第113話 軍曹ではなく兄として、妹へ語る戦場の記憶
第113話 軍曹ではなく兄として、妹へ語る戦場の記憶
帝政歴347年11月14日、午後6時47分。
帝国領中央部、クロウ家本邸。
夕暮れを過ぎたクロウ家本邸には、夕食の支度をする穏やかな物音が広がっていた。厨房からは煮込み料理の香りが漂い、廊下の壁に取り付けられた照明が、磨かれた木製の床を柔らかく照らしている。屋敷の外では冷たい北風が庭木を揺らしていたが、厚い石壁に囲まれた室内には暖炉の熱が行き渡り、冬の訪れを感じさせる夜の寒さを遠ざけていた。
玄関の扉が開くと、従者のファニータが顔を上げた。
「お帰りなさいませ、レイブン様」
「ただいま、ファニータ」
レイブン・S・クロウ軍曹は外套の襟を緩め、肩に掛けていた鞄を持ち直した。朝から続いた軍務の疲労が身体に残っていたものの、帰宅したことで少しだけ緊張が解けたらしく、黒い猫耳がゆっくりと動いた。
「旦那様は書斎にいらっしゃいます。奥様は夕食の準備を確認されております」
「エリシアとルナは?」
「お二人とも、ルナ様のお部屋にいらっしゃいます。午後からずっとお話をされているようです」
「……そっか」
レイブンは小さく頷いた。
エリシアから届いていた連絡によれば、ルナは志願兵学校の教育課程だけでなく、軍のさまざまな職種についても調べ始めているという。歩兵、工兵、通信、衛生、兵站、偵察、航空、海軍。兄がどのような仕事をしてきたのか知りたいという思いから、軍全体の仕組みにまで関心が広がっているらしかった。
それは喜ばしい変化だった。
しかし、レイブンには一つ気掛かりなことがあった。
妹は、軍の仕事を知ろうとしている。
では、自分は妹に何を伝えるべきなのだろうか。
戦場の恐ろしさだけを語れば、また志願を諦めさせようとしていると思われるかもしれない。反対に、仲間との絆や任務の達成感だけを語れば、軍人という仕事の危険な側面を隠すことになる。
どちらも、妹に対して誠実ではない。
「……まずは父さんだな」
レイブンは鞄の内側に収めていた厚手の封筒を確かめた。
「ファニータ、父さんに会ってくる」
「承知いたしました。お茶をお持ちいたしましょうか?」
「ありがとう。でも、少し話すだけだから大丈夫」
ファニータは一礼し、厨房へ戻っていった。
レイブンは階段を上がり、父の書斎へ向かった。
午後6時53分。
クロウ家本邸、ヴァルターの書斎。
「父さん、入っていい?」
「ああ、レイブンか。入れ」
扉を開けると、ヴァルター・A・クロウは机に向かって書類を整理していた。卓上には志願兵学校の教育課程表と訓練評価記録が積まれ、その横には古い革表紙の手帳が置かれている。
右腕の義肢は肘から先を露出させた状態で、指先の細かな機構が紙をめくる動きに合わせて静かに作動していた。
「お帰り。基地の会議はどうだった?」
「旧貨物駅の調査は継続。第二保管区画の開扉は、専門班の安全評価が終わるまで見送りになった」
「そうか」
「それと、《境界晶》について父さんへの正式な聞き取りが入ると思う。保管状況も確認したいそうだ」
ヴァルターは静かに頷いた。
「分かった。今度は隠さず、必要なことをすべて話すつもりだ」
「……うん」
レイブンは少し間を置き、鞄から封筒を取り出した。
「それから、人事局から父さん宛ての書類を預かってきた」
「人事局?」
ヴァルターが顔を上げた。
レイブンは封筒を差し出した。
「……ごめん。帰りの汽車で、中身を少しだけ見た」
ヴァルターは、受け取った封筒へ視線を落とした。
「少しだけ?」
「……俺宛ての通知も入ってたから」
「なるほど」
父は封筒を開き、最初の書類を取り出した。
その表情が、ゆっくりと変わっていった。
「……兵器開発局か」
「知ってた?」
「異動の打診はあった。だが、正式な発令がここまで早いとは思わなかった」
ヴァルターは書類を机へ置き、しばらく考え込んだ。
「特殊兵装研究部門……異界由来物質の調査と、魔力機構の技術評価。確かに、私の経験を必要としている部署ではあるな」
レイブンは、父の義肢へ視線を向けた。
