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黒鴉年代記 ~戦火を超えて、受け継がれる意志~  作者: @12
第二部:戦火の終焉と新たなる時代 第一章 交わる軍旗、影と戦乙女
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第136話 押し返す三か月と海へ続く道

第136話 押し返す三か月と海へ続く道


乃子夜軍港爆撃後、大和国軍前線指揮所

 報告書を持つ参謀の額から、汗が落ちた。

 地下の指揮所は冷えていた。それでも、襟元を伝う汗を拭う余裕がなかった。

 乃子夜軍港との通信は途絶していた。周辺部隊から届いた報告は、港を覆う火災と、近づけない道路、運び切れない負傷者について伝えていた。

 出港予定だった船団が、予定どおり来るかどうかさえ分からない。

 机の前に立つ指揮官が、報告を読み終えた。

「後続の輸送は」

「確認中です。別の港へ振り替えるにも、船舶と荷役設備が――」

「分かっている」

 言葉を遮った声は、掠れていた。

 地図の上には、深く連邦領へ進出した部隊が並んでいた。その位置を保つために必要な補給は、途切れず海を渡ってくるはずだった。

 指揮官は額を拭い、通信担当者へ向き直った。

「全軍へ撤退指示を出せ。前進を中止し、各部隊は指定される線へ後退する」

 参謀の一人が顔を上げた。

「負傷者と、前方の集積物資は」

「可能な限り収容する。隣接部隊との連絡を切るな。後退中に孤立するぞ」

 命令が書き取られた。

 通信兵が復唱し、確認を受けると、すぐに送信へ移った。

 受領の返答が、一つずつ戻り始めた。

 しかし、遠くまで広がった部隊が、一斉に向きを変えられるわけではなかった。

 命令を受けたとき、すでに戦闘中の部隊もあった。車両を修理している部隊も、負傷者を運ぶ手段を待つ部隊もあった。

 地図上の印は、すぐには動かなかった。

 連邦共和国前線では、敵の砲撃が減ったことに、最初に監視兵が気づいた。

 それまで繰り返されていた攻撃が止まり、道路を前へ進んでいた車両が、逆方向へ動き始めた。

「後退しているように見えます」

 報告を受けた下士官は、すぐに追撃を命じなかった。

「監視を続けろ。残っている火器を確かめる」

 レイブンは建物の陰で待ちながら、通りの先を見ていた。

 敵が退いたように見えても、角を曲がった先まで安全とは限らない。実際、確認に出た別の区画では、残置された敵部隊から射撃を受けていた。

 ガイルが戻ってきた。

「こっちも押し上げが弱まってる。隣の区間でも同じらしい」

「何かあったのか」

「まだ分からん。指揮所で情報を集めてる」

 乃子夜軍港への爆撃を二人が知ったのは、その後だった。

 伝えられたのは、港湾機能に甚大な被害が出たことと、大和国軍の動きに変化が見られることだった。そこで何人が傷つき、何が失われたのかを示す数字は、まだなかった。

 レイブンは報告を聞き終え、地図へ目を戻した。

 敵が退けば、その先には取り戻すべき町がある。だが、進む兵の仕事が軽くなるわけではなかった。

 帝国と連邦共和国の合同部隊は、各地で小規模な部隊行動を始めた。

 正面から押し合うだけでは届かなかった場所へ、現地の道を知る連邦兵と帝国兵が入り、敵の後退を監視した。取り残された味方との連絡を回復し、住民から情報を集め、退路を守る大和国軍の部隊と交戦した。

