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黒鴉年代記 ~戦火を超えて、受け継がれる意志~  作者: @12
第二部:戦火の終焉と新たなる時代 第一章 交わる軍旗、影と戦乙女
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第110話 兄の背中を追いかけて、少女が泣いた夜

第110話 兄の背中を追いかけて、少女が泣いた夜


帝政歴347年11月12日、午後9時49分。

帝国領中央部、クロウ家本邸。

ルナ・V・クロウは、自室の扉を閉めた瞬間、背中から力が抜けるのを感じた。

階下では、まだ家族が話しているのだろう。厚い扉と廊下を隔てているため声までは聞こえなかったが、つい先ほどまで居間で兄と言い争っていたことが、遠い昔の出来事のように思えた。

胸が苦しかった。

喉の奥には何かが詰まったような感覚があり、呼吸を整えようとしても、うまく息を吸えなかった。

「……大嫌い」

自分で口にした言葉を、もう一度呟いてみた。

けれど、その言葉は少しも本当らしく聞こえなかった。

ルナは扉に背中を預け、ゆっくりと床へ座り込んだ。膝を抱えると、我慢していた涙が頬を伝った。

「……違うのに」

兄が嫌いになったわけではなかった。

むしろ、その反対だった。

誰よりも大好きで、誰よりも尊敬していて、いつか自分もあんなふうになりたいと思っていた。

それなのに、どうしてあんなことを言ってしまったのだろう。

レイブンの驚いた顔が、頭から離れなかった。

自分が「大嫌い」と叫んだ瞬間、兄の金色と黒色の瞳が、ほんの一瞬だけ揺れた。

あの表情を思い出すたび、胸が締めつけられる。

「……兄さんの、ばか」

ルナは膝に顔を埋めた。

「……私も、ばか」

涙が止まらなかった。

幼い頃から、兄と本気で喧嘩をしたことはなかった。

意見が違うことはあったし、些細なことで拗ねたこともある。けれど、最後にはいつも兄が笑って頭を撫でてくれた。

レイブンは、ルナにとって頼れる兄だった。

転んで膝を擦りむいた時も、雷が怖くて眠れなかった夜も、知らない場所で迷子になりかけた時も、最後には必ず兄が手を差し伸べてくれた。

だから、今日もそうなると思っていた。

軍に入りたいと打ち明ければ、驚かれるかもしれない。

心配されるかもしれない。

それでも、最後には応援してくれると信じていた。

ところが、兄は違った。

何をしたいのか。

なぜ軍なのか。

誰と戦うつもりなのか。

質問を重ねられるたび、自分の考えが少しずつ崩れていくような気がした。

答えたいのに、答えられなかった。

自分では十分に考えていたつもりだったのに、言葉にしようとすると、どれも曖昧になってしまった。

そして、兄は言った。

戦場を知らないから、そんな簡単に軍へ入りたいと言えるのだと。

「……知らないよ」

ルナは、涙で濡れた顔を上げた。

「……そんなの、知ってるわけないじゃん」

彼女は戦場を知らなかった。

砲弾が落ちる音も、銃弾が身体の近くを通り過ぎる恐怖も、目の前で人が倒れる瞬間も、経験したことがない。

それは事実だった。

しかし、だからといって、戦争が怖くなかったわけではない。

兄が戦場へ行ってから、ルナは何度も眠れない夜を過ごした。

帝国軍が大きな損害を受けたという報道が流れるたび、新聞を読む父の表情を確かめた。

母が何気なく窓の外を見つめているだけで、悪い知らせが届いたのではないかと不安になった。

軍から届く封書を見るたび、胸が冷たくなった。

兄からの手紙なら嬉しかった。

けれど、もし違ったら。

もし、帰還を知らせる手紙ではなかったら。

そんな想像を、何度繰り返したか分からなかった。

ルナは、自分の両手を見つめた。

小さな頃、兄の手は自分より少し大きいだけだった。

それがいつの間にか、武器を扱い、仲間を守り、戦場で戦う軍人の手になっていた。

兄は成長していた。

自分の知らない場所で、知らない経験を積み重ねていた。

帰ってくるたび、少しずつ大人になっていた。

その変化が嬉しい反面、寂しかった。

自分だけが、昔と同じ場所に取り残されているような気がしたからだ。

午後10時06分。

ルナはようやく立ち上がり、机の前へ向かった。

