、夜を明かした建物へ戻らないこともあった。道を案内してくれた住民とは、次に会えるか分からないまま別れた。
ある集落では、入口に掲げられた古い標識だけが残っていた。
レイブンは崩れた家の前で足を止めた。
窓のなくなった部屋に、食卓があった。片脚が折れ、斜めになったまま壁へ寄り掛かっている。
「クロウ」
呼ばれて振り返ると、連邦兵が手招きしていた。
「奥に人がいる」
地下室の扉を開けると、数人の住民が身を寄せていた。
先頭にいた女性は、エリシアの言葉を聞いても、すぐには立ち上がらなかった。軍服の標識を何度も見直し、ようやく戸口へ手をつく。
「もう、出てもいいんですか」
「この周囲は確認しています。外で、順番にお話を聞かせてください」
エリシアは手を差し出した。
女性はその手を取り、明るさに目を細めながら階段を上った。
一方で、敵の後退が止まり、激しい抵抗を受ける場所もあった。
前日まで通れた道が砲撃され、予定していた合流が遅れた。部隊が戻るたびに人員を確認し、空いた場所へ誰かの荷物だけが置かれる夜もあった。
ガイルは疲れた顔で壁へ背を預け、携行食の包みを開いた。
「今日は、温かい飯だと思ったんだがな」
レイブンは隣へ座った。
「俺もだ」
二人は黙って食べた。
向かいでは、エリシアが受け取ったばかりの報告に目を通していた。解放された地域の名前を確かめ、紙を返す。
両親の消息を求める照会は続いていた。
新しい地域へ入るたび、彼女には尋ねたいことが増えた。それでも、住民の名簿を扱う者へ必要な情報を伝えたあとは、自分の持ち場へ戻った。
レイブンは、その隣で同じ地名を覚えていった。
三か月が過ぎた頃、合同部隊の指揮所には、新たな戦況図が掲げられた。
連邦共和国側が確保した地域は、国土のおよそ二分の一にまで回復していた。
将校が線を指し、今後の担当区間を説明する。
レイブンはその先を見た。
取り戻した土地の向こうには、まだ大和国軍の支配下にある町が続いていた。
説明を終えて外へ出ると、補給車両が列を作っていた。帰還した兵が車体から泥を落とし、交代の兵が荷物を積み込んでいる。
ガイルが上着を羽織った。
「半分か」
「ああ」
レイブンの隣へ、エリシアが来た。
三人はしばらく、動き始めた車列を見ていた。
やがて呼集の声がした。
レイブンは肩の帯を直し、二人とともに歩き出した。
海の匂いに気づいたのは、朝の風が建物の間を抜けたときだった。
レイブンは足を止めず、道路の先を見た。崩れた家並みの向こうに、低い灰色の空が広がっている。
丘を越えれば、海岸だった。
そこまでの道には、何度も部隊が通った跡があった。路肩へ押し退けられた車両、放棄された荷箱、泥に半ば埋まった装具。車体の扉に、大和国の標識が残っていた。
ガイルが隣を歩きながら、遠くへ目を向けた。
「今度こそ、海か」
「ああ」
レイブンは短く答えた。
領土の半分を回復してからも、前進は続いていた。奪い返した道路へ補給を通し、残された拠点を確かめ、次の部隊へ引き継ぐ。その繰り返しだった。
敵の抵抗は、場所によって大きく違った。
ある町では、こちらが近づく前に白い布が掲げられた。別の村では、退路を失った部隊が最後まで射撃を続けた。
その違いは、遠くから建物を見ただけでは分からなかった。
丘の手前で、先行部隊から停止の合図が来た。
レイブンたちは道路脇へ寄った。
前方の倉庫から、大和国兵が出てきていた。
最初の一人は、細い棒の先へ白い布を結んでいた。後ろには、肩を貸し合って歩く兵がいた。包帯の代わりに布を巻いた者も、靴を失った者もいる。
合同部隊の下士官が、通訳を伴って前へ出た。
指示が繰り返される。
大和国兵たちは銃を置き、そこから離れた。最後に出てきた若い兵が、背負っていた仲間を下ろそうとして膝をつく。
近くの衛生兵が駆け寄った。
