第122話 国境の向こうへ
第122話 国境の向こうへ
連邦共和国への出発日
駅の時計を、レイブンはもう一度見上げた。
まだ時間はあった。それでも、肩の荷物を下ろす気にはなれず、乗車に必要な書類が入った内ポケットへ手を添えた。
「さっきも確認していたわ」
隣でエリシアが言った。
「分かってる」
「なくなっていないでしょう?」
「ああ」
手を下ろすと、彼女が小さく笑った。
ホームには荷物を抱えた旅客が並んでいた。大きな鞄を足元に置く者もいれば、眠そうな子供を抱いて列車を待つ者もいる。レイブンたちも、その中に立っていた。
今日は二人とも私服だった。
軍務を離れての移動に合わせ、携行するものも事前の確認に従って揃えてある。いつもと違う肩の軽さに、レイブンはまだ慣れていなかった。
列車が入ってくると、人の列が少しずつ動き始めた。
エリシアが乗車口を確かめ、レイブンは彼女の荷物を受け取った。
「持てるわよ」
「段を上がる間だけだ」
先に乗った彼女へ荷物を渡し、自分も続く。
指定された席へ着くと、ようやく肩から重みが消えた。窓際へ座ったエリシアが外を見る。その横顔を見て、レイブンは向かいの席へ腰を下ろした。
発車を知らせる声が響いた。
ほどなく車体が揺れ、窓の外の柱がゆっくり後ろへ流れ始めた。
「本当に来たのね」
エリシアが呟いた。
「ここまで来て、引き返すと思ってたか」
「そういう意味じゃないわ」
彼女は膝の上で手袋を整えた。
「一人で帰るつもりで考えていたから。あなたが向かいにいるのが、まだ少し不思議」
レイブンは窓の外を見た。
見慣れた街並みが途切れ、線路沿いの倉庫が続いていた。
「俺もだ」
「旅行に?」
「お前の両親に会いに行くことに」
エリシアは彼を見て、それから視線を落とした。
「緊張してる?」
「してる」
素直に答えると、彼女の口元が緩んだ。
「私も」
レイブンは少し身を乗り出した。
「一つ、聞いておきたい」
「何?」
「俺のことは、どこまで話してある」
エリシアの指が止まった。
「手紙では、詳しく書かなかったわ。一緒に帰る人がいることと、私にとって大切な人だということだけ」
「帝国の軍人だとは?」
「以前、あなたのことを書いたことはあるの。だから、名前を見れば分かると思う」
レイブンは頷いた。
知らないまま玄関で名乗ることになるより、先に聞けてよかったと思った。
「困らせることになるわね」
エリシアが言った。
「誰を?」
「あなたを」
「それも含めて、行くと言った」
彼女は何か答えようとしたが、通路を人が通り、二人は少し身体を引いた。
旅客が過ぎると、レイブンは声を落とした。
「ただ、お前がご両親に話しているときは、俺もちゃんと聞く。勝手に話を進めたら止めてくれ」
「ええ」
「俺が黙りすぎてても、言ってくれ」
エリシアが顔を上げた。
「ガイルに何か言われた?」
「……なぜ分かる」
彼女は笑いを堪えきれず、口元に手を当てた。
国境へ近づくにつれ、車内で聞こえる言葉の調子が少しずつ変わった。
エリシアが通路を挟んだ席の老女に道を尋ねられ、身を寄せて答えた。普段より滑らかに続く言葉を聞きながら、レイブンは黙っていた。
老女が礼を言い、席へ戻る。
「何?」
視線に気づいたエリシアが尋ねた。
「いや。故郷の話し方なんだなと思って」
「変だった?」
「少し違った」
彼女は照れたように窓へ顔を向けた。
「家へ着いたら、もっと戻るかもしれないわ」
国境の駅では、列車が長く停まった。
車内へ入ってきた係官へ、二人は書類を差し出した。渡航目的と滞在先を尋ねられ、順に答える。
レイブンの書類を確かめる手が、一度止まった。
係官は記載と本人の顔を見比べ、同行者へ何かを確認した。レイブンは姿勢を変えずに待った。
隣で、エリシアの衣服がかすかに擦れた。
やがて書類が返される。
「滞在中も携行してください」
「承知しました」
係官が次の席へ移ってからも、しばらく二人は口を開かなかった。
窓の外では、駅員が別の車両へ向かって歩いていた。
列車が動き出し、ホームが途切れたところで、エリシアが息を吐いた。
「大丈夫?」
彼女に聞かれ、レイブンは頷いた。
「ああ。お前は?」
「ええ」
返事をしてから、彼女は膝の上の手をほどいた。
窓の向こうには畑と低い丘が続いていた。国境を越えた瞬間に、景色のすべてが変わるわけではなかった。それでも、次の駅に掲げられた表示を見たとき、レイブンは自分が彼女の国へ入ったことを実感した。
乗り継ぎを終え、最後の列車を降りた頃には、午後の光が駅前の建物を照らしていた。
エリシアは改札を出たところで足を止めた。
広場の向こうを見ている。
「変わったのか」
「少し。あそこにあった店が、なくなってる」
彼女が示した場所には、新しい看板が掛かっていた。
一方で、通りの角の建物を見ると懐かしそうに目を細めた。
「家までは?」
「歩ける距離よ」
「なら、行こう」
レイブンが荷物を持ち直すと、エリシアも頷いた。
駅前を離れてからは、彼女が道を選んだ。角を曲がる前に迷うことはなく、通りの先へ向ける視線も確かだった。
レイブンは半歩遅れて歩き、やがて隣へ並んだ。
住宅の続く道へ入ると、エリシアの歩調が少し落ちた。
彼女はある門の前で立ち止まった。
「ここ」
レイブンは門の向こうへ目を向けた。
窓にカーテンが掛かり、玄関へ続く道が手入れされている。彼女が幼い頃に出入りし、軍へ向かう日にも通った家だった。
エリシアが手を伸ばしかけ、止めた。
レイブンは隣で待った。
「行きましょう」
今度は自分からそう言って、彼女は門を開けた。
玄関の前で呼び鈴を鳴らす。
家の中から近づく足音がした。
エリシアが背筋を伸ばす。その隣で、レイブンも荷物を持ち替えた。
扉が開いた。
「……ただいま」
彼女の声が、家の中へ届いた。