「……教官を辞めることになるんだね」
「そうだな」
ヴァルターは、少しだけ寂しそうに微笑んだ。
「長いこと訓練生たちを見てきたから、名残惜しくないと言えば嘘になる」
彼は、机の上に積まれた教育記録へ目を向けた。
「だが、今の帝国軍には、異界に関する知識が必要だ。私が経験したことが誰かの命を守る役に立つなら、断る理由はない」
レイブンは頷いた。
「……父さんらしいね」
「そうか?」
「うん」
ヴァルターは、次の書類を取り出した。
そして、息子の名前を見つけた瞬間、眉を上げた。
「……レイブン・S・クロウ軍曹?」
レイブンは、少しだけ目を逸らした。
「……それが、俺宛ての方」
ヴァルターは、ゆっくりと読み進めた。
やがて、机へ書類を置いた。
「……お前が後任か」
「……らしい」
父と息子の間に、短い沈黙が流れた。
先に口を開いたのは、ヴァルターだった。
「どう思った?」
レイブンは、正直に答えた。
「……驚いた。今も驚いてる」
「だろうな」
「それに、俺が教官でいいのかって思った」
ヴァルターは息子を見つめた。
「なぜだ?」
レイブンは、少し考えた。
「……昨日、ルナと喧嘩した」
「知っている」
「俺は、軍曹として正しいことを言おうとした。でも、妹が何を考えてるのか、ちゃんと聞いてなかった」
彼は、自分の手を見つめた。
「そんな俺が、これから軍に入る人たちを教えていいのかなって」
ヴァルターは、しばらく黙っていた。
そして、静かに椅子から立ち上がった。
「レイブン」
「……うん」
「教官は、最初から完璧な人間である必要はない」
レイブンは顔を上げた。
「必要なのは、自分の間違いを認め、学び続けることだ」
ヴァルターは続けた。
「訓練生に厳しく接することはある。危険な行動を見逃せば、その者が戦場で命を落とすかもしれないからな。だが、厳しさと感情的に追い詰めることは違う」
レイブンは、静かに聞いていた。
「教官が怒鳴れば、訓練生は従うかもしれない。しかし、従わせることと理解させることは同じではない」
その言葉に、レイブンは深く頷いた。
「……昨日の俺は、理解させるんじゃなくて、従わせようとしてた」
「そうだな」
ヴァルターは、あえて否定しなかった。
「だが、お前はそれに気づいた。なら、次は同じことを繰り返さなければいい」
レイブンは、静かに息を吐いた。
「……うん」
ヴァルターは、机の上の人事通知を見つめた。
「もっとも、正式な配置にあたっては、教育担当者としての研修や引継ぎが必要になるだろう。実戦経験が豊富だからといって、いきなりすべてを任せるわけにはいかん」
「……それは助かる」
レイブンは苦笑した。
ヴァルターも小さく笑った。
「それに、ルナのこともある。もしあの子が志願兵学校へ入るなら、兄妹関係が訓練評価へ影響しないよう、学校側と調整する必要がある」
「……俺も、それを考えてた」
「なら、そこは正式に相談しよう」
レイブンは頷いた。
父は書類を封筒へ戻し、机の端へ置いた。
「さて、軍の話はここまでだ」
「……え?」
「お前、まだルナとちゃんと話していないんだろう?」
レイブンは、少しだけ肩を落とした。
「……うん」
ヴァルターは、穏やかに微笑んだ。
「なら、行ってこい」
レイブンは、静かに頷いた。
「……ありがとう、父さん」
午後7時16分。
クロウ家本邸、二階廊下。
レイブンは、ルナの部屋へ向かって歩いていた。
廊下には柔らかな照明がともり、窓の外では庭園の木々が夜風に揺れている。
妹の部屋が近づくにつれ、足取りが少しずつ重くなった。
昨夜、ここまで来た時も同じだった。
扉の向こうにいる妹へ何を言えばいいのか分からず、結局、短い挨拶だけを残して立ち去った。
今夜は、同じことを繰り返したくなかった。
レイブンは扉の前で立ち止まり、軽く息を整えた。
その時、扉が内側から開いた。
「あら、レイブン?」
現れたのはエリシアだった。
金髪を肩の後ろへ流し、普段よりも柔らかな表情を浮かべている。共和国軍の制服ではなく、クロウ家で過ごすための落ち着いた色合いの私服を着ていた。
「……エリシア」
「お帰りなさい。会議は終わったの?」
