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黒鴉年代記 ~戦火を超えて、受け継がれる意志~  作者: @12
第二部:戦火の終焉と新たなる時代 第一章 交わる軍旗、影と戦乙女
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第109話 不器用な兄の手紙、戦乙女が預かった約束

第109話 不器用な兄の手紙、戦乙女が預かった約束


帝政歴347年11月13日、午後7時38分。

帝国領中央部、中央市街地駅前、喫茶店《銀の小鳥》。

日が沈んだ中央市街地には、冷たい夜風が吹いていた。駅前の街灯が石畳を照らし、仕事を終えた人々が家路を急ぐ中、小さな喫茶店《銀の小鳥》の窓からは暖かな橙色の光が漏れていた。

朝から多くの客で賑わっていた店内も、今はすっかり静かになっている。壁に掛けられた時計の針は午後七時半を過ぎ、店員たちは閉店の準備を始めていた。

窓際の席には、二人の女性が座っていた。

一人は共和国軍少尉、エリシア・L・ヴォルハラム。

もう一人は、クロウ家の長女ルナ・V・クロウだった。

もっとも、ルナは既に眠っていた。

金髪のエリシアの肩へ頭を預け、規則正しい寝息を立てている。黒い猫耳は力なく伏せられ、目元には泣いた跡が残っていた。

エリシアは少女を起こさないように姿勢を保ちながら、窓の外へ視線を向けた。

レイブンから最後に連絡があったのは、午後六時過ぎだった。

志願兵学校から市街地へ戻る途中、基地司令部から急ぎの連絡が入り、旧貨物駅の調査に関する報告を求められたという。父ヴァルターが異界から持ち帰った《境界晶》についても、専門機関への説明が必要になっていた。