そこには、数日前から書き始めたノートが置かれていた。

表紙には《帝国軍志願兵学校について》と書かれている。

最初にこのノートを作った時、ルナは胸が高鳴るのを感じていた。

兄が通った学校。

兄が仲間と出会い、軍人としての基礎を学んだ場所。

そこへ自分も通えるかもしれない。

そう考えるだけで、少しだけ兄に近づける気がした。

ルナはノートを開いた。

入学資格、試験内容、教育課程、必要な書類。調べたことが、丁寧な字で書き込まれている。

帝国軍への志願資格は、満十六歳から認められていた。

今年六月に十六歳になった自分にも、その資格はある。

けれど、資格があることと、軍人になる覚悟があることは違う。

その違いを、兄は確かめようとしたのだろう。

今なら、少しだけ分かる。

しかし、分かったからといって、傷ついた気持ちが消えるわけではなかった。

「……最初から、ちゃんと聞いてくれればよかったのに」

ルナは、ノートの端を指でなぞった。

兄に認めてほしかった。

自分も、もう子供ではないのだと。

自分の進路くらい、自分で考えられるのだと。

その気持ちは本当だった。

しかし、志願理由の欄には何も書かれていない。

ルナは鉛筆を手に取った。

《兄さんみたいになりたいから》

そう書きかけて、手が止まった。

兄の言葉が蘇った。

軍は、自分が何者かを証明するためだけに入る場所ではない。

ルナは唇を噛んだ。

「……じゃあ、私は何になりたいの?」

自分に問い掛けても、答えは出なかった。

兄のように強くなりたい。

困っている人を助けたい。

誰かに必要とされたい。

それは確かな気持ちだった。

けれど、そのどれもが、まだ具体的な進路には結びついていなかった。

ルナは鉛筆を置き、窓の外を見つめた。

雨が降っていた。

庭園の木々が夜風に揺れ、窓ガラスを伝う水滴が室内の灯りを歪ませている。

ふと、幼い頃の記憶が蘇った。

まだ兄が軍へ志願する前、二人で庭園を走り回っていた日のことだった。

ルナは兄の後を追いかけ、何度も転びそうになった。

レイブンは、そのたびに足を止めて振り返ってくれた。

「兄さん、待って!」

そう叫ぶと、兄は笑いながら手を差し伸べた。

「ほら、ルナ。こっちだよ」

あの頃は、兄の背中を追いかければよかった。

いつか追いつけると思っていた。

しかし、今の兄は遠い戦場へ行き、自分の知らない人々と出会い、自分には理解できない経験を積んでいる。

ルナは、窓ガラスに映る自分の姿を見た。

「……いつまで、待ってればいいの?」

誰に向けたわけでもない問いだった。

午後10時54分。

扉を叩く音が聞こえた。

「ルナ。父さんだ」

ルナは、慌てて涙を拭った。

父ヴァルターの声だった。

最初は、誰とも話したくないと思った。

兄と喧嘩したばかりで、父にまで軍への志願を否定されたら、今度こそ立ち直れない気がしたからだ。

しかし、父は無理に入ってこなかった。

扉の向こうから、ただ静かに話し掛けてきた。

昔の話をしたいのだという。

ルナは、しばらく迷った末に扉を開いた。

父は、いつもの穏やかな表情で立っていた。

右腕の義肢が廊下の灯りを受けて鈍く輝いている。

ルナは、その腕を見つめた。

父もまた、戦場で大きなものを失った人だった。

それでも、父は軍人であることをやめなかった。

訓練教官として多くの志願兵を育て、今も軍務に関わっている。

そんな父なら、自分の気持ちを理解してくれるかもしれない。

ルナは、父を部屋へ招き入れた。

父は机の上のノートに気づいたが、勝手に開こうとはしなかった。

その小さな配慮が、今のルナには嬉しかった。

やがて、父は静かに尋ねた。

「お前は、兄さんを助けたいんだな」

ルナは頷いた。

「……うん」

その瞬間、胸の奥にあったものが少しだけ軽くなった。

兄に伝えようとして、うまく言葉にできなかった気持ち。

それを父は、短い一言で受け止めてくれた。

父は、軍への志願を否定しなかった。

ただし、兄と同じ人生を歩む必要はないとも言った。

レイブンはレイブン。

ルナはルナ。

その言葉は、彼女の胸に静かに残った。

父が部屋を出た後も、ルナはしばらく扉を見つめていた。

軍に入ることを許されたわけではない。

けれど、自分の進路を考えること自体は否定されなかった。

それだけで、少し救われた気がした。

