第107話 父の説得、姿を消した妹
第107話 父の説得、姿を消した妹
帝政歴347年11月12日、午後10時47分。
帝国領中央部、クロウ家本邸。
夜のクロウ家本邸には、冷たい雨音が響いていた。窓ガラスを伝う雨粒が暖炉の光を反射し、廊下に敷かれた絨毯には淡い影が落ちている。普段なら家族の笑い声が聞こえる時間だったが、今夜の屋敷は不自然なほど静まり返っていた。
ヴァルター・A・クロウは、一階の居間で冷めかけた紅茶を見つめていた。
つい一時間ほど前、長男レイブンと長女ルナが初めて本気で言い争った。軍への志願を希望する妹と、その志望理由に納得できなかった兄。二人の言い分にはそれぞれ理解できる部分があったが、互いに感情を抑えきれず、最後にはルナが泣きながら自室へ駆け込んでしまった。
ヴァルターは、右腕の義肢をゆっくりと動かした。
金属製の指が静かに閉じられる。
「……まったく、親子揃って不器用なもんだ」
彼が呟くと、向かいのソファに座っていたセレナが小さく笑った。
「あなたも昔は、似たようなところがあったわ」
「俺が?」
「ええ。自分の考えが正しいと思うと、相手が納得するまで説明しようとするところ」
ヴァルターは苦笑した。
「……否定できんな」
セレナは刺繍道具を片づけ、二階へ続く階段を見た。
「ルナ、まだ起きていると思うわ」
「ああ」
「話してあげてくれる?」
ヴァルターは静かに頷いた。
「そのつもりだ」
彼は立ち上がり、書斎へ戻るためではなく、娘の部屋へ向かうために階段を上った。
午後10時54分。
クロウ家本邸、ルナの自室前。
廊下の奥には、小さな灯りがともっていた。
ヴァルターは娘の部屋の前で足を止め、扉を二度叩いた。
「ルナ。父さんだ」
返事はなかった。
彼は少し待ってから、もう一度声を掛けた。
「入ってもいいか?」
しばらくして、扉の向こうから小さな声が返ってきた。
「……今、誰とも話したくない」
「そうか」
ヴァルターは、扉にもたれかからず、その場に立ったまま答えた。
「なら、ここで少し話してもいいか?」
「……何を?」
「昔の話だ」
中から、衣擦れの音がした。
「……兄さんのこと?」
「いや。父さんのことだ」
少しの沈黙の後、鍵の外れる音が聞こえた。
扉が細く開き、ルナが顔を覗かせた。
黒い猫耳は伏せられ、目元は赤くなっている。
「……少しだけなら」
ヴァルターは穏やかに微笑んだ。
「ありがとう」
部屋へ入ると、机の上には開いたままのノートが置かれていた。
《帝国軍志願兵学校について》
ヴァルターはその表紙を見たが、勝手に手に取ることはしなかった。
ルナはベッドの端に腰を下ろし、膝を抱えた。
「……父さんも、反対しに来たの?」
ヴァルターは椅子を引き、娘の正面へ座った。
「まず、お前の話を聞きに来た」
「……兄さんみたいに質問するんじゃない?」
「質問はするかもしれん。だが、今夜は試験じゃない」
ルナは、少しだけ顔を上げた。
ヴァルターは続けた。
「お前が何を考えているのか、父さんも知りたいんだ」
ルナは、しばらく黙っていた。
やがて、ぽつりと呟いた。
「……兄さん、ひどいよ」
「ああ」
「私が戦争を知らないから、軍に入りたいなんて言えるんだって」
ヴァルターは静かに頷いた。
「聞いていた」
「……私だって、何も考えてないわけじゃないのに」
ルナの声が震えた。
「兄さんが戦争に行ってから、ずっと怖かったんだよ。ニュースで帝国軍が負けたって聞くたびに、兄さんが死んじゃったんじゃないかって……」
ヴァルターは、娘の言葉を遮らなかった。
「……でも、私には何もできなかった」
ルナは顔を伏せた。
「ただ待ってるだけで、兄さんが帰ってきたら笑って迎えることしかできなかった」
ヴァルターは、静かに息を吐いた。
「……そうか」
ルナは涙を拭った。
「だから、私も強くなりたいの。兄さんが危ない時に、助けられるくらい」
ヴァルターは、娘を見つめた。
「ルナ」
「……何?」
「お前は、兄さんを助けたいんだな」
ルナは頷いた。
「……うん」
「それは、悪いことじゃない」
ルナは顔を上げた。
ヴァルターは穏やかに続けた。
「誰かを守りたいと思うことは、軍人を志す理由の一つになる」
ルナの表情が、少しだけ和らいだ。
「……本当?」
「ああ」
父は頷いた。
「だが、それだけで軍人になれるかどうかは、別の話だ」
ルナの耳が再び伏せられた。
「……やっぱり、父さんも兄さんと同じこと言う」
