第12話 祖母からの手紙
第12話 祖母からの手紙
帝政歴三三四年、十二月。
帝国北部の街並みは、冬の装いへと変わっていた。
石造りの建物には薄く雪が積もり、街路樹の枝には白い霜が付いている。朝になると煙突から暖かな煙が立ち上り、通りを行き交う人々は厚手の外套に身を包んでいた。
クロウ家の屋敷でも、暖炉の火が絶えることはなかった。
廊下には冬用の絨毯が敷かれ、食堂には温かな料理の香りが漂っている。
レイブン・S・クロウは、七歳になって初めて迎える冬を、家族と共に過ごしていた。
父ヴァルターが異界から帰還してから、屋敷には以前のような穏やかな時間が戻りつつあった。
しかし、完全に元通りになったわけではない。
ヴァルターの右腕は、依然として失われたままだった。
軍の医療研究部門が進める身体機能再構築技術の試験は続いていたが、実用化にはまだ時間が必要とされていた。
それでも、彼は焦ることなく訓練を続けていた。
左手で文字を書く。
片手で衣服を整える。
身体の均衡を保ちながら歩く。
以前なら意識することもなかった動作を、毎日少しずつ覚え直していた。
レイブンは、そんな父の姿をよく見ていた。
父は以前ほど自由に身体を動かせなくなった。
だが、決して諦めようとはしなかった。
そして、その姿は少年にとって、何よりも大きな教えとなっていた。
ある日の朝。
クロウ家の屋敷に、一通の手紙が届いた。
封筒には、古い形式の封蝋が押されていた。
そこに刻まれていたのは、クロウ家の黒鴉の紋章だった。
執事は手紙を確認すると、静かにセレナへ差し出した。
「奥様。こちらが届いております」
セレナは封筒を受け取った。
「……まあ」
差出人の名前を見た瞬間、彼女の表情が少し明るくなった。
「ヘレーネ様からですね」
その言葉に、近くで本を読んでいたレイブンが顔を上げた。
「……ヘレーネ?」
セレナは微笑んだ。
「あなたのお祖母様ですよ」
レイブンは目を丸くした。
「……おばあちゃん?」
「ええ。お祖父様の奥様です」
少年は少し考えた。
アルベルト祖父には、これまで何度も会っていた。
しかし、祖母ヘレーネとは、しばらく顔を合わせていなかった。
幼い頃に会った記憶はあるものの、その姿は少し曖昧になっていた。
「……どんな人だったっけ?」
セレナは小さく笑った。
「とても優しい方ですよ。それに、少し厳しいところもありますけれど」
「……おじいちゃんみたい?」
「ふふ。そうですね。でも、また少し違います」
セレナは封筒を見つめた。
「せっかくですから、みんなで読みましょうか」
「うん!」
レイブンは嬉しそうに頷いた。
その日の午後。
クロウ家の書斎には、家族が集まっていた。
ヴァルターは椅子へ腰掛け、セレナはその隣に座っている。
レイブンは机の前に椅子を引き寄せ、ルナは母の膝の上で小さな人形を抱えていた。
暖炉では薪が静かに燃え、窓の外には細かな雪が舞っている。
セレナは封筒を開いた。
中には、丁寧な筆跡で書かれた数枚の便箋が収められていた。
「……では、読みますね」
家族が静かに耳を傾ける。
セレナは最初の一文を読み上げた。
――愛するヴァルター、セレナ、そして可愛い孫たちへ。
その言葉に、レイブンの耳がぴんと立った。
「……僕たちのことだ!」
ヴァルターが微笑んだ。
「ああ。ちゃんと書いてあるな」
セレナは続きを読んだ。
――冬の寒さが厳しくなってきましたが、皆さんは元気に過ごしていますか。
――こちらでは、庭の木々がすっかり葉を落とし、朝になると窓辺に霜が降りるようになりました。
――アルベルトは相変わらず忙しそうにしていますが、最近は孫たちの話をすることが増えました。
その一文に、ヴァルターが小さく笑った。
「……父上らしい」
セレナも微笑んだ。
そして、次の頁へ目を向けた。
――ヴァルター。
――あなたが無事に帰還したと聞いた時、私は本当に安心しました。
――右腕を失ったことは、決して小さな出来事ではありません。
――しかし、あなたが生きて帰ってきたこと。それだけで、私は十分に嬉しく思っています。
ヴァルターは静かに目を伏せた。
セレナは少しだけ声を落として続きを読んだ。
――あなたは昔から、責任感の強い子でした。
――一度決めたことは、どれほど難しくても最後までやり遂げようとする。
――その姿勢を、私は誇りに思っています。
――けれど、時には立ち止まることも必要です。
――無理をして倒れてしまえば、あなたを大切に思う人々が悲しみます。
――どうか、今は身体を大切にしてください。
ヴァルターは小さく息を吐いた。
「……母上には、昔から敵わんな」
セレナは微笑んだ。
「本当に、よく分かっていらっしゃいますね」
レイブンは父を見つめた。