「うん。さっき帰ってきた」
エリシアは、レイブンの顔を見つめた。
「……少し疲れているわね」
「まあ、いろいろあって」
「何かあったの?」
「父さんの異動が決まった。それと、俺も志願兵学校の教官になるらしい」
エリシアは目を丸くした。
「……あなたが?」
「うん」
彼女は少し考えた後、口元を緩めた。
「……似合うと思うわ」
「本当に?」
「ええ。ただし、訓練生を質問攻めにしなければ、ね」
レイブンは、思わず苦笑した。
「……まだ言う?」
「もちろん」
エリシアは、楽しそうに微笑んだ。
その笑顔を見て、レイブンの緊張が少しだけ和らいだ。
「……ルナは?」
「部屋にいるわ。今日はずっと軍について調べていたの」
「……そっか」
「歩兵だけじゃなくて、衛生や通信、舟艇部隊のことまで興味を持っていたわ」
レイブンは、少し驚いた。
「……そんなに?」
「ええ。分からない言葉が出るたび、ノートへ書き込んでいたの」
エリシアは、少しだけ声を落とした。
「それと、あなたの手紙を何度も読んでいたわ」
レイブンは、顔を赤くした。
「……そうなんだ」
「ええ」
エリシアは、穏やかに微笑んだ。
「ルナちゃん、あなたと話したがっていると思う」
レイブンは、扉へ視線を向けた。
しかし、すぐには動かなかった。
「……何から話せばいいのかな」
エリシアは、少し考えた。
「まずは、昨日のことを謝ればいいと思うわ」
「……うん」
「それから、ルナちゃんの話を聞いてあげて」
レイブンは頷いた。
「……分かった」
エリシアは、彼の手をそっと握った。
「大丈夫。あなたは、ルナちゃんのお兄さんなんだから」
その言葉に、レイブンは静かに微笑んだ。
「……ありがとう」
午後7時23分。
クロウ家本邸、二階廊下。
レイブンとエリシアは、いったん居間へ向かおうと歩き始めた。
エリシアがルナの気持ちについて、もう少し詳しく話してくれるという。
しかし、数歩進んだところで、背後から小さな声が聞こえた。
「……兄さん」
レイブンの足が止まった。
ゆっくりと振り返る。
そこには、ルナが立っていた。
黒い髪と猫耳。
少し大きめの室内着。
両手には、何度も読み返したらしい便箋が握られている。
ルナは、兄の顔を見上げていた。
金色と黒色のオッドアイが、妹を見つめ返す。
しばらく、二人とも何も言わなかった。
先に口を開いたのは、ルナだった。
「……兄さん」
「……うん」
「……あのね」
ルナは、便箋を胸元へ抱いた。
そして、深く頭を下げた。
「……ごめんなさい!」
レイブンは、目を見開いた。
ルナは、顔を上げないまま続けた。
「昨日、大嫌いなんて言って……ごめんなさい」
声が震えていた。
「本当は、そんなこと思ってないの。兄さんのこと、嫌いになんかなってない」
レイブンは、静かに息を呑んだ。
ルナは、涙を堪えながら続けた。
「……でも、すごく悔しかった。私だってちゃんと考えてたつもりだったのに、兄さんに何も分かってないって言われたみたいで」
彼女は、ようやく顔を上げた。
「……だから、ひどいこと言っちゃった」
レイブンは、妹の顔を見つめた。
昨夜、怒りと悲しみで歪んでいた表情。
今は、泣きそうになりながらも、自分の言葉で謝ろうとしている。
その姿を見た瞬間、レイブンの胸が締めつけられた。
「……ルナ」
彼は、ゆっくりと妹へ近づいた。
そして、目線を合わせるように少し膝を曲げた。
「……俺の方こそ、ごめん」
ルナの耳が、ぴくりと動いた。
「……え?」
レイブンは、静かに続けた。
「昨日は、言い過ぎた」
彼は、妹の目をまっすぐに見た。
「ルナが軍に入りたいって言った時、俺は怖くなったんだ」
ルナは、黙って聞いていた。
「お前が戦場へ行くかもしれないって考えたら、どうしても冷静でいられなかった」
レイブンは、ゆっくりと息を吐いた。
「だから、志願理由を聞くふりをして、実際は諦めさせようとしてた」
ルナの瞳が揺れた。
「……兄さん」
「……最低だったと思う」
レイブンは、静かに首を横へ振った。
「軍曹として正しいことを言おうとして、兄として一番大事なことを忘れてた」
