第120話 離れた机で
第120話 離れた机で
帰隊翌日の夜
靴の泥は、乾き始めたところほど落としにくかった。
レイブンは水場の端に腰を下ろし、靴底の溝へ残った土を掻き出していた。隣ではガイルが、洗った靴を傾けて明かりにかざしている。
「まだついてるか」
「踵」
「……どこだ」
レイブンが指で示すと、ガイルは顔をしかめ、もう一度ブラシを取った。
帰還してから、報告と装備の手入れで夕食が遅くなった。食堂を出る頃には構内を行き交う者も減り、水場の窓には二人の姿と暗い外が重なっていた。
「明日も、あの道かね」
ガイルが靴を擦りながら言った。
「まだ聞いてない」
「工兵の連中、しばらく掛かりそうな顔だったな」
「あれだけ削れてたからな」
レイブンは靴を置き、汚れた水を流した。
路面の下にできた空洞が、目を閉じると浮かんだ。上だけ見ていれば、まだ通れるように見えた場所だった。
朝の時点で通行を止めてよかったと思う。同時に、自分たちの立っていた位置を思い返すと、工兵が杭を打った線の意味がよく分かった。
「次は、最初からもう少し離れて止める」
レイブンが言うと、ガイルも手を止めた。
「ああ。寄って確かめる前にな」
二人はそれ以上話さず、残った泥を落とした。
部屋へ戻ると、レイブンは窓を少し開けた。湿った空気が流れ、廊下から聞こえる声が遠くなった。
荷物の整理を終えて椅子へ座ったとき、扉が鳴った。
「どうぞ」
顔を出したのはエリシアだった。
「戻っていたのね」
「ああ。少し前に」
彼女は室内へ入ると、机の脇に立て掛けられた装備へ目を向けた。
「道路を調べに行ったって聞いたわ」
「雨で崩れてた。工兵に引き継いできたところだ」
レイブンは立ち上がり、椅子を勧めた。エリシアは礼を言って腰を下ろし、彼は寝台の端へ座った。
「誰か怪我を?」
「今日は出てない。昨日、荷車が落ちかけたらしいが、そっちも無事だった」
「よかった」
エリシアが肩の力を抜いた。
レイブンは、集落への迂回路を探したことを話した。石垣の家と、門の外へ出たがる鶏。粉を仕入れに行けずにいた若いパン屋と、帰りに買ったパンのこと。
「ガイル、気に入っていたでしょう」
「分かるのか」
「食べ物の話をするときは、いつも真剣だもの」
レイブンは笑った。
「今日も真剣だった」
エリシアも笑い、それから机へ目を向けた。朝まで便箋が置かれていたところには、閉じた手帳だけがあった。
「手紙は出した?」
「ああ。朝に」
「そう」
「短いものだがな」
「届いたら、きっと喜ぶわ」
レイブンは空いた机の上を見た。
「返事を待たせるような書き方になってなければいいが」
エリシアは少し首を傾けた。
「何て書いたの?」
「急いで答えを出さなくていい。また帰ったら話を聞かせてくれって」
「それなら、大丈夫じゃないかしら」
彼女は膝の上で手を重ねた。
「ルナも、すぐには答えられないときは、そう言えると思う」
レイブンは頷いた。
窓の外で車両の音がした。二人は一度そちらへ顔を向け、灯りが通り過ぎるのを見送った。
同じ頃、クロウ家でも食器を片づける音がしていた。
ルナは洗い終えた皿を拭き、棚へ収めていた。隣でセレナが最後の器をすすいでいる。
「今日は、早く休みなさいね」
「分かってる」
「昨日もそう言っていたわ」
ルナは布巾を持つ手を止め、母を見た。
「……そんなに遅くまで起きてないよ」
セレナは言い返さず、濡れた手を拭いた。
「温かいもの、飲む?」
「うん。ありがとう」
二人分のカップを運び、食卓へ座った。
ヴァルターは少し離れた席で書類を読んでいたが、ルナが腰を下ろすと顔を上げた。
「兄とは、よく話せたか」
「うん」
ルナはカップを両手で包んだ。
「今まで聞いてなかったことも、話してくれた」
「そうか」
父は書類を伏せた。それ以上を促さずに待っている。
ルナは湯気を見つめた。
兄が軍にいることは、ずっと知っていた。家へ帰ってくれば話もしたし、無事な姿を見て安心もした。けれど、その間にどんな日々があったのかは、知らないことの方が多かった。
「私、兄さんができるなら、自分もできるって思ってたのかもしれない」
口にしてから、少し違う気がした。
「ううん。それだけじゃないんだけど……うまく言えない」
ヴァルターは頷いた。
「今、言葉になったところまででいい」
ルナは顔を上げた。
「父さんにも、また聞いていい?」
「何をだ」
「軍に入ったときのこと。兄さんに聞いたのと、同じこともあると思う」
「構わん」
ヴァルターは伏せた書類を脇へ寄せた。
「ただ、今夜全部となると、母さんに叱られるな」
「私を理由にしないでください」
セレナが答え、ルナは思わず笑った。
カップを空にしてから、ルナは自分の部屋へ戻った。
机の上には、昨夜開いたままにしていた紙があった。書いては消した跡が残り、いちばん上の一文だけが、濃く残っている。
『私は、何がしたいのか』
椅子を引いて座り、鉛筆を持った。
しばらく考えてから、その下へ書く。
『兄さんと同じことができるかではなく、自分が何をしたいのか』
読み返すと、まだ広すぎる問いに思えた。
それでも、昨夜より少しだけ、考える場所がはっきりした。
ルナは紙を捨てず、机の端へ寄せた。明日、父に聞きたいことを別の紙へ書き留める。
階下から、母が灯りを落としていく音が聞こえた。
ルナも鉛筆を置いた。書きかけの紙の上に重しを載せ、今夜は机の灯りを消した。




