第13話 父の帰還、その後の選択
第13話 父の帰還、その後の選択
帝政歴三三五年、春。
長い冬が終わり、帝国北部の街並みに再び緑が戻り始めていた。
石畳の隙間から小さな草が芽吹き、街路樹には若葉が広がっている。北方の山々にはまだ雪が残っていたが、麓を流れる川には雪解け水が注ぎ、冷たい風にも春の柔らかさが混じるようになっていた。
クロウ家の屋敷では、庭師たちが冬の間に傷んだ枝を剪定し、花壇の整備を進めていた。
その庭園を、レイブン・S・クロウが走っていた。
黒い猫耳を風に揺らし、尻尾で身体の均衡を取りながら、芝生の小径を駆け抜けていく。
以前よりも足取りは軽くなり、走る速度も少しずつ上がっていた。
少年は大きな木の前で足を止めると、振り返って声を上げた。
「父さん! 今の、どうだった!?」
庭園の長椅子に腰掛けていたヴァルター・A・クロウは、左手で懐中時計を閉じた。
「……前より速くなったな」
「本当!?」
「ああ。だが、最後の曲がり角で少し速度を落としすぎた」
レイブンは自分が走ってきた道を振り返った。
「……曲がる時?」
「そうだ。速く走ることだけを考えると、曲がる時に身体が流れてしまう」
ヴァルターは左手で簡単な動きを示した。
「進む方向を早めに見て、身体の向きを整えるんだ」
レイブンは真剣な表情で頷いた。
「分かった!」
少年はもう一度走り出そうとしたが、ヴァルターが声を掛けた。
「レイブン」
「ん?」
「少し休みなさい。もう随分走っているだろう」
「……まだ走れるよ?」
「走れることと、休まなくていいことは別だ」
ヴァルターは穏やかに答えた。
「疲れている時ほど、判断を誤りやすくなる」
レイブンは少し考えた後、頷いた。
「……分かった」
少年は父の隣へ駆け寄り、長椅子へ腰を下ろした。
ヴァルターは水筒を差し出した。
「ほら」
「ありがとう!」
レイブンは水を飲み、深く息を吐いた。
その様子を見つめながら、ヴァルターは静かに微笑んだ。
異界から帰還して以来、彼の生活は大きく変わっていた。
右腕を失った身体での日常生活。
軍医部による治療と機能回復訓練。
そして、予備役編入に向けた手続き。
いずれも簡単なものではなかったが、少しずつ前へ進んでいた。
特に、左手で行う動作は以前よりも安定していた。
文字を書くことも、食器を扱うことも、時間を掛ければ自分でできるようになっている。
魔力による身体機能再構築技術についても、軍の研究部門との協力が続いていた。
ただし、失われた右腕を完全に補うには、まだ多くの課題が残されていた。
ヴァルターは焦らなかった。
今の自分にできることを、一つずつ積み重ねる。
それが、彼の選んだ道だった。
「……父さん」
レイブンが声を掛けた。
「何だ?」
「最近、軍の人があまり来なくなったね」
ヴァルターは少し考えた。
「……そうだな」
「もう、お仕事は終わったの?」
「完全に終わったわけではない」
ヴァルターは答えた。
「ただ、以前のように毎日基地へ行く必要はなくなった」
レイブンは顔を上げた。
「……じゃあ、ずっと家にいられる?」
その問いに、ヴァルターは微笑んだ。
「しばらくは、な」
「……やった!」
少年は嬉しそうに笑った。
ヴァルターは息子の頭を撫でた。
その笑顔を見ていると、軍務から離れることへの迷いが、少しずつ小さくなっていくように感じられた。
しかし、彼の胸の奥には、別の思いも残っていた。
帝国と連邦共和国の関係は、依然として緊張している。
北部方面では部隊の再配置が進み、国境監視所からは連日のように報告が届いていた。
さらに、異界門に関する調査も続いている。
世界は決して平穏ではなかった。
ヴァルターは、かつて自分が指導した兵士たちのことを思い出していた。
彼らは今も、各地の部隊で任務に就いている。
その中には、危険な国境地帯へ配属された者もいた。
自分だけが安全な場所へ戻ってよいのか。
そんな思いが、時折胸をよぎることもあった。
だが、ヴァルターはその考えをすぐに打ち消した。
軍人としての責任と、家族を守る責任。
どちらか一方だけが正しいわけではない。
今は、自分が果たせる役割を見極める時だった。
同じ日の午後。
クロウ家の屋敷に、帝国軍の車両が到着した。