 報告には、ゲリラ式の戦術による戦果が増えていった。

 レイブンたちも、一つの場所に長く留まらなくなった。

 村へ入った翌日に別の区画へ移り、夜を明かした建物へ戻らないこともあった。道を案内してくれた住民とは、次に会えるか分からないまま別れた。

 ある集落では、入口に掲げられた古い標識だけが残っていた。

 レイブンは崩れた家の前で足を止めた。

 窓のなくなった部屋に、食卓があった。片脚が折れ、斜めになったまま壁へ寄り掛かっている。

「クロウ」

 呼ばれて振り返ると、連邦兵が手招きしていた。

「奥に人がいる」

 地下室の扉を開けると、数人の住民が身を寄せていた。

 先頭にいた女性は、エリシアの言葉を聞いても、すぐには立ち上がらなかった。軍服の標識を何度も見直し、ようやく戸口へ手をつく。

「もう、出てもいいんですか」

「この周囲は確認しています。外で、順番にお話を聞かせてください」

 エリシアは手を差し出した。

 女性はその手を取り、明るさに目を細めながら階段を上った。

 一方で、敵の後退が止まり、激しい抵抗を受ける場所もあった。

 前日まで通れた道が砲撃され、予定していた合流が遅れた。部隊が戻るたびに人員を確認し、空いた場所へ誰かの荷物だけが置かれる夜もあった。

 ガイルは疲れた顔で壁へ背を預け、携行食の包みを開いた。

「今日は、温かい飯だと思ったんだがな」

 レイブンは隣へ座った。

「俺もだ」

 二人は黙って食べた。

 向かいでは、エリシアが受け取ったばかりの報告に目を通していた。解放された地域の名前を確かめ、紙を返す。

 両親の消息を求める照会は続いていた。

 新しい地域へ入るたび、彼女には尋ねたいことが増えた。それでも、住民の名簿を扱う者へ必要な情報を伝えたあとは、自分の持ち場へ戻った。

 レイブンは、その隣で同じ地名を覚えていった。

 三か月が過ぎた頃、合同部隊の指揮所には、新たな戦況図が掲げられた。

 連邦共和国側が確保した地域は、国土のおよそ二分の一にまで回復していた。

 将校が線を指し、今後の担当区間を説明する。

 レイブンはその先を見た。

 取り戻した土地の向こうには、まだ大和国軍の支配下にある町が続いていた。

 説明を終えて外へ出ると、補給車両が列を作っていた。帰還した兵が車体から泥を落とし、交代の兵が荷物を積み込んでいる。

 ガイルが上着を羽織った。

「半分か」

「ああ」

 レイブンの隣へ、エリシアが来た。

 三人はしばらく、動き始めた車列を見ていた。

 やがて呼集の声がした。

 レイブンは肩の帯を直し、二人とともに歩き出した。

 海の匂いに気づいたのは、朝の風が建物の間を抜けたときだった。

 レイブンは足を止めず、道路の先を見た。崩れた家並みの向こうに、低い灰色の空が広がっている。

 丘を越えれば、海岸だった。

 そこまでの道には、何度も部隊が通った跡があった。路肩へ押し退けられた車両、放棄された荷箱、泥に半ば埋まった装具。車体の扉に、大和国の標識が残っていた。

 ガイルが隣を歩きながら、遠くへ目を向けた。

「今度こそ、海か」

「ああ」

 レイブンは短く答えた。

 領土の半分を回復してからも、前進は続いていた。奪い返した道路へ補給を通し、残された拠点を確かめ、次の部隊へ引き継ぐ。その繰り返しだった。

 敵の抵抗は、場所によって大きく違った。

 ある町では、こちらが近づく前に白い布が掲げられた。別の村では、退路を失った部隊が最後まで射撃を続けた。

 その違いは、遠くから建物を見ただけでは分からなかった。

 丘の手前で、先行部隊から停止の合図が来た。

 レイブンたちは道路脇へ寄った。

 前方の倉庫から、大和国兵が出てきていた。

 最初の一人は、細い棒の先へ白い布を結んでいた。後ろには、肩を貸し合って歩く兵がいた。包帯の代わりに布を巻いた者も、靴を失った者もいる。

 合同部隊の下士官が、通訳を伴って前へ出た。

 指示が繰り返される。

 大和国兵たちは銃を置き、そこから離れた。最後に出てきた若い兵が、背負っていた仲間を下ろそうとして膝をつく。

 近くの衛生兵が駆け寄った。

