↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
黒鴉年代記 ~戦火を超えて、受け継がれる意志~  作者: @12
第一部:幼年期編 第二章 帝国に迫る戦雲
PR
14/250

第14話 再び立つ軍人

第14話 再び立つ軍人


 帝政歴三三五年、四月。

 帝国北部の山々を覆っていた雪が解け始め、麓の街には春の陽光が降り注いでいた。

 クロウ家の屋敷から帝国軍中央医療研究施設までは、自動車でおよそ一時間半。整備された幹線道路を抜け、軍の管理区域へ入ると、周囲の景色は石造りの民家や商店から、灰色の建物と高い防護壁へと変わっていく。

 その朝、ヴァルター・A・クロウは久しぶりに軍服を着ていた。

 鏡の前に立ち、左手で上着の襟を整える。

 右肩から先の袖は、身体に合わせて仕立て直されていた。以前と同じ軍服でありながら、その姿は以前とは違って見える。

 胸元には、帝国軍少佐の階級章。

 そして、長年の勤務を示す略綬が並んでいた。

 ヴァルターは鏡の中の自分を見つめた。

 軍服を着ること自体は、何も特別なことではなかった。

 若い頃から数え切れないほど袖を通してきた。

 しかし、今日ばかりは少し違った。

 右腕を失ってから初めて、正式な軍務上の評価を受ける日だったからだ。

「……やはり、ここが難しいな」

 左手で上着の留め具を扱おうとしたが、布地が思うように固定できない。

 何度か試した後、ヴァルターは小さく息を吐いた。

 その時、背後から声が聞こえた。

「お手伝いしましょうか?」

 振り返ると、セレナが扉の前に立っていた。

 白い猫耳を持つ彼女は、穏やかな表情で夫を見つめている。

「……頼んでもいいか?」

「もちろんです」

 セレナは近づき、上着の留め具を丁寧に整えた。

 ヴァルターは鏡越しに妻を見つめた。

「以前なら、一人でできたんだがな」

「今でも、ほとんどのことは一人でなさっているでしょう?」

「……そうだろうか」

「ええ。だから、少しくらい私に任せてください」

 セレナは留め具を整え終えると、夫の胸元へ手を添えた。

「それに、あなたは私の夫なんですから」

 ヴァルターは小さく笑った。

「……そうだったな」

「忘れないでくださいね」

「ああ」

 彼は静かに頷いた。

 その時、廊下から足音が聞こえてきた。

「父さん!」

 扉が開き、レイブンが姿を現した。

 黒い猫耳をぴんと立てた少年は、父の軍服姿を見ると足を止めた。

「……あっ」

 ヴァルターが顔を向けた。

「どうした?」

 レイブンはしばらく父を見つめていた。

 そして、嬉しそうに笑った。

「……父さん、かっこいい!」

 ヴァルターは少し驚いた後、微笑んだ。

「そうか?」

「うん!」

 少年は父の周りを一周するように歩き、軍服を眺めた。

「久しぶりに見た!」

「確かにな」

 ヴァルターは頷いた。

「最近は、ほとんど私服だったからな」

 レイブンは父の右肩へ視線を向けた。

 以前とは違う袖。

 だが、胸元の階級章も、父の立ち姿も、彼が覚えているものと変わらなかった。

「……今日は、軍のお仕事?」

「ああ。医療研究施設へ行ってくる」

「……腕のこと?」

「それもある」

 ヴァルターは息子の頭を左手で撫でた。

「それから、これからの仕事についても話をしてくる」

 レイブンは少しだけ表情を曇らせた。

「……また、遠くへ行くの?」

「いや。今日は日帰りだ」

「……本当?」

「ああ。夕食までには帰るつもりだ」

 少年は安堵したように笑った。

「……じゃあ、待ってる!」

 ヴァルターは頷いた。

「頼んだぞ」

 レイブンは元気よく敬礼した。