玄関へ現れたのは、軍服を着た一人の将校だった。
彼はヴァルターの旧知の同僚であり、帝国軍教育部門に所属する士官だった。
「……久しぶりだな、ヴァルター」
将校は穏やかに声を掛けた。
「元気そうで何よりだ」
ヴァルターは左手で敬礼した。
「……おかげさまで」
二人は応接室へ移動した。
セレナが紅茶を用意し、将校は礼を述べた。
しばらく近況を話した後、将校は鞄から書類を取り出した。
「今日は、正式な通知を持ってきた」
ヴァルターの表情が引き締まった。
「……伺おう」
将校は書類を机へ置いた。
「帝国軍人事部は、君の予備役編入申請を受理した」
ヴァルターは静かに頷いた。
「……そうか」
「ただし、正式な編入日は、医療部門の最終評価と引継ぎ手続きを終えた後になる」
「了解した」
将校は続けた。
「それまでは療養扱いを継続する。無理に勤務へ復帰する必要はない」
ヴァルターは書類を見つめた。
予備役編入。
それは、長年続けてきた現役軍人としての生活に、一つの区切りをつけることを意味していた。
しかし、軍との関係が完全に断たれるわけではない。
必要に応じて教育部門へ協力し、後進の指導に携わることもできる。
ヴァルターは静かに息を吐いた。
「……分かった」
将校は頷いた。
「それから、もう一つ話がある」
「……何だ?」
「教育部門から、君への協力要請が届いている」
ヴァルターは顔を上げた。
「……協力要請?」
「ああ。若手士官向けの戦術教育課程だ」
将校は別の書類を取り出した。
「君がこれまで培ってきた経験を、教材として活用したいそうだ」
ヴァルターは少し考えた。
「……講義を担当するということか?」
「それも含む。だが、今すぐではない」
将校は穏やかに答えた。
「身体が回復し、医師の許可が出てからで構わない」
ヴァルターは書類を受け取った。
そこには、戦術判断、部隊指揮、負傷者の救護、撤退時の判断など、複数の教育項目が記されていた。
いずれも、彼が長年指導してきた内容だった。
「……なるほど」
ヴァルターは静かに頷いた。
「検討させてもらう」
将校は微笑んだ。
「それで十分だ」
そして、少しだけ声を落とした。
「……ヴァルター」
「何だ?」
「君が戻ってきてくれて、本当に良かった」
ヴァルターは顔を上げた。
将校は続けた。
「先遣調査班の消息が途絶えた時、我々も最悪の事態を覚悟した」
その言葉に、ヴァルターは黙った。
「だが、君たちは帰ってきた。全員ではなかったとしても、持ち帰った情報と経験は、今後の調査にとって大きな意味を持つ」
ヴァルターは静かに目を伏せた。
異界で命を落とした仲間たち。
帰還できなかった者たち。
その顔が、脳裏に浮かんだ。
「……そうだな」
彼は小さく答えた。
「……無駄にはできん」
将校は静かに頷いた。
その日の夕方。
ヴァルターは書斎で、教育部門から届いた資料を読んでいた。
窓の外では、レイブンとルナが庭園で遊んでいる。
セレナはその様子を見守りながら、時折二人へ声を掛けていた。
ヴァルターは資料から顔を上げ、家族の姿を見つめた。
穏やかな春の日差し。
子供たちの笑い声。
そして、妻の優しい表情。
その光景は、彼が異界で何度も思い浮かべたものだった。
帰りたい。
もう一度、あの場所へ戻りたい。
そう願い続けた日々。
今、彼はその場所にいた。
ヴァルターは静かに息を吐いた。
「……帰ってきたんだな」
小さな呟きが、書斎に落ちた。
その時、扉が軽く叩かれた。
「あなた」
セレナだった。
「入ってもよろしいですか?」
「もちろんだ」
彼女は部屋へ入り、夫の隣へ腰を下ろした。
「軍の方は、何と?」
ヴァルターは書類を見せた。
「予備役編入の申請が受理された。正式な手続きは、もう少し先になる」
セレナは静かに頷いた。
「……そうですか」
「それから、教育部門から協力要請が来ている」
「教官として、ですか?」
「ああ」
ヴァルターは頷いた。
「身体が回復したら、若い士官たちへ講義をしてほしいそうだ」
セレナは微笑んだ。
「あなたに向いていると思います」
「……そうか?」
「ええ」
彼女は夫を見つめた。
「あなたは昔から、人に何かを教える時、とても楽しそうでしたから」
ヴァルターは少し照れたように笑った。
