第125話 東へ向かう艦影
第125話 東へ向かう艦影
連邦共和国からの帰国日
駅へ向かう途中、エリシアは何度か後ろを振り返った。
もう家は見えなかった。それでも、最後の角を曲がる前に足を緩め、通りの向こうを見ていた。
「忘れ物か」
レイブンが尋ねると、彼女は首を振った。
「ううん。母さん、最後まで笑っていたでしょう」
「ああ」
「帰るたび、いつも少し寂しそうな顔をするの。今日は、そのあとに何度も、また来なさいって」
彼女は隣を見た。
「二人で、って」
レイブンは肩の荷物を持ち直した。
「次は、もう少し長くいられるようにしよう」
「ええ」
エリシアの手が、彼の空いている手に触れた。
駅前へ出るまで、二人はそのまま歩いた。
列車は予定どおりに到着した。
荷物を収め、向かい合って座ると、エリシアは窓の外へ顔を向けた。ホームでは駅員が乗客を案内し、遅れて来た男が鞄を抱えて歩調を速めている。
発車の合図が響いた。
車体が動き始めると、レイブンは内ポケットへ手を添えた。書類は揃っている。往路と同じように確認してから手を下ろすと、エリシアと目が合った。
「今度は、何を考えているの?」
「帰ったら、父さんと母さんに話さないとな」
「……そうね」
エリシアは微笑んだが、少ししてから膝の上へ目を落とした。
「私、急に緊張してきたわ」
「もう何度も会ってるだろ」
「昨日までとは違うもの」
レイブンは返事をしようとして、やめた。
クラウンの前で立ったまま言葉を探した、今朝の自分を思い出した。
「そうだな」
彼が頷くと、エリシアは小さく笑った。
窓の外で街並みが途切れ、畑が広がった。
二人を乗せた列車は、国境へ向けて西へ進んでいた。
その頃、連邦共和国の東に位置する大和国では、軍部の作戦室に将校たちが集まっていた。
机上の海図には、海を隔てた連邦共和国東部の海岸線が描かれていた。港湾施設、航路、周辺の飛行場。書き込まれた印を、壁際の時計の針が進むたびに誰かが見直していた。
通信担当の将校が、受け取った報告を卓上へ置いた。
「出撃準備、完了。各部隊、命令を待っています」
作戦を統括する将官は、報告書へ目を通した。
決裁欄には、すでに必要な署名が揃っていた。
「予定どおり、開始する」
室内の者たちが姿勢を正した。
命令書が開かれ、担当者の手へ渡る。復唱された内容が確認されると、通信室へ続く扉が開いた。
連邦共和国政府に対する宣戦布告は、まだ行われていなかった。
作戦室で若い参謀が海図から顔を上げた。
「連邦側の警戒態勢に、変化は」
「現時点で、顕著な変化は認められません」
返答を受け、参謀は手元へ視線を戻した。
紙を押さえる指先に、わずかに力が入った。
同じ報告を読み、同じ命令に従っていても、その顔は一様ではなかった。短く頷く者がいれば、黙って時計を見る者もいた。誰も、作戦開始の命令を聞き返さなかった。
港では、最後の係留索が外されていた。
岸壁の作業員が退き、誘導する声が飛ぶ。艦上では乗員が持ち場につき、機関の振動が足元へ伝わっていた。
ゆっくりと岸から離れた艦が、港口へ艦首を向ける。
後続艦も続いた。
陸上の飛行場では、整備員が機体のそばから離れ始めていた。搭乗員が係員と最後の確認を交わし、渡された書類を収める。
始動した発動機の音が、ひとつ、またひとつと重なった。
海の向こうの連邦共和国東部では、まだ荷役が続いていた。
港湾の倉庫前に貨物車が並び、船から下ろされた荷が運び込まれていく。昼の交代を待つ労働者が時計を見上げ、事務所では係員が入港予定の一覧へ書き込みを加えていた。
防波堤の内側を、小型の作業艇が横切った。
岸壁に繋がれた船の甲板で、乗員が洗濯物を取り込んでいた。
彼らの手元に、避難の指示は届いていなかった。
西へ向かう列車の中で、エリシアは母親から持たされた包みを開いた。
「こんなに入ってる」
中には、移動中に食べられるよう用意されたパンと、小さく切り分けられた料理が収められていた。
レイブンが覗き込む。
「朝も、十分食べたんだがな」
「途中でお腹が空くから、って」
彼女は布を広げ、半分を彼へ差し出した。
レイブンは礼を言って受け取った。
車窓の外を、信号柱が過ぎていく。
国境での停車を経て、二人は再び帝国側の列車へ乗り継いだ。確認を終えた書類をしまうと、エリシアはようやく深く座り直した。
「帰ってきたな」
レイブンの言葉に、彼女が頷いた。
「ええ」
窓ガラスに、並んだ二人の姿が薄く映っていた。
その頃、大和国の出撃部隊は、すでに連邦共和国東部の港湾へ向かっていた。
艦橋へ新たな報告が届く。
指揮官は海図の現在位置を確かめ、前方の海へ目を向けた。
「針路、そのまま」
復唱が返った。
航跡が、後方へ長く伸びていた。