彼は、妹の手をそっと取った。
「……お前の話を、ちゃんと聞くこと」
ルナの目元に涙が浮かんだ。
レイブンは続けた。
「俺は、お前が何を考えてるのか、全部分かってるつもりだった。でも、全然分かってなかった」
ルナは、唇を噛んだ。
「……兄さん」
「……うん」
「……私、兄さんに認めてほしかった」
レイブンは、静かに頷いた。
「……うん」
「もう子供じゃないって。自分で考えられるって」
彼女の声が、少しだけ強くなった。
「でも、本当はまだ分からないことばっかりで……」
ルナは、涙を拭った。
「……だから、知りたかったの」
レイブンは、妹の手を握り返した。
「……そうだったんだね」
ルナは、小さく頷いた。
「……うん」
しばらくの沈黙が流れた。
そして、レイブンはゆっくりと両腕を広げた。
「……おいで」
ルナは、少し驚いたように顔を上げた。
しかし、次の瞬間、兄の胸へ飛び込んだ。
「……兄さんっ」
レイブンは、妹をしっかりと抱きしめた。
ルナの肩が、小さく震えている。
「……ごめんなさい……」
「……もういいよ」
レイブンは、妹の頭を優しく撫でた。
「俺も、ごめん」
ルナは、兄の外套を強く握った。
「……大嫌いなんて、嘘だから」
「……うん」
「……本当は、大好きだから」
レイブンは、静かに微笑んだ。
「……知ってるよ」
ルナは、顔を上げた。
「……本当?」
「うん」
レイブンは、妹の涙を指で拭った。
「俺も、ルナのことが大好きだよ」
その言葉を聞いた瞬間、ルナは再び泣き始めた。
今度は、悲しみではなかった。
胸の奥に溜まっていた不安が、ようやく消えていくような涙だった。
エリシアは、少し離れた場所で二人を見守っていた。
そして、静かに微笑んだ。
「……よかった」
午後7時41分。
クロウ家本邸、ルナの自室。
ルナは兄の手を引き、自分の部屋へ招き入れた。
机の上には、志願兵学校の募集案内と、何冊ものノートが広げられている。
レイブンは、その量に少し驚いた。
「……ずいぶん調べたんだね」
ルナは、少し照れくさそうに笑った。
「……エリシアお姉ちゃんに、いろいろ教えてもらった」
レイブンは、机の上の資料へ視線を向けた。
歩兵教育。
衛生課程。
通信技術。
工兵基礎。
舟艇運用。
どの項目にも、ルナの手書きのメモが添えられている。
彼は、静かに微笑んだ。
「……頑張ってるんだな」
ルナは、少しだけ胸を張った。
「……うん」
そして、兄を見上げた。
「……兄さん」
「何?」
「……軍のこと、教えてほしい」
レイブンは、静かに頷いた。
「もちろん」
ルナは、少し迷ってから続けた。
「……でも、今度は教官みたいにじゃなくて」
レイブンは、思わず苦笑した。
「……分かってる」
彼は、妹の隣の椅子へ腰を下ろした。
「今日は軍曹じゃなくて、兄さんとして話すよ」
ルナは、嬉しそうに微笑んだ。
「……うん!」
その頃、廊下ではエリシアが静かに扉を閉めようとしていた。
しかし、階段の方からヴァルターとセレナが歩いてくるのが見えた。
「エリシアさん」
セレナが小声で尋ねた。
「ルナとレイブンは?」
エリシアは、穏やかに微笑んだ。
「仲直りできました」
セレナは、安堵したように胸へ手を当てた。
「……よかった」
ヴァルターも静かに頷いた。
「そうか」
エリシアは、少しだけ扉の方へ視線を向けた。
「今、ルナちゃんがレイブンに軍のことを聞いているんです」
ヴァルターは、少し驚いたように眉を上げた。
「……ほう」
エリシアは、小さく微笑んだ。
「よかったら、少しだけ聞いてみませんか?」
セレナは、夫と顔を見合わせた。
そして、静かに頷いた。
三人は、足音を立てないようにルナの部屋の前へ近づいた。
扉は完全には閉まっておらず、室内から兄妹の声が聞こえていた。
午後7時52分。
ルナの自室。
「……兄さん」
「うん?」
「……戦場って、本当に怖い?」
レイブンは、すぐには答えなかった。
妹は、まっすぐに彼を見つめている。
昨日までなら、彼は迷わず「怖い」と答え、だから軍へ入るべきではないと続けていたかもしれない。
しかし、今夜は違った。