レイブンは一度、ルナを連れて先に帰宅してほしいと伝えてきた。

しかし、エリシアはそれを断った。

ルナが兄と会って話すつもりで待っている以上、できる限りその約束を守りたかったからだ。

もちろん、店側にも事情を説明し、閉店時刻までには退店すると伝えてある。

「……もう少しだけよ、ルナちゃん」

エリシアは、眠る少女の髪をそっと整えた。

その時、店の扉に取り付けられた鈴が鳴った。

冷たい外気とともに、一人の青年が店内へ入ってきた。

黒い髪と猫耳。

金色と黒色のオッドアイ。

帝国軍の野戦服に防寒用の外套を羽織った、レイブン・S・クロウ軍曹だった。

彼は店内を見渡し、窓際の席にいる二人を見つけた瞬間、足を止めた。

「……エリシア」

エリシアは静かに顔を上げた。

「お疲れさま、レイブン」

レイブンは、眠っている妹へ視線を向けた。

「……ルナは?」

「大丈夫。泣き疲れて眠ってしまったの」

レイブンは、ゆっくりと近づいた。

ルナの目元に残る涙の跡を見て、胸の奥が締めつけられた。

「……こんなになるまで、泣いてたのか」

エリシアは、小さく頷いた。

「ええ」

レイブンは、向かいの椅子へ腰を下ろした。

「……ごめん。こんな時間になって」

「仕事だったんでしょう?」

「うん。でも、もっと早く来るべきだった」

エリシアは、静かに首を横へ振った。

「その話は後でしましょう。まずは、ルナちゃんのことよ」

レイブンは、妹の寝顔を見つめたまま頷いた。

午後7時46分。

店員が新しい紅茶を運んでくると、エリシアはレイブンへ向き直った。

「レイブン。昨日、ルナちゃんと何があったのかは、本人から聞いたわ」

「……そう」

「あなたが軍への志願理由を尋ねたことも、途中で言い争いになったことも」

レイブンは、視線を落とした。

「……俺が悪かった」

エリシアは、すぐには答えなかった。

そして、少しだけ厳しい表情になった。

「それだけで終わらせるつもり?」

レイブンは顔を上げた。

「……え?」

「反省しているのは分かるわ。でも、何が悪かったのかを理解しないと、また同じことになるでしょう?」

彼は、言葉を詰まらせた。

エリシアは静かに続けた。

「ルナちゃんが軍に入りたいと言った時、あなたは何を考えたの?」

レイブンは、しばらく黙っていた。

やがて、低い声で答えた。

「……怖かった」

エリシアは、黙って耳を傾けた。

「ルナが軍に入って、戦場へ行くかもしれないと思ったら……どうしても、嫌だった」

彼は、眠る妹へ視線を向けた。

「俺は、戦争で人が死ぬところを何度も見た。仲間を失うこともあった。だから、ルナにはそんな思いをしてほしくなかった」

エリシアは頷いた。

「その気持ちは分かるわ」

レイブンは、静かに息を吐いた。

「でも、だからって、あんな言い方をする必要はなかった」

「ええ。その通りね」

エリシアは、はっきりと言った。

「あなたはルナちゃんの話を聞く前に、志願理由の正しさを判断しようとしたの」

レイブンは、目を伏せた。

「……うん」

「それに、質問の仕方もよくなかったわ」

「……質問?」

「何をしたいのか、誰と戦うのか、軍で何ができるのか。そういうことを考えるのは大切よ。でも、まだ進路を決めようとしている十六歳の女の子に、一度に答えを求めるのは厳しすぎる」