「はい!」

 その姿に、セレナが思わず笑った。

「レイブン。まだ軍人ではありませんよ」

「分かってる!」

 少年は笑った。

「でも、父さんみたいにやってみたかったんだ!」

 ヴァルターも笑い、左手で敬礼を返した。

「……なかなか様になっている」

 レイブンは嬉しそうに尻尾を揺らした。

 やがて、ヴァルターは軍帽を手に取り、玄関へ向かった。

 セレナとレイブン、そしてまだ眠そうなルナが見送りに出てきた。

「……おとうさん?」

 ルナが小さく声を掛けた。

「行ってくるよ、ルナ」

 ヴァルターは娘の頭を撫でた。

「……かえってくる?」

「ああ。帰ってくる」

 ルナは小さく頷いた。

「……まってる」

 ヴァルターは微笑んだ。

 そして、家族へ顔を向けた。

「……行ってくる」

「行ってらっしゃい、あなた」

「行ってらっしゃい、父さん!」

 春の朝陽の中、黒い軍用車両が屋敷を出発した。

 レイブンは車が見えなくなるまで、門の前で手を振っていた。

 帝国軍中央医療研究施設。

 その建物は、帝国軍が保有する医療研究機関の中でも、特に高度な魔導医療技術を扱う施設だった。

 一般的な外科治療や負傷兵のリハビリテーションに加え、魔力を利用した神経機能補助、義肢制御、身体機能再構築などの研究が行われている。

 しかし、それらの技術がすべて実用化されているわけではなかった。

 特に、失われた四肢を魔力によって再構築する技術は、まだ研究段階にあった。

 理論上は可能性が示されているものの、実際の人体へ安定して適用するには多くの課題が残されていた。

 ヴァルターは施設の受付で身分証を提示し、担当医師の案内を受けた。

「クロウ少佐。お待ちしておりました」

 白衣を着た医師が声を掛けた。

「本日は、身体機能評価と今後の治療方針についてご説明します」

「よろしくお願いします」

 ヴァルターは左手で敬礼した。

 医師は穏やかに頷いた。

「こちらへどうぞ」

 案内された部屋には、複数の測定装置が並んでいた。

 魔力反応を測定する結晶式の検査機器。

 筋肉や神経の状態を確認する医療装置。

 そして、身体の動きを記録するための観測装置。

 ヴァルターは軍服の上着を脱ぎ、検査用の衣服へ着替えた。

 医師は彼の右肩を確認しながら、慎重に説明を始めた。

「まず、現在の身体状態についてですが、全体的な回復は順調です」

「……そうですか」

「ただし、右腕の切断部周辺には、まだ神経性の疼痛が残っています」

 ヴァルターは静かに頷いた。

「……時々、右手があるように感じることがあります」

「幻肢感覚ですね」

 医師は記録を確認した。

「失われた四肢が存在するように感じたり、痛みを覚えたりすることは珍しくありません」

 ヴァルターは右肩へ視線を向けた。

「……厄介なものです」

「ええ。しかし、適切な治療と訓練によって、症状を軽減できる可能性があります」

 医師は続けた。

「次に、魔力による身体機能再構築についてです」

 その言葉に、ヴァルターの表情が引き締まった。

「……お願いします」

 医師は机の上へ複数の資料を並べた。

 そこには、人体の神経系統と魔力循環を組み合わせた模式図が描かれていた。

「現在、我々が研究しているのは、失われた四肢の機能を魔力によって補う技術です」

 ヴァルターは資料を見つめた。

「……義肢とは違うのですか?」

「一部は共通していますが、目指しているものは異なります」

 医師は説明した。

「通常の義肢は、機械的な構造によって失われた機能を補います。一方、魔力再構築技術では、神経信号と魔力循環を結びつけ、身体の一部として機能する構造を形成することを目指しています」