レイブンは、静かに頷いた。
「……怖いよ」
ルナの耳が、少しだけ伏せられた。
「……兄さんも?」
「もちろん」
レイブンは、穏やかに続けた。
「怖くない人間なんて、ほとんどいないと思う」
ルナは、少し驚いた。
「……でも、兄さんって、戦場ではすごく強いんでしょう?」
レイブンは、苦笑した。
「……強いかどうかは分からないよ」
彼は、自分の手を見つめた。
「ただ、怖くても動かなきゃいけない時があるんだ」
ルナは、静かに聞いていた。
「仲間が怪我をしていたり、誰かが助けを求めていたり。そういう時は、怖いからって何もしないわけにはいかない」
レイブンは、少しだけ目を伏せた。
「でも、怖さが消えるわけじゃない」
ルナは、小さく頷いた。
「……そうなんだ」
レイブンは、しばらく考えた。
「……ルナ。塹壕の話をしようか」
妹は顔を上げた。
「……塹壕?」
「うん。第一次世界大戦の北部戦線で、俺とガイルが一緒に戦っていた時の話」
ルナは、ノートを開いた。
「……聞きたい」
レイブンは、静かに息を吐いた。
そして、ゆっくりと語り始めた。
北部戦線の塹壕は、雨が降ると泥の海になった。
地面は深く掘り下げられ、土嚢と木材で補強されていたが、長く続いた砲撃で壁は崩れ、排水溝は土砂で埋まっていた。
兵士たちは膝まで泥に浸かりながら移動し、濡れた軍服のまま何時間も警戒を続けた。
食事は冷め、飲み水は不足し、眠れる場所も限られていた。
何より恐ろしかったのは、いつ砲撃が始まるか分からないことだった。
「……砲弾って、落ちる前に音がするんだ」
レイブンは、静かに説明した。
「遠くから飛んでくる音が聞こえることもある。でも、全部が聞こえるわけじゃない。気づいた時には、もう近くで爆発してることもある」
ルナは、鉛筆を握ったまま聞いていた。
「……逃げられないの?」
「逃げられる時もある。でも、塹壕の中じゃ動ける場所が限られてる」
レイブンは、窓の外へ視線を向けた。
「砲撃が始まると、みんな頭を低くして、壁に身体を寄せる。土が降ってきて、耳が痛くなって、何も聞こえなくなることもある」
ルナは、少しだけ顔を曇らせた。
「……怖いね」
「うん」
レイブンは頷いた。
「怖かった」
彼は、少しだけ微笑んだ。
「でも、ガイルがいた」
ルナは、顔を上げた。
「……ガイルさん?」
「うん」
レイブンは、懐かしそうに続けた。
「ガイルは、どんな時でも冗談を言うんだ。砲撃が始まっても、泥だらけになっても、何か面白いことを言おうとする」
ルナは、小さく笑った。
「……ガイルさんらしい」
「そうだね」
レイブンも微笑んだ。
「でも、あいつが冗談を言うのは、ただふざけてるからじゃない」
ルナは、首を傾げた。
「……どういうこと?」
レイブンは、少しだけ表情を引き締めた。
「……ガイルの父さんは、戦死してるんだ」
ルナの動きが止まった。
「……え?」
レイブンは、静かに続けた。
「今日、ガイルから聞いた。あいつも子供の頃、軍人だった父さんの帰りをずっと待ってたんだって」
ルナは、黙って聞いていた。
「新聞に軍の損害が載るたび、父さんが無事か心配してた。軍の車が家の前に止まるだけで、悪い知らせじゃないかって怖くなったらしい」
ルナの表情が、少しずつ変わっていった。
それは、彼女自身が経験したこととよく似ていた。
「……私と、同じ」
レイブンは、静かに頷いた。
「……うん」
彼は続けた。
「ガイルは、父さんが帰ってこなくなった後、ずっと思ってたんだって。自分がもっと強かったら、助けられたんじゃないかって」
ルナは、唇を噛んだ。
「……そんな」
「子供だったガイルに、できることなんてなかった。でも、そういう理屈じゃないんだって」
レイブンは、妹を見つめた。
「……ルナ。俺、昨日まで分かってなかった」
ルナは、静かに顔を上げた。
「……何が?」
「待ってる側の気持ち」
レイブンは、ゆっくりと息を吐いた。
「俺は戦場で怖い思いをしてきた。でも、家で待ってるお前たちも、同じくらい怖かったんだよな」
ルナの目元に涙が浮かんだ。
「……うん」
レイブンは、静かに続けた。