「……父さん、おばあちゃんにも怒られるの?」
ヴァルターは苦笑した。
「……昔は、よくな」
「本当!?」
「ああ。父さんが子供の頃は、今のお前よりずっと手が掛かったらしい」
その言葉に、レイブンは驚いたように目を見開いた。
「……父さんが!?」
セレナが思わず笑った。
ヴァルターも、少し照れたように笑った。
「……誰にでも子供の頃はある」
レイブンはしばらく考えた。
そして、小さく呟いた。
「……父さんも、普通の子供だったんだ」
ヴァルターは息子の頭を撫でた。
「もちろんだ」
セレナは再び手紙へ目を向けた。
――セレナ。
――長い間、本当に大変だったでしょう。
――夫の帰りを待ちながら、二人の子供たちを守り続けたあなたの強さを、私はよく知っています。
――どうか、自分自身のことも大切にしてください。
――あなたが笑っていることは、ヴァルターにとっても、レイブンとルナにとっても、大きな支えになるはずです。
セレナは読みながら、静かに目を細めた。
夫が消息を絶っていた三か月間。
不安に押し潰されそうになった夜もあった。
それでも、子供たちの前ではできる限り笑顔でいようとした。
そのことを、ヘレーネは理解してくれていた。
「……ありがとうございます」
セレナは小さく呟いた。
ヴァルターは妻の左手をそっと握った。
セレナは夫へ微笑み返した。
手紙は、さらに続いていた。
――そして、レイブン。
その名前が読み上げられた瞬間、少年は背筋を伸ばした。
「……僕だ!」
セレナは微笑んだ。
「ええ。あなたへの言葉ですよ」
レイブンは真剣な表情で頷いた。
――七歳のお誕生日、おめでとう。
――少し遅くなってしまいましたが、遠くからあなたの成長を祝っています。
――お祖父様から、最近は歴史や地理の勉強を頑張っていると聞きました。
――とても立派なことです。
レイブンは嬉しそうに笑った。
「……おじいちゃん、話してくれたんだ!」
ヴァルターが頷いた。
「そうらしいな」
セレナは続きを読んだ。
――けれど、レイブン。
――本を読むことだけが勉強ではありません。
――外へ出て、風を感じ、木々を眺め、人々の話を聞くことも大切です。
――知らないことに出会った時は、怖がらずに尋ねてください。
――分からないことがあっても、恥ずかしがる必要はありません。
――人は、分からないことを一つずつ知っていくことで、少しずつ成長するのです。
レイブンは真剣な表情で聞いていた。
そして、小さく頷いた。
「……うん」
セレナは次の一文を読んだ。
――それから、もう一つ。
――あなたのお父さんは、とても立派な人です。
――けれど、あなたはお父さんと同じ人間になる必要はありません。
その言葉に、レイブンは少し首を傾げた。
「……同じにならなくていいの?」
セレナは一度読むのを止めた。
ヴァルターが静かに答えた。
「……ああ」
少年は父を見つめた。
「でも、僕、父さんみたいになりたい」
ヴァルターは微笑んだ。
「そう思ってくれるのは嬉しい」
そして、ゆっくりと続けた。
「だが、お前にはお前の人生がある」
レイブンは少し考え込んだ。
セレナは続きを読んだ。
――あなたには、あなたにしか見つけられない道があります。
――誰かの背中を追いかけることは、悪いことではありません。
――けれど、いつかは自分自身の足で歩かなければならない日が来ます。
――その時、どうか自分の心に正直でいてください。
――クロウ家の名に縛られる必要も、誰かの期待だけで道を選ぶ必要もありません。
――あなたが自分で考え、自分で選んだ道なら、私はきっと応援します。
レイブンはしばらく黙っていた。
その言葉は、七歳の少年には少し難しかった。
しかし、祖父アルベルトから教わった《黒鴉の返上》の話と、どこか似ているように感じられた。
家門の名より、自分の良心を大切にすること。
そして、自分自身の意思で道を選ぶこと。
少年は小さく頷いた。
「……分かった」
セレナは微笑んだ。
そして、最後の頁へ目を向けた。
――ルナ。
――まだ幼いあなたには、この手紙の意味が分からないかもしれません。
――けれど、いつか大きくなった時に、家族があなたをどれほど大切に思っていたのか、知ってくれたら嬉しいです。
――どうか、元気に育ってください。
――そして、レイブンと仲良くしてくださいね。
ルナは自分の名前が聞こえたことに気づき、顔を上げた。
「……ルナ?」
セレナは微笑んだ。
「ええ。お祖母様が、ルナにも元気に育ってほしいと書いてくださっていますよ」
ルナは嬉しそうに笑った。
「……おばあちゃん!」
ヴァルターは娘の頭を撫でた。
セレナは最後の一文を読み上げた。