「最後まで聞いてくれ」
ヴァルターは、静かに言った。
「父さんは、お前に軍へ入るなとは言わん。お前はもう十六歳だ。自分の進路を考える権利がある」
ルナは、少し驚いたように父を見た。
「……じゃあ」
「ただし、志願するなら、自分の意思で選んでほしい」
ヴァルターは、娘の机に置かれたノートへ視線を向けた。
「兄さんに憧れるのはいい。だが、兄さんと同じ人生を歩く必要はない」
ルナは、静かに聞いていた。
「レイブンはレイブンだ。お前はルナだ」
父は、少しだけ微笑んだ。
「お前には、お前にしかできないことがある」
ルナは、膝の上で指を握りしめた。
「……でも、私には何ができるか分からない」
「それなら、探せばいい」
「……探す?」
「ああ。軍には戦う仕事だけじゃなく、負傷者を助ける仕事も、通信を守る仕事も、物資を届ける仕事もある」
ヴァルターは続けた。
「その中に、お前が本当にやりたいことがあるかもしれん。あるいは、軍以外の場所で見つかるかもしれん」
ルナは、しばらく考えた。
「……父さん」
「何だ?」
「私が本当に軍に入りたいって決めたら、応援してくれる?」
ヴァルターは、すぐには答えなかった。
そして、静かに頷いた。
「お前が十分に考え、自分で選んだ道なら、父さんはその決意を尊重する」
ルナの目に、再び涙が浮かんだ。
「……ありがとう」
ヴァルターは、左手を伸ばして娘の頭を撫でた。
「ただし、母さんとも話せ。必要な手続きや訓練についても、きちんと調べるんだ」
「……うん」
ルナは、少しだけ微笑んだ。
しかし、その表情にはまだ寂しさが残っていた。
「……兄さんは、応援してくれないと思う」
ヴァルターは、静かに答えた。
「今は、そう見えるかもしれんな」
「……うん」
「だが、あいつはお前が嫌いだから反対したんじゃない」
ルナは、顔を伏せた。
「……分かってる」
「分かっているなら、いつか話してやってくれ」
ルナは、すぐには頷かなかった。
やがて、小さな声で答えた。
「……今は、無理」
ヴァルターは、娘の肩へそっと手を置いた。
「それでもいい。今夜は休め」
午後11時26分。
ヴァルターが部屋を出ると、ルナは机へ向かった。
開いたままのノートには、志願兵学校の入学資格や試験内容が書き込まれている。
その下には、何度も書き直した跡があった。
《志願理由》
ルナは鉛筆を握った。
しかし、すぐには文字を書けなかった。
兄に憧れている。
強くなりたい。
誰かを助けたい。
どれも嘘ではない。
けれど、父に言われた通り、それが自分自身の進路なのかどうかは、まだ分からなかった。
ルナは、窓の外を見た。
雨は弱まり、雲の切れ間から月明かりが差し込んでいる。
「……私にしかできないこと」
小さく呟いた。
そして、ノートの新しいページを開いた。
そこへ、一つの文章を書き込んだ。
《自分の目で、軍のことを知りたい》
ルナは、その文字をしばらく見つめていた。
やがて、机の引き出しから一枚の案内書を取り出した。
帝国軍志願兵学校の募集案内だった。
そこには、学校の見学や進路相談についての説明も記されている。
ルナは、案内書を丁寧に折り畳んだ。
「……兄さんに頼らなくても、私だって」
その言葉は、誰にも聞かれることなく夜の部屋へ消えた。
帝政歴347年11月13日、午前6時12分。
クロウ家本邸。
翌朝、屋敷には冷たい朝日が差し込んでいた。
ファニータは、いつも通り朝食の準備を進めていた。
セレナは食堂で紅茶を飲み、ヴァルターは新聞を広げている。
レイブンは、まだ自室で軍務資料を整理していた。
ルナだけが、いつもの時間になっても姿を見せなかった。
午前6時28分。
ルナは、自室の鏡の前に立っていた。
普段の服装ではなく、動きやすい上着と長ズボンを身につけている。
小さな鞄には、水筒、財布、身分証明書、志願兵学校の案内書、それから自分のノートを入れていた。
黒い猫耳を覆わないように帽子を調整し、鏡の中の自分を見つめた。
「……大丈夫」
そう呟いたものの、胸は落ち着かなかった。
父には、いつか話してやってくれと言われた。
しかし、今のルナには兄と向き合う勇気がなかった。
もう一度、志願理由を尋ねられたら。
また、何も答えられなかったら。
そう考えるだけで、昨夜の悔しさが蘇ってくる。
ルナは机に向かい、小さな紙を取り出した。
しばらく迷った後、短い文章を書いた。
《少し外へ出てきます。心配しないでください。ルナ》