「俺が帰ってこなかったらどうしようって、ずっと考えてたんだろ?」
ルナは、小さく頷いた。
「……うん」
彼女の声が震えた。
「……毎日、怖かった」
レイブンは、何も言わずに聞いていた。
「ニュースで戦死者が出たって聞くたび、兄さんじゃないかって思った。軍の人が家に来ると、悪い知らせなんじゃないかって……」
ルナは、涙を拭った。
「……でも、兄さんには言えなかった」
レイブンは、静かに頷いた。
「……どうして?」
「……だって、兄さんの方が大変だと思ったから」
その言葉に、レイブンの胸が締めつけられた。
ルナは続けた。
「私が怖いって言ったら、兄さんがもっと心配すると思った。だから、帰ってきた時は笑って迎えようって決めてた」
レイブンは、ゆっくりと目を閉じた。
妹が笑って出迎えてくれることを、当たり前だと思っていた。
しかし、その笑顔の裏には、何度も眠れない夜を過ごした少女の努力があった。
「……ありがとう、ルナ」
レイブンは、静かに言った。
ルナは、驚いたように顔を上げた。
「……え?」
「俺が帰ってくる場所を、守ってくれてたんだね」
ルナの涙が、頬を伝った。
「……兄さん」
レイブンは、妹の頭を優しく撫でた。
廊下では、セレナが口元へ手を当てていた。
ヴァルターも、静かに目を伏せている。
エリシアは、二人の様子を見守りながら、穏やかに微笑んだ。
午後8時18分。
ルナは、涙を拭ってから再びノートを開いた。
「……兄さん」
「うん?」
「……もっと聞いてもいい?」
レイブンは、少しだけ考えた。
「……いいよ」
ルナは、真剣な表情で尋ねた。
「……戦場で、一番怖かったことって何?」
レイブンは、すぐには答えなかった。
塹壕での砲撃。
市街地での銃撃戦。
異界軍との戦闘。
仲間の負傷。
思い出せば、恐ろしい出来事はいくらでもあった。
しかし、その中でも忘れられない光景があった。
「……〈ヘリオス〉の爆風かな」
ルナは、首を傾げた。
「……ヘリオス?」
レイブンは、静かに頷いた。
「共和国軍の偵察小隊と共同で行動していた時に、使われた兵器だ」
彼は、少しだけ目を伏せた。
「……あの時は、本当に死ぬかと思った」
ルナは、鉛筆を置いた。
レイブンは、ゆっくりと話し始めた。
共和国軍の偵察小隊と合流した時、戦場は既に混乱していた。
帝国軍と共和国軍は本来、敵対する立場だった。
しかし、異界軍の攻勢によって双方が大きな損害を受け、現場では互いに協力しなければ生き残れない状況が生まれていた。
レイブンたちは、共和国軍の偵察小隊と一時的に行動を共にし、負傷者の救出と後方への撤収を進めていた。
その最中、〈ヘリオス〉による攻撃が発生した。
レイブンは、静かに息を吐いた。
「……最初は、光が見えた」
ルナは、黙って聞いていた。
「遠くで、空が一瞬だけ明るくなったんだ。昼間なのに、もっと明るい光が見えた」
レイブンは、ゆっくりと手を動かした。
「その直後、地面が揺れた。何かが身体を押し潰すみたいな圧力が来て、次の瞬間には吹き飛ばされてた」
ルナの耳が、少しだけ伏せられた。
「……兄さんも?」
「うん」
レイブンは、静かに頷いた。
「遮蔽物の陰にいたけど、それでも衝撃はすごかった。耳鳴りがして、しばらく何も聞こえなかった」
彼は、自分の胸元へ手を当てた。
「息を吸おうとしても、うまく吸えない。身体が痛くて、どこを怪我したのかも分からなかった」
ルナは、少しだけ顔を青くした。
「……それで、どうしたの?」
「……仲間を探した」
レイブンは、静かに答えた。
「自分が生きてるって分かったら、次は周りに誰がいるのか確かめなきゃいけなかった」
彼は、目を伏せた。
「でも、すぐには見つからなかった」
ルナは、何も言わなかった。
「砂埃がひどくて、視界がほとんどなかった。通信も混乱してて、誰の声なのか分からない」
レイブンは、静かに続けた。
「ようやく仲間を見つけても、返事がない人がいた」
ルナは、息を呑んだ。
「……亡くなったの?」
レイブンは、少しだけ間を置いた。
「……うん」
その一言が、室内に重く響いた。