 ヴァルターは静かに頷いた。

「……つまり、魔力による腕を作るということですか」

「簡単に言えば、そうです」

 医師は続けた。

「ただし、現段階では長時間の維持が難しく、精密な動作にも課題があります」

 ヴァルターは資料へ目を落とした。

「……成功例は?」

「限定的なものならあります」

 医師は答えた。

「しかし、完全な機能回復を保証できる段階ではありません」

 ヴァルターはしばらく考えた。

 そして、静かに口を開いた。

「……試験への参加は可能ですか?」

 医師は頷いた。

「はい。ただし、段階的に進める必要があります」

「承知しています」

 ヴァルターは答えた。

「……お願いします」

 医師は記録用紙へ署名した。

「では、まずは基礎的な魔力反応の測定から始めましょう」

 検査は数時間に及んだ。

 ヴァルターは医師の指示に従い、魔力を右肩の周辺へ集中させた。

 測定装置の結晶が淡く光り、魔力循環の変化が記録されていく。

 しかし、失われた右腕の位置に明確な形が現れることはなかった。

 医師は数値を確認しながら、静かに頷いた。

「……反応は確認できました」

 ヴァルターは顔を上げた。

「……成功ですか?」

「まだ、そこまでは言えません」

 医師は慎重に答えた。

「ただし、今後の研究に繋がる可能性はあります」

 ヴァルターは静かに息を吐いた。

「……そうですか」

 期待と現実。

 その差は、決して小さくなかった。

 しかし、彼は落胆しなかった。

 最初から、簡単に成功するとは思っていなかったからだ。

「……次は、いつになりますか?」

 医師は予定表を確認した。

「身体への負担を考慮し、次回は二週間後を予定しています」

「了解しました」

 ヴァルターは頷いた。

 検査を終えた後、彼は軍の教育部門へ向かった。

 そこでは、若手士官向けの教育課程に関する会議が開かれていた。

 ヴァルターが部屋へ入ると、数人の将校が立ち上がった。

「クロウ少佐!」

 若い士官の一人が声を上げた。

 ヴァルターは少し驚いたように顔を向けた。

「……君は」

「以前、少佐の教育課程で指導を受けました!」

 若い士官は嬉しそうに敬礼した。

「お元気そうで何よりです!」

 ヴァルターは微笑んだ。

「……そうか。久しぶりだな」

 その後、会議が始まった。

 議題は、今後の戦術教育課程に関するものだった。

 部隊指揮。

 戦場での判断。

 負傷者の救護。

 そして、撤退時の部隊統制。

 ヴァルターは資料を読みながら、静かに意見を述べた。

「……この課程では、状況判断の訓練をもう少し増やした方がいい」

 担当将校が顔を上げた。

「理由を伺っても?」

「戦場では、計画通りに進むことの方が少ない」

 ヴァルターは答えた。

「兵士が負傷することもあれば、通信が途絶えることもある。そうした時、指揮官が何を優先するかを判断できなければ、部隊全体が危険にさらされる」

 将校たちは真剣な表情で聞いていた。

「……では、どのような訓練を?」

 ヴァルターは資料の一部を指差した。

「複数の選択肢を与え、どれを選んでも何らかの不利益が生じる状況を設定する」

 そして、静かに続けた。

「正解を暗記させるのではなく、なぜその判断をしたのかを説明させるんだ」

 担当将校は頷いた。

「……なるほど」

 ヴァルターは続けた。

「指揮官に必要なのは、常に正しい答えを知っていることではない」

 彼は会議室を見渡した。

「不確かな状況でも、責任を持って判断することだ」

 その言葉に、室内は静まり返った。

 やがて、担当将校が口を開いた。

「……クロウ少佐」

「何だ?」

「やはり、あなたには教官として戻ってきていただきたい」

 ヴァルターは少し驚いた。

 将校は続けた。

「現役の部隊勤務でなくても構いません。あなたの経験は、若い士官たちにとって大きな財産です」

 ヴァルターはしばらく考えた。

 そして、静かに微笑んだ。

「……ありがたい話だ」

 彼は左手を机の上へ置いた。

「身体の状態が許す範囲であれば、協力したい」

 将校たちは安堵したように頷いた。

 その日の夕方。

 ヴァルターは約束通り、クロウ家の屋敷へ帰還した。

 玄関へ入ると、レイブンが駆け寄ってきた。

「父さん!」

「ただいま」

 ヴァルターは微笑んだ。

「……ちゃんと帰ってきたぞ」

 レイブンは嬉しそうに笑った。

「おかえり!」

 セレナも姿を現した。

「お疲れ様でした、あなた」

「ああ」

 ヴァルターは頷いた。

「少し疲れたが、良い一日だった」

 ルナも小さな足音を立てて近づいてきた。

「……おとうさん!」

 ヴァルターは左手で娘の頭を撫でた。

「ただいま、ルナ」

 その夜。

 夕食を終えた後、レイブンは父の書斎を訪れた。