レイブンは、静かに頷いた。

エリシアは続けた。

「軍の志願面接でも、あそこまで追い詰める必要はないでしょう?」

その言葉に、レイブンは苦笑した。

「……ないね」

「だったら、どうして妹にはしたの?」

レイブンは、しばらく考えた。

「……妹だから」

エリシアは、静かに彼を見つめた。

「……そうね」

レイブンは続けた。

「部下なら、危険な任務でも必要なら送り出す。仲間なら、本人の判断を尊重することもできる」

彼は、自分の両手を見つめた。

「でも、ルナが同じことをするって考えたら、冷静でいられなかった」

エリシアは、ゆっくりと頷いた。

「それが、あなたの本音なのね」

「……うん」

彼女は少しだけ表情を和らげた。

「だったら、最初からそう言えばよかったのよ」

レイブンは、顔を上げた。

「……え?」

「軍は危険だから、妹が志願するのが怖い。そう伝えればよかったの」

エリシアは、眠るルナの頭がずれないように肩を支えた。

「でも、あなたはそれを言わずに、ルナちゃんの考えが足りないという話にしてしまった」

レイブンは、深く息を吐いた。

「……その通りだ」

エリシアは、少しだけ微笑んだ。

「それに、レイブン」

「……何?」

「あなた、ルナちゃんが何を考えているのか、全部分かっているつもりだったでしょう?」

レイブンは、返事ができなかった。

エリシアは続けた。

「でも、ルナちゃんはもう十六歳よ。あなたが戦場にいる間も、家で何も考えずに待っていたわけじゃない」

彼女は、静かに言った。

「あなたが帰ってこないかもしれないという恐怖を、ずっと抱えていたの」

レイブンは、妹の顔を見た。

ルナの小さな手は、眠っている間もエリシアの外套を握っていた。

「……俺、知らなかった」

「ええ」

「……全然、気づいてなかった」

レイブンは、ゆっくりと目を閉じた。

戦場では、敵の動きや仲間の異変に気づけるよう訓練してきた。

わずかな音や視線の変化から危険を察知し、判断を下してきた。

しかし、家族の心の変化には気づけなかった。

軍曹として部下の安全を守ることを考えていた男が、兄として妹の不安を見落としていた。

「……情けないな」

レイブンは、静かに呟いた。

エリシアは首を横へ振った。

「情けないというより、不器用なのよ」

「……不器用?」

「ええ。戦場では冷静なのに、大切な人のことになると急に余裕がなくなる」

レイブンは、少しだけ苦笑した。

「……否定できない」

「でしょう?」

エリシアも小さく笑った。

しかし、すぐに真剣な表情へ戻った。

「それと、もう一つ」

「……まだあるの?」

「もちろん」

レイブンは、思わず背筋を伸ばした。

エリシアは、人差し指を立てた。

「ルナちゃんが無断で家を出たことは、確かによくなかったわ。でも、それを理由に昨日の喧嘩まで全部ルナちゃんの責任にしてはいけない」

「……分かってる」

「本当に?」

「……うん」

エリシアは、しばらく彼を見つめた。

そして、ようやく穏やかに微笑んだ。

「なら、よし」

レイブンは、少しだけ肩の力を抜いた。

「……エリシアって、時々父さんより厳しいよね」

「そう?」

「うん」

エリシアは、涼しい顔で紅茶を飲んだ。

「将来のことを考えれば、今のうちに慣れておいた方がいいかもしれないわね」

レイブンは、一瞬だけ意味を考えた。

そして、彼女の胸元に隠された銀色の婚約記念タグを思い出し、頬を赤くした。

「……それ、どういう意味?」

「さあ?」

エリシアは、楽しそうに微笑んだ。

午後8時03分。

喫茶店の店員が、閉店まであと少しであることを知らせに来た。

エリシアは礼を述べ、会計の準備を始めた。

レイブンは、眠るルナを見つめた。

「……起こした方がいいかな」

「少し待って」

エリシアは、そっとルナの肩へ手を添えた。

「ルナちゃん、そろそろ帰りましょう」

少女は、わずかに身じろぎした。

「……ん……」

しかし、すぐに再び眠ってしまった。

レイブンは、小さく息を吐いた。

「……相当疲れてるんだね」

「ええ。今日はずっと、いろいろ考えていたから」

エリシアは、少しだけ声を落とした。

「レイブン。仲直りのことなんだけど」

「……うん」

「私が間に入るわ」

レイブンは顔を上げた。

「……いいの?」

「ええ。ルナちゃんも、あなたに謝りたいと思っているみたいだから」

レイブンは、驚いたように妹を見た。

「……ルナが?」

「本当は大嫌いなんて思っていないって、言っていたわ」

その言葉を聞いた瞬間、レイブンの表情が変わった。

胸の奥にあった重いものが、少しだけ軽くなった気がした。

「……そっか」

エリシアは、静かに続けた。

「ただし、仲直りをするなら、あなたもちゃんと自分の言葉で謝ること」

「……うん」

「それから、ルナちゃんの志願についても、頭ごなしに否定しないこと」

レイブンは、少し考えた。

「……分かった」

エリシアは、満足そうに頷いた。

「じゃあ、私が仲裁役を引き受けるわ」

レイブンは、静かに微笑んだ。

「……ありがとう」

彼女は、少しだけ首を傾げた。

「その代わり、私の意見もちゃんと聞いてもらうからね?」

「……もちろん」

エリシアは微笑んだ。

「約束よ」

レイブンは頷いた。

「……約束する」

午後8時19分。

喫茶店《銀の小鳥》前。

店を出ると、夜の市街地には冷たい風が吹いていた。

レイブンは、眠っているルナを背負っていた。

妹の両腕が、彼の肩へゆるく回されている。