午後11時34分。

ルナは再び机に向かった。

ノートを開き、志願理由の欄を見つめる。

父の言葉を思い返した。

兄の後を追う必要はない。

自分にしかできないことを探せばいい。

ルナは、鉛筆を握った。

《自分の目で、軍のことを知りたい》

そう書いた。

それは、まだ志願理由ではなかった。

しかし、今の自分にとっては、嘘のない言葉だった。

ルナは、しばらくその文字を見つめていた。

軍人になりたいという気持ちは変わらない。

けれど、何をする軍人になりたいのかは分からない。

ならば、まず知ればいい。

兄が通った学校を見て、どんな教育を受けるのかを確かめる。

そこで、自分が本当にやりたいことを探す。

そう考えると、少しだけ前へ進める気がした。

ルナは、机の引き出しから帝国軍志願兵学校の募集案内を取り出した。

以前、進路資料として取り寄せたものだった。

学校の所在地、教育課程、見学や相談に関する案内が記されている。

彼女は、案内書を広げた。

地図を確認し、中央市街地駅から学校方面へ向かう経路を指でなぞった。

兄に頼まず、自分で行ってみたい。

その考えが浮かんだ瞬間、胸が少し高鳴った。

しかし、すぐに別の気持ちが湧き上がった。

父と母に相談するべきではないか。

学校の見学には、事前の手続きが必要かもしれない。

何より、無断で家を出れば心配を掛ける。

ルナは、案内書を閉じた。

「……明日、相談しよう」

そう呟いて、ベッドへ向かった。

けれど、眠ろうとすると兄の顔が浮かんだ。

もし明日の朝、また軍への志願について尋ねられたら。

また、志願理由を説明できなかったら。

また、子供扱いされたら。

そう考えると、胸が苦しくなった。

ルナは毛布を引き寄せ、横向きになった。

「……今は、兄さんと話したくない」

その言葉を口にすると、また涙が滲んだ。

本当は話したかった。

謝りたかった。

大嫌いなんて思っていないと伝えたかった。

けれど、兄の顔を見るのが怖かった。

あんなことを言ってしまった自分を、兄はどう思っているのだろう。

もう以前のように笑ってくれないのではないか。

そんな不安が、心の中で膨らんでいった。

午後11時58分。

廊下から、かすかな足音が聞こえた。

ルナは、毛布の中で目を開けた。

足音は、部屋の前で止まった。

誰なのか、すぐに分かった。

兄だった。

ルナの心臓が、少し速く動き始めた。

扉を叩いてほしい。

でも、今は会いたくない。

謝りたい。

でも、何と言えばいいのか分からない。

相反する気持ちが、胸の中でぶつかり合った。

やがて、扉の向こうから小さな声が聞こえた。

「……ルナ」

兄の声だった。

ルナは、思わず身体を起こしかけた。

しかし、声を出すことができなかった。

少しの沈黙の後、兄は静かに言った。

「……おやすみ」

足音が遠ざかっていく。

ルナは、毛布を握りしめた。

「……兄さん」

小さく呼んだ。

しかし、その声は扉の向こうへ届かなかった。

彼女は、しばらく扉を見つめていた。

そして、また涙を流した。

帝政歴347年11月13日、午前5時51分。

クロウ家本邸、ルナの自室。

窓の外が、薄く明るくなり始めていた。

ルナは、ほとんど眠れないまま朝を迎えた。

昨夜の喧嘩。

父との会話。

兄が扉の前まで来てくれたこと。

それらが頭の中で何度も繰り返されていた。

彼女はベッドから起き上がり、鏡の前に立った。

目元は少し腫れていた。

黒い猫耳も、いつもより元気がない。

「……ひどい顔」

ルナは、苦笑した。

洗面台で顔を洗い、冷たい水で目元を冷やした。

鏡に映る自分を見つめながら、昨夜の父の言葉を思い返す。

自分にしかできないことを探せばいい。

そのためには、まず動かなければならない。

ルナは机へ向かった。

帝国軍志願兵学校の募集案内を手に取る。

そして、しばらく考えた。

父に相談する。

母にも話す。

兄にも、もう一度説明する。

それが正しい順番なのだろう。

しかし、兄の顔を思い浮かべると、胸が苦しくなった。

また何も答えられなかったら。

また、自分の考えが足りないと言われたら。

ルナは、唇を噛んだ。

「……先に、自分で確かめたい」

それは、決意であると同時に、逃げでもあった。

兄と向き合うことから逃げたい。