 ヴァルターは机の上で、今日の資料を整理していた。

「……父さん」

「何だ?」

「今日、何してきたの?」

 ヴァルターは椅子を引き寄せた。

「……座りなさい」

 レイブンは父の隣へ座った。

 ヴァルターは今日の出来事を、少年にも分かる言葉で説明した。

 医療研究施設での検査。

 失われた右腕の機能を補う研究。

 そして、若い士官たちへ教える仕事。

 レイブンは真剣な表情で聞いていた。

「……父さん、また先生になるの?」

「そうなるかもしれないな」

 ヴァルターは微笑んだ。

「まだ正式に決まったわけではないが」

 レイブンは少し考えた。

「……じゃあ、僕にも教えてくれる?」

 ヴァルターは顔を向けた。

「何を?」

「……いろいろ!」

 少年は元気よく答えた。

「走り方とか、地図の読み方とか、それから……」

 少し考えてから、続けた。

「……誰かを守る方法!」

 ヴァルターはしばらく息子を見つめた。

 そして、静かに微笑んだ。

「……もちろんだ」

 レイブンの表情が明るくなった。

「本当!?」

「ああ」

 ヴァルターは頷いた。

「ただし、まずは基礎からだ」

「……基礎?」

「そうだ」

 ヴァルターは机の上の地図を広げた。

「地図を読むこと。周囲をよく観察すること。危険な場所へ不用意に近づかないこと。そして、困っている人がいたら、まず大人へ知らせること」

 レイブンは真剣に聞いていた。

「……うん」

「強くなることは、何でも一人で解決できるようになることではない」

 ヴァルターは静かに続けた。

「必要な時に、誰かの助けを借りられることも大切だ」

 レイブンは少し考えた。

「……父さんも?」

「ああ」

 ヴァルターは左手を見つめた。

「父さんも、今は多くの人に助けてもらっている」

 少年は父の右肩へ視線を向けた。

 そして、静かに頷いた。

「……そっか」

 ヴァルターは息子の頭を撫でた。

「だから、お前も無理をする必要はない」

「……分かった」

 その夜、レイブンは自室で日記を書いていた。

『今日は、父さんが久しぶりに軍服を着て出かけた。

 少し心配だったけど、ちゃんと帰ってきた。

 父さんは、また先生になるかもしれない。

 僕にもいろいろ教えてくれるって言ってくれた。

 強くなるには、まず勉強することが大切なんだって。

 それから、一人で全部やろうとしなくてもいいんだって。

 僕も、少しずつ頑張ろうと思う。』

 書き終えた少年は、万年筆を置いた。

 そして、机の上に置かれた黒鴉の徽章の箱を見つめた。

 祖父から預かった、小さな黒い鳥。

 その翼は、今も静かに広げられていた。

 レイブンは小さく呟いた。

「……いつか、僕も」

 その先の言葉は、まだはっきりとは形にならなかった。

 しかし、少年の胸には、確かな憧れが芽生え始めていた。

 同じ頃。

 帝国軍北部方面司令部では、国境警備に関する緊急報告が届いていた。

 連邦共和国軍の部隊移動が、これまでよりも活発になっているという。

 複数の監視所で、装甲車両や補給車両の移動が確認されていた。

 さらに、一部の国境地帯では、双方の偵察部隊が近距離で接触する事案も発生していた。

 司令部の将校たちは、地図を前に議論を続けていた。

「……このままでは、偶発的な衝突が起きる可能性があります」

 情報将校が報告した。

 司令官は静かに頷いた。

「……分かっている」

 そして、地図へ視線を向けた。

「国境警備隊には、引き続き慎重な対応を命じろ」

「はっ!」

「こちらから発砲するような事態は、何としても避けなければならん」

 将校たちは頷いた。

 しかし、緊張が高まり続けていることは、誰の目にも明らかだった。

 帝国と連邦共和国。

 二つの国家は、まだ戦争へ踏み出してはいなかった。

 だが、その距離は少しずつ縮まりつつあった。

 そして、異界門の向こうに存在する未知の世界もまた、帝国の未来へ影を落とし始めていた。

 クロウ家の屋敷では、レイブンが穏やかな眠りについていた。

 父が再び軍服を着た日。

 そして、軍人としての新しい役割を見つけ始めた日。

 その記憶は、少年の心へ静かに刻まれていく。

 軍人の誇りとは、戦場へ立ち続けることだけではない。

 次の世代へ経験を伝え、彼らが生きて帰るための知恵を残すこともまた、一つの責任だった。

 ヴァルター・A・クロウは、その新しい役割へ歩み始めていた。

 そして、その背中を見つめるレイブンもまた、少しずつ成長していた。

 帝政歴三三五年、春。

 帝国に迫る戦雲は、まだ遠くにあった。

 しかし、その影は確実に濃くなり始めていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。