ルナは、ゆっくりと目を伏せた。
レイブンは、静かに続けた。
「……昨日まで普通に話してた人だった」
彼は、窓の外へ視線を向けた。
「一緒に食事をして、くだらない話をして、任務が終わったら何をするかって話してた」
ルナは、黙って聞いていた。
「でも、次の日には、もう話せなくなってた」
レイブンは、静かに息を吐いた。
「……それが、一番つらかった」
ルナの目元に涙が浮かんだ。
「……兄さん」
レイブンは、少しだけ微笑んだ。
「……大丈夫」
しかし、その笑顔には寂しさがあった。
「戦場では、そういうことがある」
ルナは、静かに首を横へ振った。
「……でも、慣れないよね」
レイブンは、妹を見つめた。
そして、ゆっくりと頷いた。
「……慣れない」
彼は、静かに続けた。
「慣れたくもない」
ルナは、少し驚いた。
「……どうして?」
「仲間が死んでも何も感じなくなったら、俺はもう、俺じゃなくなる気がするから」
その言葉に、ルナは何も言えなかった。
レイブンは、自分の手を見つめた。
「……だから、覚えてる」
彼は、静かに続けた。
「一緒に戦った人の名前も、声も、最後に話したことも」
ルナは、涙を拭った。
「……忘れないために?」
「うん」
レイブンは頷いた。
「それが、俺にできることの一つだと思ってる」
午後8時47分。
ルナの部屋には、静かな時間が流れていた。
レイブンは、机の上のノートへ視線を向けた。
そこには、ルナが今日調べた軍の職種が並んでいる。
歩兵。
衛生。
通信。
工兵。
兵站。
舟艇。
どれも、軍を支える大切な仕事だった。
「……ルナ」
「……何?」
「軍って、戦う人だけでできてるわけじゃないんだ」
ルナは、静かに頷いた。
「……エリシアお姉ちゃんにも聞いた」
レイブンは微笑んだ。
「そうか」
彼は続けた。
「俺たちが前線で戦えるのは、弾薬や食料を運んでくれる人がいるからだ。怪我をした時に治療してくれる人がいる。通信を繋いでくれる人も、道路や橋を直してくれる人もいる」
ルナは、真剣に聞いていた。
「……その人たちも、戦争では危険なの?」
「うん。前線から離れていても、危険な任務はある」
レイブンは、静かに続けた。
「でも、危険の種類も、求められる能力も違う。だから、自分に何が向いているのかを考えることが大切なんだ」
ルナは、ノートへ視線を落とした。
「……私、まだ決められない」
レイブンは、穏やかに微笑んだ。
「……今すぐ決めなくていいよ」
ルナは、驚いたように顔を上げた。
「……いいの?」
「うん」
レイブンは、静かに頷いた。
「昨日は、答えを急がせすぎた」
彼は、妹の手元のノートを指差した。
「まずは、いろんな仕事を知ればいい。学校の見学も、相談も、できることから始めればいい」
ルナは、少しだけ微笑んだ。
「……兄さん、怒らない?」
「怒らないよ」
レイブンは、少しだけ苦笑した。
「ただし、今度は行き先をちゃんと伝えてから出かけること」
ルナは、顔を赤くした。
「……うん」
「昨日は、本当に心配したんだから」
「……ごめんなさい」
レイブンは、妹の頭を優しく撫でた。
「……分かればいいよ」
ルナは、少しだけ笑った。
そして、再び真剣な表情になった。
「……兄さん」
「うん?」
「……私、やっぱり軍に入りたい」
レイブンは、静かに妹を見つめた。
ルナは続けた。
「でも、兄さんと同じことがしたいだけじゃない」
彼女は、ノートを胸元へ抱いた。
「……私にできることを探したい」
レイブンは、ゆっくりと頷いた。
「……うん」
「それで、ちゃんと考えてから決めたい」
レイブンは、穏やかに微笑んだ。
「……それでいいと思う」
ルナの表情が明るくなった。
「……本当?」
「うん」
レイブンは、妹の目をまっすぐに見た。
「俺は、お前がどんな道を選んでも、ちゃんと話を聞くよ」
ルナは、嬉しそうに微笑んだ。
「……ありがとう、兄さん」
午後9時03分。
廊下では、ヴァルターとセレナが静かに顔を見合わせていた。
セレナの目元には、薄く涙が浮かんでいる。
「……あの子たち、ちゃんと話せたのね」
ヴァルターは、穏やかに頷いた。