でも、自分の将来からは逃げたくない。

その二つの気持ちが、彼女の中で複雑に絡み合っていた。

午前6時17分。

ルナは、動きやすい服へ着替えた。

小さな鞄には、財布と身分証明書、水筒、募集案内、そしてノートを入れた。

鏡の前で帽子を整え、もう一度自分の姿を確認する。

心臓は、まだ落ち着かなかった。

無断で家を出ることが正しいとは思っていない。

家族を心配させることも分かっていた。

それでも、今朝は誰にも会わずに出発したかった。

兄に止められるのが怖かった。

母に心配されれば、決心が鈍る気がした。

父に相談すれば、きっと丁寧に話を聞いてくれる。

けれど、それではまた、自分で決められなかったように感じてしまう。

ルナは机に向かい、小さな紙を取り出した。

《少し外へ出てきます。心配しないでください。ルナ》

書き終えた文字を見つめた。

行き先を書くべきだ。

そう思った。

しかし、もし志願兵学校へ行くと書けば、兄が追いかけてくるかもしれない。

そう考えると、どうしても書き足せなかった。

ルナは、ペンを置いた。

「……ごめんなさい」

誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。

午前6時34分。

ルナは、自室の扉を静かに開いた。

廊下には、まだ誰の姿もなかった。

彼女は、兄の部屋の前で足を止めた。

扉の向こうには、レイブンがいる。

きっと、まだ眠っているのだろう。

ルナは、そっと扉へ手を伸ばした。

叩けば、兄は起きてくれるかもしれない。

そして、昨日のことを謝れるかもしれない。

しかし、手は途中で止まった。

兄がどんな顔をするのか、怖かった。

怒っているかもしれない。

呆れているかもしれない。

あるいは、いつも通り優しく笑ってくれるかもしれない。

どの可能性も、今のルナには受け止める勇気がなかった。

彼女は、ゆっくりと手を下ろした。

「……行ってきます、兄さん」

小さく呟き、廊下を歩き始めた。

午前6時41分。

クロウ家本邸、裏口。

庭園には、昨夜の雨が残っていた。

石畳は濡れ、植え込みの葉には水滴が光っている。

ルナは裏口の扉を開き、冷たい朝の空気を吸い込んだ。

屋敷の外へ出ること自体は、珍しいことではない。

買い物にも行くし、友人と出掛けることもある。

しかし、家族に行き先を告げずに出るのは、初めてだった。

彼女は一度だけ振り返った。

見慣れた屋敷。

幼い頃から暮らしてきた家。

兄と遊び、父に叱られ、母に抱きしめてもらった場所。

そのすべてが、朝の静けさの中にあった。

ルナは、鞄の肩紐を握り直した。

「……私、ちゃんと考えるから」

その言葉は、まだ眠っている兄へ向けたものだった。

自分が軍へ入りたい理由を。

何をしたいのかを。

どんな人生を歩みたいのかを。

全部、自分の言葉で説明できるようになりたい。

兄に認めてもらうためだけではない。

自分自身が納得するために。

ルナは、ゆっくりと歩き始めた。

門を抜け、屋敷の敷地を出る。

朝の道には、まだ人影が少なかった。

遠くから、始発列車の走る音が聞こえてきた。

ルナは、その音がする方向へ顔を向けた。

胸の奥には、まだ不安が残っていた。

兄に謝れなかった後悔も、家族へ心配を掛ける罪悪感も、消えてはいなかった。

それでも、彼女は歩き続けた。

兄の背中を追いかけるためだけではなく、自分の進む道を見つけるために。

帝政歴347年11月13日、午前6時43分。

ルナ・V・クロウは、家族に行き先を告げないまま、クロウ家本邸を後にした。

兄への憧れ。

戦争中に抱え続けた恐怖。

自分だけが取り残されているような寂しさ。

大人として認められたいという願い。

そして、兄を傷つけてしまった後悔。

それらの感情を抱えたまま、十六歳の少女は初めて一人で、自分の将来を確かめるための一歩を踏み出した。

しかし、彼女はまだ知らなかった。

この日の朝、兄レイブンもまた、妹を傷つけたことを悔やみながら、彼女に謝るための言葉を探していたことを。

互いを大切に思う兄妹は、ほんの少しの勇気が足りなかったために、再びすれ違ってしまったのだった。

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