幼い頃、遊び疲れたルナを背負って帰ったことが何度もあった。

しかし、十六歳になった妹をこうして背負うのは、久しぶりだった。

「……重くなったな」

レイブンは、小さく呟いた。

隣を歩くエリシアが微笑んだ。

「成長した証拠よ」

「……そうだね」

レイブンは、妹がずり落ちないように背負い直した。

ルナは眠ったまま、兄の肩へ頬を寄せた。

「……兄、さん……」

かすかな寝言だった。

レイブンは、足を止めた。

「……ルナ?」

返事はなかった。

ただ、妹の手が少しだけ強く彼の外套を握った。

レイブンは、静かに微笑んだ。

「……ごめんな」

その言葉は、眠る妹に届いたかどうか分からなかった。

エリシアは、何も言わずに二人を見守っていた。

午後9時07分。

クロウ家本邸。

玄関の扉が開くと、セレナとヴァルターが出迎えた。

「……レイブン!」

セレナは、息子の背中で眠るルナを見て安堵したように息を吐いた。

「……よかった」

ヴァルターも、静かに頷いた。

「無事だったか」

「うん。エリシアが見つけてくれた」

レイブンは、隣のエリシアを見た。

「本当に助かったよ」

エリシアは微笑んだ。

「偶然、駅で会っただけよ」

セレナは、エリシアの手を取った。

「ありがとう、エリシアさん」

「いえ。ルナちゃんが無事でよかったです」

ヴァルターは、レイブンへ視線を向けた。

「……話はできたか?」

レイブンは、少しだけ首を横へ振った。

「まだ。眠っちゃったから」

「そうか」

父は頷いた。

「なら、今夜は休ませてやれ」

「……うん」

レイブンは、妹を背負ったまま階段へ向かった。

午後9時16分。

クロウ家本邸、ルナの自室。

レイブンは、妹をゆっくりとベッドへ寝かせた。

靴を脱がせ、毛布を掛ける。

ルナは、眠ったまま小さく身じろぎした。

「……兄さん……」

レイブンは、ベッドの横に膝をついた。

「……ここにいるよ」

ルナは、返事をしなかった。

ただ、安心したように寝息を立てている。

レイブンは、妹の髪をそっと撫でた。

昨夜、あんなに強い言葉をぶつけ合った。

それでも、今こうして眠る妹を見ると、幼い頃と何も変わらないように思えた。

「……本当に、ごめん」

レイブンは、静かに呟いた。

その時、扉の外からエリシアが顔を覗かせた。

「……レイブン」

彼は振り返った。

「……うん?」

「基地から連絡が来ているわ」

レイブンは、表情を引き締めた。

「……内容は?」

「明朝、旧貨物駅の調査に関する緊急会議が開かれるそうよ。あなたにも出席要請が来ている」

レイブンは、静かに息を吐いた。

「……そっか」

エリシアは、少しだけ申し訳なさそうに続けた。

「境界晶についての報告も、正式に求められているみたい」

レイブンは、眠る妹を見つめた。

「……明日、基地に戻らないといけないんだね」

「ええ」

しばらくの沈黙が流れた。

レイブンは、ゆっくりと立ち上がった。

「……分かった」

そして、机の上に置かれたノートへ視線を向けた。

《帝国軍志願兵学校について》

その表紙を見た瞬間、彼は何かを決めたように頷いた。

「……エリシア」

「何?」

「一つ、お願いしてもいい?」

エリシアは、穏やかに微笑んだ。

「もちろん」

レイブンは、少しだけ照れくさそうに言った。

「……ルナの話を、もう少し聞いてやってほしい」

エリシアは、静かに頷いた。

「ええ」

「俺がいない間に、軍に入りたい理由を、ルナ自身の言葉で聞いてほしいんだ」

エリシアは、彼の目を見つめた。

「……分かったわ」

レイブンは、静かに微笑んだ。

「ありがとう」

午後10時04分。

クロウ家本邸、レイブンの自室。

レイブンは机に向かい、一枚の便箋を広げていた。

窓の外には、雲の切れ間から月が見えている。

彼はペンを握ったまま、しばらく考えていた。

ルナに何を伝えればいいのか。

どう書けば、自分の気持ちが伝わるのか。

戦場での報告書なら、何度も書いてきた。

作戦命令書も、部隊への指示も、必要な内容を簡潔にまとめることができる。

しかし、妹への手紙となると、途端に言葉が出てこなかった。

「……難しいな」

レイブンは、小さく呟いた。

最初に書いた文章を読み返す。

《昨日は言い過ぎた。すまなかった》

彼は、少し考えてから、その下へ言葉を書き足した。

《軍に入りたいという気持ちを、最初から否定するつもりはなかった》

しかし、書いているうちに、言い訳のように思えてきた。

レイブンは、静かに息を吐いた。

「……違うな」

新しい便箋を取り出した。

そして、今度は余計な説明をせず、伝えたいことだけを書くことにした。

父と母には、自分から話をする。

軍への志願について、頭ごなしに反対しないように。

そして、エリシアに話を聞いてもらうこと。

彼女が納得するなら、自分はもう口を挟まないこと。

レイブンは、ゆっくりと文字を書き進めた。

午後10時26分。

書き終えた手紙を封筒へ入れたレイブンは、再びルナの部屋へ向かった。

扉を静かに開くと、妹はまだ眠っていた。

彼は机の上に封筒を置いた。

表には、短く《ルナへ》と書かれている。

レイブンは、しばらくその封筒を見つめた。

そして、眠る妹へ視線を向けた。

「……お前が何を選んでも、俺は兄さんだからな」

小さく呟いた。

返事はなかった。

レイブンは、静かに部屋を出た。

帝政歴347年11月14日、午前7時18分。

クロウ家本邸、ルナの自室。

朝日がカーテンの隙間から差し込んでいた。

ルナは、ゆっくりと目を開けた。

