第124話 父の返事
第124話 父の返事
連邦共和国滞在最終日の朝
エリシアの父に呼ばれたのは、朝食の支度が始まる頃だった。
「少し、時間をもらえるか」
廊下へ出たレイブンは、その声に振り返った。
クラウン・G・ヴォルハラムが、奥の部屋の前に立っていた。
「はい」
返事をして近づくと、クラウンは扉を開け、中へ入るよう促した。
窓際の机には、書類が数枚重ねられていた。壁の棚には本が並び、その一角に小さな写真立てが置かれている。
幼いエリシアが、両親の間で笑っていた。
「今日、帰るそうだな」
クラウンの声で、レイブンは視線を戻した。
「はい。朝食をいただいたあと、出発する予定です」
昨夜、エリシアと話して決めたことだった。
両親には会えた。紹介の件も、本人の意思を伝えられた。もう一晩泊まるよう勧められたが、帰りの移動と休暇の日数を考え、予定どおり翌日に発つことにした。
夕食の席では、エリシアの幼い頃の話も聞いた。
彼女が止めようとするほど母親は楽しそうに話し、クラウンも、娘が忘れていた出来事をいくつか付け加えた。レイブンも家族やガイルのことを話した。話題を探さずに言葉が出る頃には、食卓の皿はすっかり片づいていた。
それでも、まだ伝えていないことがあった。
「座ってくれ」
クラウンが椅子を示した。
レイブンはその前で足を止めた。
「その前に、私からお話ししてもよろしいでしょうか」
クラウンは椅子へ伸ばしかけた手を戻した。
「ああ。聞こう」
レイブンは背筋を伸ばした。
昨日、将来については十分に話せていないと答えた。それは事実だった。どこで暮らすのか、互いの仕事をどうするのか、いつまでに何を整えるのか。決めるべきことは残っている。
だが、それを考える間も、隣にいてほしい相手は決まっていた。
「私は、エリシアと結婚したいと思っています」
クラウンは黙って彼を見ていた。
「昨夜も考えました。まだ二人で相談しなければならないことはあります。彼女には、改めて私から申し込みます。その前に、お父様にも、私の気持ちをお伝えしておきたかったんです」
言い終えると、部屋の外から微かな食器の音が聞こえた。
クラウンが頷いた。
「ああ、構わんよ」
レイブンは動かなかった。
「……はい?」
「私に異存はない。エリシアが承知するなら、二人で決めなさい」
今度こそ言葉を理解したが、返事が出てこなかった。
クラウンはその顔を見て、わずかに眉を上げた。
「もっと長く待たせた方がよかったか」
「いえ。そういうわけでは」
レイブンは慌てて首を振った。
「ただ、もう少し……いろいろ聞かれるものだと」
「昨日、ずいぶん聞いただろう」
「はい」
「夕食のあともな」
確かに、そのとおりだった。
レイブンが口を閉じると、クラウンはようやく椅子へ腰を下ろした。改めて向かいを示され、レイブンも座った。
「国の違いも、仕事のことも、心配がなくなったわけではない」
「はい」
「ただ、娘が自分から君を連れてきた。私たちに会わせたいと言ってな」
クラウンは机の端へ目を向けた。
そこには、エリシアから届いた手紙があった。
「手紙を読んだときは、どんな男が来るのかと思ったよ」
「……ご期待に沿えたでしょうか」
「娘と話しているときの君を見て、少し安心した」
レイブンは顔を上げた。
「私が何か尋ねるたび、君はまずエリシアの話を聞いていた。昨日の紹介の件でも、娘に代わって断りに来たわけではなかった」
クラウンはレイブンへ視線を戻した。
「これからも、二人でよく話しなさい。困ったときほど、勝手に相手の答えを決めないように」
「はい」
今度の返事には、迷いがなかった。
クラウンは頷き、口元を緩めた。
「それで、娘にはいつ言うつもりだ」
「……帰る前には」
「そうか」
そのとき、扉が鳴った。
「父さん。朝食の用意ができたわ」
エリシアの声だった。
レイブンは思わず扉を見た。
クラウンが立ち上がる。
「今行く」
扉を開けると、エリシアが二人を見比べた。
「何の話をしていたの?」
「帰る前に、少しな」
父親の返事に、彼女はますます不思議そうな顔をした。
クラウンは先に廊下へ出た。二歩ほど進んだところで振り返り、レイブンに声を掛ける。
「返事は、本人からもらうように」
エリシアの視線が、父からレイブンへ移った。
クラウンはそのまま食卓へ向かい、廊下に二人が残された。
「……何の返事?」
レイブンは一度、息を整えた。
予定していた場所でも、考えていた切り出し方でもなかった。だが、彼女が目の前で答えを待っていた。
「エリシア」
「ええ」
「俺と、結婚してほしい」
彼女の目が大きく開いた。
レイブンはその顔を見つめたまま、言葉を続けた。
「暮らす場所も、これからのことも、一緒に考えたい。帰る家を、お前と持ちたいんだ」
エリシアは唇を開きかけ、何も言わずに閉じた。
頬へ赤みが差していく。
「父さんに、それを?」
「ああ。お前には俺から申し込むと伝えた」
「それで、父さんは?」
「構わないと。お前が承知するなら、二人で決めろと」
エリシアは父の歩いていった方を見た。
それから顔を戻し、少し困ったように笑った。
「私より先に返事をしたのね」
「……そうなるな」
彼女の手が伸び、レイブンの手を取った。
「私も、あなたと結婚したい」
レイブンは握られた手へ目を落とした。
その温かさを確かめるように、指を握り返す。
「いいのか」
「ええ」
エリシアは近づき、もう一方の手も重ねた。
「一緒に、考えていきましょう」
レイブンは頷いた。笑おうとしたが、うまく言葉にならず、握る手に少し力が入った。
食卓の方から、母親の声がした。
「二人とも、冷めてしまうわよ」
「今行くわ」
エリシアが答えた。
それでも、二人はすぐには手を離さなかった。
やがて彼女が小さく笑い、レイブンの手を引いた。
食卓では、クラウンが何事もなかったように茶を飲んでいた。隣の母親は、二人の繋いだ手を見てから、娘の顔を見上げた。
エリシアが頷く。
母親の表情が、ゆっくりと和らいだ。
「そう。……まずは、座って」
レイブンは椅子を引き、エリシアと並んで腰を下ろした。
窓から朝の光が差し込み、用意された四人分の食器を照らしていた。