――家族とは、同じ場所にいることだけではありません。
――離れていても、互いを思い、支え合うことができる。
――それが、家族の強さなのだと思います。
――どうか、これからも皆さんが穏やかに過ごせますように。
――愛を込めて。
――ヘレーネ・クロウ。
セレナは手紙を閉じた。
書斎には、しばらく静かな時間が流れた。
暖炉の薪が小さく弾け、窓の外では雪が舞っている。
ヴァルターは目を閉じ、深く息を吐いた。
「……母上らしい手紙だ」
セレナは頷いた。
「ええ。本当に」
レイブンは手紙を見つめていた。
「……母さん」
「なあに?」
「……この手紙、僕も読んでいい?」
セレナは微笑んだ。
「もちろんですよ」
少年は両手で手紙を受け取った。
そして、祖母の丁寧な文字を一つずつ目で追い始めた。
まだ読めない言葉もあった。
しかし、分からない部分は父や母に尋ねながら、ゆっくりと読み進めた。
やがて、最後の一文へ辿り着いた。
――家族とは、同じ場所にいることだけではありません。
レイブンはその言葉を、もう一度読み返した。
父が異界へ消えた三か月間。
毎日、父の帰還を願っていた。
母と一緒に待ち続けた。
妹を励まし、父の書斎で手紙を読んだ。
あの時、父は遠く離れた場所にいた。
それでも、家族であることは変わらなかった。
少年は静かに頷いた。
「……そっか」
ヴァルターが顔を向けた。
「どうした?」
レイブンは父を見つめた。
「……父さんがいなかった時も、僕たちは家族だったんだね」
ヴァルターは一瞬だけ目を見開いた。
そして、穏やかに微笑んだ。
「……ああ」
彼は左手を伸ばし、息子の頭を撫でた。
「もちろんだ」
セレナも微笑んだ。
ルナは兄の隣へ近づき、小さな手でレイブンの袖を握った。
「……おにいちゃん」
レイブンは妹を見つめた。
「ん?」
「……いっしょ」
少年は嬉しそうに笑った。
「うん。一緒だよ」
その日の夕方。
クロウ家の屋敷では、祖母ヘレーネへの返事を書くことになった。
セレナは家族全員の近況をまとめ、ヴァルターは左手で短い言葉を添えた。
ルナは小さな紙に、黒い鳥のような絵を描いた。
そして、レイブンも自分の手紙を書いた。
机に向かい、万年筆を握る。
何度か文字を書き直しながら、ゆっくりと文章を綴っていく。
『おばあちゃんへ。
お手紙、ありがとう。
僕は七歳になりました。
父さんが帰ってきて、毎日とても嬉しいです。
最近は、歴史と地理の勉強をしています。
おじいちゃんから、黒鴉の話も聞きました。
僕はまだ、将来何になるか分かりません。
でも、父さんみたいに、誰かを守れる人になりたいです。
それから、おばあちゃんが言っていたように、自分で考えて決められる人にもなりたいです。
いつか、また会いに行きます。
レイブンより。』
書き終えた少年は、満足そうに頷いた。
そして、手紙を父へ見せた。
「……どう?」
ヴァルターはゆっくりと読み進めた。
そして、静かに微笑んだ。
「……良い手紙だ」
「本当?」
「ああ」
ヴァルターは頷いた。
「母上も、きっと喜ぶ」
レイブンは嬉しそうに笑った。
その夜。
帝国軍北部方面司令部では、国境警備に関する新たな報告が届いていた。
連邦共和国軍の部隊移動は依然として続き、双方の監視所では緊張が高まっていた。
しかし、外交交渉はまだ継続されていた。
帝国政府は衝突を避けるため、慎重な対応を求めていた。
その一方で、異界門に関する調査も続けられていた。
門の向こうに存在する未知の世界。
複数の知的種族。
異なる魔力体系。
そして、ヴァルターたち先遣調査班が持ち帰った情報。
それらは、帝国の未来に大きな影響を与える可能性を秘めていた。
だが、その全貌が明らかになるまでには、まだ長い時間が必要だった。
クロウ家の屋敷では、レイブンが静かに眠っていた。
机の上には、祖母からの手紙の写しと、祖父から預かった黒鴉の徽章が収められた箱が置かれている。
少年はまだ、戦争の本当の意味を知らなかった。
異界で何が起きていたのかも、十分には理解していなかった。
しかし、家族から受け継いだ言葉は、少しずつ彼の心に根を下ろしていた。
父からは、守ることの意味を。
母からは、支え合うことの大切さを。
祖父からは、責任と良心を。
そして祖母からは、自分自身の道を選ぶ勇気を。
それらは、やがて一人の少年が歩む人生の礎となっていく。
黒鴉の名を継ぐことは、誰かの人生をなぞることではない。
自らの意思で翼を広げ、進むべき空を見つけることだった。
帝政歴三三四年の冬。
レイブン・S・クロウ、七歳。
彼の幼年期は、家族の温もりと、静かに近づく時代の変化の中で、新たな節目を迎えようとしていた。
第一部・幼年期編
第一章「クロウ家の記憶」完