「……ん……」

しばらく天井を見つめていたが、やがて自分の部屋にいることへ気づいた。

「……あれ?」

昨日の記憶が、少しずつ戻ってくる。

駅でエリシアと出会ったこと。

喫茶店で兄との喧嘩について話したこと。

何度も泣いて、最後には眠くなってしまったこと。

しかし、その後のことは覚えていなかった。

「……どうやって帰ってきたんだろう」

ルナは、ベッドから身体を起こした。

その時、机の上に置かれた封筒が目に入った。

《ルナへ》

見慣れた筆跡だった。

ルナの猫耳が、ぴくりと動いた。

「……兄さん?」

彼女はベッドから降り、机へ近づいた。

封筒を手に取り、ゆっくりと開く。

中には、一枚の便箋が入っていた。

ルナは、静かに読み始めた。

そこには、兄らしい少し硬い文字で、こう書かれていた。

《ルナへ》

《昨日は言い過ぎた。すまなかった。》

《父と母には俺から説得しておく。》

《俺は、基地に戻らないといけなくなった。》

《だが、志願理由をエリシアに言いなさい。》

《エリシアが納得するなら、俺はもう何も言わん。》

《お前が自分で決めたことなら、最後まで考えて進め。》

《レイブン》

ルナは、しばらく便箋を見つめていた。

兄らしい文章だった。

優しい言葉を並べるのが苦手で、必要なことを短く伝えようとする。

少し命令口調で、最後まで不器用だった。

それでも、そこには確かに兄の気持ちが込められていた。

「……兄さん」

ルナの声が、少しだけ震えた。

昨日まで、兄は軍への志願に反対していると思っていた。

自分の気持ちを分かってくれないのだと、怒っていた。

しかし、手紙にはこう書かれている。

《エリシアが納得するなら、俺はもう何も言わん》

それは、兄が自分の考えを改め、妹の意思を尊重しようとしている証拠だった。

ルナは、便箋を胸に抱いた。

「……ばか」

小さく呟いた。

「……こんなの、ずるいよ」

目元に涙が浮かんだ。

ルナは、袖でそれを拭った。

「……ちゃんと、謝りたかったのに」

兄は、もう基地へ戻ってしまった。

直接謝ることも、ありがとうと言うこともできなかった。

しかし、手紙は残されている。

ルナは、もう一度便箋を開いた。

そして、最後の一文を見つめた。

《お前が自分で決めたことなら、最後まで考えて進め》

ルナは、静かに頷いた。

「……うん」

午前7時42分。

クロウ家本邸、一階居間。

ルナが階段を下りると、セレナとヴァルターが朝食の準備をしていた。

エリシアも、客間から出てきたところだった。

「おはよう、ルナちゃん」

エリシアが微笑んだ。

ルナは、少しだけ照れくさそうに答えた。

「……おはよう、お姉ちゃん」

セレナが、娘へ近づいた。

「ルナ、よく眠れた?」

「……うん」

母は、優しく微笑んだ。

「昨日は心配したわ」

ルナは、顔を伏せた。

「……ごめんなさい」

セレナは、娘の頭を撫でた。

「無事でよかった」

ヴァルターも頷いた。

「今度から、外出する時は行き先を伝えろよ」

「……うん」

ルナは、少しだけ顔を上げた。

「……父さん」

「何だ?」

「兄さんから、手紙をもらった」

ヴァルターは、静かに頷いた。

「そうか」

「……父さんと母さんには、兄さんが説得するって」

ヴァルターは、少しだけ苦笑した。

「……あいつらしいな」

セレナも微笑んだ。

「でも、私たちは最初から、あなたの話を聞くつもりだったのよ」

ルナは、驚いたように顔を上げた。

「……本当?」

「ええ」

セレナは、穏やかに続けた。

「軍に入るかどうかは、あなたの人生に関わる大切なことだから」

ルナは、静かに頷いた。

そして、エリシアへ視線を向けた。

「……お姉ちゃん」

「なあに?」

「……私の話、聞いてくれる?」

エリシアは、穏やかに微笑んだ。

「もちろん」

ルナは、手紙を胸元へ抱いた。

「……兄さんに、ちゃんと説明できるようになりたい」

エリシアは、静かに頷いた。

「ええ。一緒に考えましょう」

ルナは、少しだけ笑った。

その笑顔は、昨日よりもずっと穏やかだった。

午前8時16分。

帝国軍中央特別編成基地。

その頃、レイブンは基地の会議室へ向かっていた。

旧貨物駅の第二保管区画に関する調査報告と、父が異界から持ち帰った《境界晶》についての説明が待っている。

彼は、廊下を歩きながら通信端末を確認した。

ルナからの連絡は、まだない。

しかし、今朝は昨日ほど不安ではなかった。

エリシアが、妹の話を聞いてくれる。

父と母も、きっと理解してくれる。

そして、ルナ自身が自分の進路を考えてくれるはずだった。

レイブンは、静かに息を吐いた。

「……頑張れよ、ルナ」

小さく呟いた。

それは、兄としての願いだった。

妹がどんな道を選んでも、自分の意思で歩いていけるように。

帝政歴347年11月14日。

レイブン・S・クロウは、妹ルナとの喧嘩について深く反省し、エリシア・L・ヴォルハラムへ仲直りの仲裁を託した。

そして、基地へ戻る前に、妹へ一通の手紙を残した。

そこには、軍への志願を頭ごなしに否定しないことと、エリシアが志願理由に納得するなら、兄としてそれ以上口を挟まないという約束が記されていた。

翌朝、その手紙を読んだルナは、兄の不器用な優しさを知った。

兄妹の仲直りは、まだ終わっていない。

しかし、互いの気持ちを理解するための一歩は、確かに踏み出されていた。

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