「担架を!」
ガイルが道を空け、レイブンも壁際へ下がった。
担架へ移された男は目を開けなかった。付き添っていた兵が何かを訴え、通訳がその横へしゃがんだ。
「昨夜から、意識が戻らないそうです」
衛生兵は頷き、処置を続けた。
レイブンは、銃を置いた兵たちの顔を見た。
こちらを見つめる者もいれば、地面から目を上げない者もいた。指示が聞き取れずに立ち止まった兵へ、隣の下士官が小声で説明していた。
やがて人数の確認が終わり、捕虜たちは後方へ誘導された。
列が通り過ぎるまで待ってから、レイブンたちは再び前進した。
丘の向こうで銃声が響いた。
ガイルが顔を上げる。
「まだ、いるな」
下士官から、低い姿勢を取るよう指示が来た。
海岸を見下ろす高台に、砲座が残っていた。周囲には壊れた車両と土嚢があり、そこから道路へ射撃が加えられている。
レイブンは石垣の陰へ入った。
脇へ来たエリシアが、双眼鏡を構える。少し離れた場所で、連邦軍の将校が通訳に声を掛けていた。
降伏を呼び掛ける声が、拡声器から流れた。
銃声の間に、同じ言葉が繰り返された。
砲座からの返答はなかった。
しばらくして、射撃だけが戻ってきた。
石垣へ弾が当たり、ガイルが首を引いた。
「聞こえてないわけじゃ、ないだろうに」
レイブンは答えられなかった。
あの中で、誰が命令を出しているのか分からない。退きたくても退けない兵がいるかもしれなかった。外から呼び掛ける声が、どこまで届いているのかも。
味方の将校が時計を見た。
もう一度、降伏を促す言葉が響いた。
砲座の射撃は続いた。
やがて攻撃命令が下った。
レイブンたちは指示された持ち場から援護した。敵の火点が沈黙し、別の場所からまた撃ってくる。土嚢が崩れ、煙が高台を覆った。
終わり際、砲座の内側で爆発が起きた。
レイブンは頭を下げた。
破片が石垣の向こうへ落ち、土が降ってきた。
銃声が途切れたあとも、すぐには誰も立ち上がらなかった。
確認に向かった部隊から、安全を確かめる報告が届くまで待った。
砲座を通ったとき、レイブンは焦げた木材を踏まないよう足を運んだ。
衛生兵が一人の兵へしゃがみ、首を横に振った。その先で、別の兵が瓦礫を持ち上げていた。
「こっちに生存者!」
エリシアがそちらへ向かった。
土嚢と板の間から引き出された大和国兵は、まだ若かった。顔に土が貼りつき、呼び掛けにも、すぐには反応しなかった。
目を開けると、彼は周囲の軍服を見た。
急に身体を起こそうとする。
エリシアが両手を見せ、低い声で話し掛けた。通訳が追いつき、言葉を重ねる。
兵はようやく動きを止めた。
担架へ載せられる間、その手は何度も何かを探すように動いていた。
あとで届いた報告には、この拠点は最後まで抗戦し、玉砕したものとして記されていた。
だが、その場にいたレイブンの記憶には、担架で運ばれていった若い兵の顔が残った。
夕方、部隊は海岸へ出た。
防波堤の一部が崩れ、砂浜には舟艇の残骸があった。波が寄せるたび、外れた板が水の中で動いた。
レイブンは海を見た。
ここから敵が上陸し、内陸へ進んだ。その道を、今度はこちらが逆に辿ってきた。
ガイルが隣で荷物を下ろした。
「着いたな」
「ああ」
エリシアは少し後ろで、現地部隊から状況を聞いていた。
近隣の海岸でも降伏が続いていた。一方で、連絡を拒み、退くこともなく抵抗を続ける拠点が残っているという。
海まで来ても、戦闘が終わったわけではなかった。
レイブンは砂のついた靴を見下ろし、肩の帯を掛け直した。
背後の道路を、捕虜を護送する車両が通った。その後ろには、負傷者を運ぶ車両が続いていた。
エリシアが戻ってくる。
「次の配置が決まるまで、ここで待機よ」
レイブンは頷いた。
三人は崩れた壁の陰へ移り、風を避けて腰を下ろした。
目の前では、波が砂浜へ寄せていた。