「ああ」
エリシアも、静かに微笑んだ。
「レイブン、頑張りましたね」
ヴァルターは、小さく笑った。
「まだまだ未熟だがな」
セレナは、夫の腕を軽く叩いた。
「あなた、そんな言い方しなくても」
「はは、冗談だ」
ヴァルターは、静かに続けた。
「だが、あいつも少しずつ成長している」
エリシアは、扉の向こうから聞こえる兄妹の声へ耳を傾けた。
ルナが何かを質問し、レイブンが丁寧に答えている。
時折、二人の笑い声も聞こえてきた。
それは、昨日までの険悪な空気とはまったく違っていた。
エリシアは、静かに息を吐いた。
「……よかった」
午後9時17分。
ルナの自室。
レイブンは、妹のノートを閉じた。
「……そろそろ夕食だね」
ルナは、少し名残惜しそうに頷いた。
「……うん」
レイブンは立ち上がった。
その時、ルナが彼の袖を掴んだ。
「……兄さん」
「何?」
ルナは、少しだけ迷った。
そして、小さく尋ねた。
「……私が軍に入ったら、兄さんは嫌?」
レイブンは、しばらく黙っていた。
正直に言えば、今でも怖かった。
妹が軍へ入れば、いつか危険な任務に就くかもしれない。
自分と同じように、戦場で誰かを失うかもしれない。
それを考えると、胸が苦しくなる。
しかし、だからといって妹の人生を決める権利はない。
レイブンは、静かに首を横へ振った。
「……嫌じゃないよ」
ルナは、顔を上げた。
「……本当?」
「うん」
レイブンは、穏やかに続けた。
「心配はすると思う。きっと、今よりもっと」
ルナは、静かに聞いていた。
「でも、それはお前が軍に入るからじゃない」
彼は、妹の頭を優しく撫でた。
「……お前が、大切な妹だからだよ」
ルナの目元に、再び涙が浮かんだ。
「……兄さん」
レイブンは、少しだけ微笑んだ。
「だから、もし軍に入るなら、ちゃんと学んで、ちゃんと考えて、自分の命も大切にしてほしい」
ルナは、強く頷いた。
「……うん!」
レイブンは、妹へ手を差し出した。
「……行こうか」
ルナは、その手を握った。
「……うん」
二人は、並んで部屋を出た。
廊下には、ヴァルターとセレナ、そしてエリシアが待っていた。
ルナは、少し驚いたように目を丸くした。
「……父さん? 母さん? お姉ちゃん?」
セレナは、優しく微笑んだ。
「夕食の時間よ」
ルナは、少し照れくさそうに笑った。
「……うん」
ヴァルターは、レイブンへ視線を向けた。
「……話せたか?」
レイブンは、静かに頷いた。
「……うん」
父は、穏やかに微笑んだ。
「そうか」
エリシアは、レイブンの隣へ歩み寄った。
「……よかったわね」
レイブンは、少しだけ照れくさそうに笑った。
「……うん。ありがとう」
ルナは、兄とエリシアを交互に見つめた。
そして、嬉しそうに微笑んだ。
昨日まで、兄との間にあった距離。
それは、完全になくなったわけではない。
しかし、今夜、二人は初めて互いの気持ちを正面から伝え合った。
兄は、妹の不安を知った。
妹は、兄が戦場で何を見て、何を感じてきたのかを知った。
そして、互いを大切に思う気持ちは、以前よりも少しだけ深くなっていた。
帝政歴347年11月14日、午後9時24分。
クロウ家本邸、二階廊下。
レイブン・S・クロウは、妹ルナ・V・クロウと初めて本当の意味で向き合った。
軍曹としての正しさを押しつけるのではなく、兄として彼女の話を聞き、自分の経験を伝えた。
ガイルが語った戦死した父の記憶。
北部戦線の塹壕で感じた恐怖。
共和国軍偵察小隊との共闘。
〈ヘリオス〉の爆風。
そして、仲間を失った悲しみ。
それらは、ルナにとって軍人という仕事の現実を知るための、大切な話となった。
同時に、レイブン自身にとっても、自分が何を守ろうとして戦ってきたのかを見つめ直す時間となった。
そして、父ヴァルターから受け継ぐことになった教官という新たな役割を前に、レイブンは一つの決意を固めていた。
これから出会う志願兵たちにも、ただ戦い方を教えるだけではなく、命の重さと、帰る場所の大切さを伝えていこうと。
それが、戦場を生き抜いた自分にできる、次の仕事なのだと信じて。