「担架を!」

 ガイルが道を空け、レイブンも壁際へ下がった。

 担架へ移された男は目を開けなかった。付き添っていた兵が何かを訴え、通訳がその横へしゃがんだ。

「昨夜から、意識が戻らないそうです」

 衛生兵は頷き、処置を続けた。

 レイブンは、銃を置いた兵たちの顔を見た。

 こちらを見つめる者もいれば、地面から目を上げない者もいた。指示が聞き取れずに立ち止まった兵へ、隣の下士官が小声で説明していた。

 やがて人数の確認が終わり、捕虜たちは後方へ誘導された。

 列が通り過ぎるまで待ってから、レイブンたちは再び前進した。

 丘の向こうで銃声が響いた。

 ガイルが顔を上げる。

「まだ、いるな」

 下士官から、低い姿勢を取るよう指示が来た。

 海岸を見下ろす高台に、砲座が残っていた。周囲には壊れた車両と土嚢があり、そこから道路へ射撃が加えられている。

 レイブンは石垣の陰へ入った。

 脇へ来たエリシアが、双眼鏡を構える。少し離れた場所で、連邦軍の将校が通訳に声を掛けていた。

 降伏を呼び掛ける声が、拡声器から流れた。

 銃声の間に、同じ言葉が繰り返された。

 砲座からの返答はなかった。

 しばらくして、射撃だけが戻ってきた。

 石垣へ弾が当たり、ガイルが首を引いた。

「聞こえてないわけじゃ、ないだろうに」

 レイブンは答えられなかった。

 あの中で、誰が命令を出しているのか分からない。退きたくても退けない兵がいるかもしれなかった。外から呼び掛ける声が、どこまで届いているのかも。

 味方の将校が時計を見た。

 もう一度、降伏を促す言葉が響いた。

 砲座の射撃は続いた。

 やがて攻撃命令が下った。

 レイブンたちは指示された持ち場から援護した。敵の火点が沈黙し、別の場所からまた撃ってくる。土嚢が崩れ、煙が高台を覆った。

 終わり際、砲座の内側で爆発が起きた。

 レイブンは頭を下げた。

 破片が石垣の向こうへ落ち、土が降ってきた。

 銃声が途切れたあとも、すぐには誰も立ち上がらなかった。

 確認に向かった部隊から、安全を確かめる報告が届くまで待った。

 砲座を通ったとき、レイブンは焦げた木材を踏まないよう足を運んだ。

 衛生兵が一人の兵へしゃがみ、首を横に振った。その先で、別の兵が瓦礫を持ち上げていた。

「こっちに生存者!」

 エリシアがそちらへ向かった。

 土嚢と板の間から引き出された大和国兵は、まだ若かった。顔に土が貼りつき、呼び掛けにも、すぐには反応しなかった。

 目を開けると、彼は周囲の軍服を見た。

 急に身体を起こそうとする。

 エリシアが両手を見せ、低い声で話し掛けた。通訳が追いつき、言葉を重ねる。

 兵はようやく動きを止めた。

 担架へ載せられる間、その手は何度も何かを探すように動いていた。

 あとで届いた報告には、この拠点は最後まで抗戦し、玉砕したものとして記されていた。

 だが、その場にいたレイブンの記憶には、担架で運ばれていった若い兵の顔が残った。

 夕方、部隊は海岸へ出た。

 防波堤の一部が崩れ、砂浜には舟艇の残骸があった。波が寄せるたび、外れた板が水の中で動いた。

 レイブンは海を見た。

 ここから敵が上陸し、内陸へ進んだ。その道を、今度はこちらが逆に辿ってきた。

 ガイルが隣で荷物を下ろした。

「着いたな」

「ああ」

 エリシアは少し後ろで、現地部隊から状況を聞いていた。

 近隣の海岸でも降伏が続いていた。一方で、連絡を拒み、退くこともなく抵抗を続ける拠点が残っているという。

 海まで来ても、戦闘が終わったわけではなかった。

 レイブンは砂のついた靴を見下ろし、肩の帯を掛け直した。

 背後の道路を、捕虜を護送する車両が通った。その後ろには、負傷者を運ぶ車両が続いていた。

 エリシアが戻ってくる。

「次の配置が決まるまで、ここで待機よ」

 レイブンは頷いた。

 三人は崩れた壁の陰へ移り、風を避けて腰を下ろした。

 目の前では、波が砂浜へ寄せていた。

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