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黒鴉年代記 ~戦火を超えて、受け継がれる意志~  作者: @12
第二部:戦火の終焉と新たなる時代 第一章 交わる軍旗、影と戦乙女
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第120話 離れた机で

第120話 離れた机で


帰隊翌日の夜

 靴の泥は、乾き始めたところほど落としにくかった。

 レイブンは水場の端に腰を下ろし、靴底の溝へ残った土を掻き出していた。隣ではガイルが、洗った靴を傾けて明かりにかざしている。

「まだついてるか」

「踵」

「……どこだ」

 レイブンが指で示すと、ガイルは顔をしかめ、もう一度ブラシを取った。

 帰還してから、報告と装備の手入れで夕食が遅くなった。食堂を出る頃には構内を行き交う者も減り、水場の窓には二人の姿と暗い外が重なっていた。

「明日も、あの道かね」

 ガイルが靴を擦りながら言った。

「まだ聞いてない」

「工兵の連中、しばらく掛かりそうな顔だったな」

「あれだけ削れてたからな」

 レイブンは靴を置き、汚れた水を流した。

 路面の下にできた空洞が、目を閉じると浮かんだ。上だけ見ていれば、まだ通れるように見えた場所だった。

 朝の時点で通行を止めてよかったと思う。同時に、自分たちの立っていた位置を思い返すと、工兵が杭を打った線の意味がよく分かった。

「次は、最初からもう少し離れて止める」

 レイブンが言うと、ガイルも手を止めた。

「ああ。寄って確かめる前にな」

 二人はそれ以上話さず、残った泥を落とした。

 部屋へ戻ると、レイブンは窓を少し開けた。湿った空気が流れ、廊下から聞こえる声が遠くなった。

 荷物の整理を終えて椅子へ座ったとき、扉が鳴った。

「どうぞ」

 顔を出したのはエリシアだった。

「戻っていたのね」

「ああ。少し前に」

 彼女は室内へ入ると、机の脇に立て掛けられた装備へ目を向けた。

「道路を調べに行ったって聞いたわ」

「雨で崩れてた。工兵に引き継いできたところだ」

 レイブンは立ち上がり、椅子を勧めた。エリシアは礼を言って腰を下ろし、彼は寝台の端へ座った。

「誰か怪我を?」

「今日は出てない。昨日、荷車が落ちかけたらしいが、そっちも無事だった」

「よかった」

 エリシアが肩の力を抜いた。

 レイブンは、集落への迂回路を探したことを話した。石垣の家と、門の外へ出たがる鶏。粉を仕入れに行けずにいた若いパン屋と、帰りに買ったパンのこと。

「ガイル、気に入っていたでしょう」

「分かるのか」

「食べ物の話をするときは、いつも真剣だもの」

 レイブンは笑った。

「今日も真剣だった」

 エリシアも笑い、それから机へ目を向けた。朝まで便箋が置かれていたところには、閉じた手帳だけがあった。

「手紙は出した?」

「ああ。朝に」

「そう」

「短いものだがな」

「届いたら、きっと喜ぶわ」

 レイブンは空いた机の上を見た。

「返事を待たせるような書き方になってなければいいが」

 エリシアは少し首を傾けた。

「何て書いたの?」

「急いで答えを出さなくていい。また帰ったら話を聞かせてくれって」

「それなら、大丈夫じゃないかしら」

 彼女は膝の上で手を重ねた。

「ルナも、すぐには答えられないときは、そう言えると思う」

 レイブンは頷いた。

 窓の外で車両の音がした。二人は一度そちらへ顔を向け、灯りが通り過ぎるのを見送った。

 同じ頃、クロウ家でも食器を片づける音がしていた。

 ルナは洗い終えた皿を拭き、棚へ収めていた。隣でセレナが最後の器をすすいでいる。

「今日は、早く休みなさいね」

「分かってる」

「昨日もそう言っていたわ」

 ルナは布巾を持つ手を止め、母を見た。

「……そんなに遅くまで起きてないよ」

 セレナは言い返さず、濡れた手を拭いた。

「温かいもの、飲む?」

「うん。ありがとう」

 二人分のカップを運び、食卓へ座った。

 ヴァルターは少し離れた席で書類を読んでいたが、ルナが腰を下ろすと顔を上げた。

「兄とは、よく話せたか」

「うん」

 ルナはカップを両手で包んだ。

「今まで聞いてなかったことも、話してくれた」

「そうか」

 父は書類を伏せた。それ以上を促さずに待っている。

 ルナは湯気を見つめた。

 兄が軍にいることは、ずっと知っていた。家へ帰ってくれば話もしたし、無事な姿を見て安心もした。けれど、その間にどんな日々があったのかは、知らないことの方が多かった。

「私、兄さんができるなら、自分もできるって思ってたのかもしれない」

 口にしてから、少し違う気がした。

「ううん。それだけじゃないんだけど……うまく言えない」

 ヴァルターは頷いた。

「今、言葉になったところまででいい」

 ルナは顔を上げた。

「父さんにも、また聞いていい?」

「何をだ」

「軍に入ったときのこと。兄さんに聞いたのと、同じこともあると思う」

「構わん」

 ヴァルターは伏せた書類を脇へ寄せた。

「ただ、今夜全部となると、母さんに叱られるな」

「私を理由にしないでください」

 セレナが答え、ルナは思わず笑った。

 カップを空にしてから、ルナは自分の部屋へ戻った。

 机の上には、昨夜開いたままにしていた紙があった。書いては消した跡が残り、いちばん上の一文だけが、濃く残っている。

『私は、何がしたいのか』

 椅子を引いて座り、鉛筆を持った。

 しばらく考えてから、その下へ書く。

『兄さんと同じことができるかではなく、自分が何をしたいのか』

 読み返すと、まだ広すぎる問いに思えた。

 それでも、昨夜より少しだけ、考える場所がはっきりした。

 ルナは紙を捨てず、机の端へ寄せた。明日、父に聞きたいことを別の紙へ書き留める。

 階下から、母が灯りを落としていく音が聞こえた。

 ルナも鉛筆を置いた。書きかけの紙の上に重しを載せ、今夜は机の灯りを消した。

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