「……そうだったかな」
「そうですよ」
セレナは穏やかに答えた。
「レイブンに走り方を教えている時も、同じ顔をしています」
ヴァルターは窓の外へ視線を向けた。
庭園では、レイブンがルナの手を引きながら歩いていた。
妹が転ばないように、歩幅を合わせている。
その姿を見て、ヴァルターは静かに微笑んだ。
「……あの子も、少しずつ成長しているな」
「ええ」
セレナは頷いた。
「最近は、ルナの面倒もよく見てくれます」
ヴァルターはしばらく息子を見つめていた。
そして、静かに呟いた。
「……強くなりたいと言っていたな」
「レイブンが?」
「ああ」
ヴァルターは頷いた。
「家族を守れる人になりたいそうだ」
セレナは微笑んだ。
「……あの子らしいですね」
「そうだな」
ヴァルターは静かに答えた。
その夜。
クロウ家の食堂では、家族が揃って夕食を取っていた。
レイブンは今日の出来事を楽しそうに話し、ルナは兄の真似をしながら笑っている。
ヴァルターは左手で食器を扱いながら、二人の話へ耳を傾けていた。
セレナはその様子を見つめ、穏やかに微笑んでいた。
やがて、レイブンが父へ尋ねた。
「……父さん」
「何だ?」
「今日、軍の人が来てたよね?」
「ああ」
「……また、どこかへ行くの?」
その問いに、ヴァルターは少しだけ表情を変えた。
レイブンの声には、わずかな不安が混じっていた。
父が異界へ向かった日。
そして、帰ってこなかった三か月間。
その記憶は、少年の中にも残っていた。
ヴァルターは静かに答えた。
「……今すぐ、どこかへ行く予定はない」
レイブンは顔を上げた。
「……本当?」
「ああ」
ヴァルターは頷いた。
「しばらくは家で身体を治しながら、できる仕事を考えるつもりだ」
少年は安堵したように息を吐いた。
「……良かった」
その言葉に、ヴァルターは胸の奥が少し痛むのを感じた。
自分が不在だった時間は、息子にとっても決して短くはなかった。
彼は左手を伸ばし、レイブンの頭を撫でた。
「……心配を掛けたな」
レイブンは小さく首を振った。
「……もう帰ってきたから、大丈夫」
ヴァルターは静かに微笑んだ。
その夜、レイブンは自室で祖母ヘレーネから届いた手紙を読み返していた。
机の上には、祖父アルベルトから預かった黒鴉の徽章と、七歳の誕生日に贈られた歴史地理書が置かれている。
少年は手紙の一節へ目を向けた。
――あなたには、あなたにしか見つけられない道があります。
レイブンはその言葉を、何度も読み返した。
父のように強くなりたい。
誰かを守れる人になりたい。
しかし、そのために何をすればよいのか、まだ分からなかった。
少年は窓の外を見つめた。
夜空には、いくつもの星が輝いている。
遠くの山々は暗闇に包まれ、街の灯りが小さく揺れていた。
「……僕の道、か」
レイブンは小さく呟いた。
そして、手紙を丁寧に畳み、引き出しへしまった。
その頃、帝国北部方面司令部では、国境警備に関する新たな会議が開かれていた。
連邦共和国軍の部隊移動は、春になっても続いていた。
国境付近では監視活動が強化され、双方の軍が互いの動きを警戒している。
さらに、異界門に関する調査も継続されていた。
未知の世界。
異なる文明。
そして、帰還した先遣調査班が持ち帰った情報。
それらは、帝国の軍事政策に新たな課題を突きつけていた。
しかし、帝国政府は依然として外交による解決を模索していた。
国境での衝突を避けること。
異界門の危険性を慎重に評価すること。
そして、国内の平穏を維持すること。
いずれも、簡単な課題ではなかった。
その夜、クロウ家の屋敷では、レイブンが静かに眠っていた。
父の帰還から始まった新しい生活。
軍務から離れようとする父の決断。
そして、少しずつ変わり始める帝国の情勢。
それらは、少年の知らないところで、確実に未来へ繋がっていた。
人は、失ったものだけで決まるわけではない。
その後、何を選び、どう生きるかによって、新たな道を切り開くことができる。
ヴァルター・A・クロウは、そのことを自らの人生で示そうとしていた。
そして、その背中を見つめるレイブンもまた、少しずつ自分自身の道を探し始めていた。
帝政歴三三五年、春。
クロウ家の新しい日々は、静かに動き始めていた。