紙を机の上へ置き、鞄を肩に掛ける。
そして、静かに部屋を出た。
午前6時41分。
クロウ家本邸、裏口。
ルナは、使用人たちが行き交う時間を避け、裏口へ向かっていた。
廊下の角を曲がると、庭園へ続く扉が見える。
彼女は、そこで一度だけ足を止めた。
このまま出ていけば、家族が心配するかもしれない。
父に相談すれば、学校の見学手続きも手伝ってくれるだろう。
しかし、それではまた誰かに頼ってしまう気がした。
ルナは、唇を噛んだ。
「……私だって、一人でできる」
そして、扉を開いた。
冷たい朝の空気が頬を撫でる。
庭園の石畳には、昨夜の雨がまだ残っていた。
ルナは鞄を抱え直し、屋敷の敷地を出た。
その姿を、二階の窓から見ている者がいた。
ファニータだった。
彼女は、庭園を横切るルナの姿を見つけると、少しだけ眉を寄せた。
「……ルナ様?」
普段なら外出の際には行き先を伝えるはずだった。
ファニータは、すぐに使用人の一人へ声を掛けた。
「ルナ様の外出予定を確認してください。私は奥様へお知らせします」
午前7時03分。
クロウ家本邸、食堂。
レイブンは朝食の席に着いていた。
昨夜のことが気になり、ほとんど眠れていなかった。
セレナが、息子の顔を見て小さく息を吐いた。
「……レイブン、顔色が悪いわ」
「……ちょっと寝不足で」
ヴァルターは新聞を畳んだ。
「ルナのことか?」
レイブンは、静かに頷いた。
「……うん」
父は、少しだけ微笑んだ。
「昨夜、あいつとは話した」
レイブンは顔を上げた。
「……どうだった?」
「少しは落ち着いたと思う」
「……そっか」
レイブンは、安堵したように息を吐いた。
「今日、ちゃんと謝ろうと思ってる」
ヴァルターは頷いた。
「それがいい」
その時、食堂の扉が開いた。
ファニータが、いつになく真剣な表情で入ってきた。
「旦那様、奥様」
ヴァルターは顔を上げた。
「どうした?」
「ルナ様が、今朝早くにお屋敷を出られたようです」
レイブンの手が止まった。
「……え?」
セレナも立ち上がった。
「ルナが?」
「はい。裏口から庭園を通って外出された姿を確認しております」
ヴァルターは、すぐに尋ねた。
「行き先は?」
「現在、確認中でございます」
レイブンは、椅子から立ち上がった。
「……俺、部屋を見てくる」
午前7時09分。
クロウ家本邸、ルナの自室。
レイブンは、妹の部屋の前に立っていた。
扉を叩いたが、返事はなかった。
「……ルナ?」
彼は、ゆっくりと扉を開いた。
部屋の中は、普段と変わらないように見えた。
ベッドは整えられ、机の上にはノートが置かれている。
しかし、鞄がなかった。
レイブンは机へ近づいた。
そこには、小さな紙が置かれていた。
《少し外へ出てきます。心配しないでください。ルナ》
レイブンは、その文字を見つめた。
「……心配するに決まってるだろ」
思わず呟いた。
机の上には、帝国軍志願兵学校の募集案内が置かれていた形跡があった。
昨夜、父から話を聞いた後も、ルナは進路について調べていたのだろう。
レイブンは、妹が本気で軍を志そうとしていることを改めて実感した。
そして、昨夜の自分の言葉を思い出した。
軍に入りたい理由は、それだけなのか。
戦場を知らないから、簡単に言えるのだ。
レイブンは、目を伏せた。
「……俺が、追い詰めたのか」
その時、背後からヴァルターの声が聞こえた。
「レイブン」
彼は振り返った。
「……父さん」
ヴァルターは、机の上の置き手紙を確認した。
「……外出したことは分かる。だが、行き先が書かれていないな」
レイブンは頷いた。
「……うん」
父は、落ち着いた声で続けた。
「まずは行き先を確認する。感情だけで動くな」
レイブンは、深く息を吸った。
「……分かった」
ヴァルターは、息子の肩へ左手を置いた。
「お前が悪いことを言った部分もある。だが、今は責任を考えるより、ルナの安全を確認することが先だ」
レイブンは、静かに頷いた。
「……うん」
午前7時24分。
クロウ家本邸、玄関ホール。
ヴァルターは、使用人たちから集めた情報を確認していた。
ルナが外出した時刻は、午前6時40分頃。
服装は防寒用の上着と長ズボン。
小さな鞄を所持。
屋敷の裏口から徒歩で出発。
ただし、その後の行き先は不明だった。
セレナは、少しだけ不安そうな表情で尋ねた。
「……あの子、大丈夫かしら」
ヴァルターは頷いた。
「まずは落ち着こう。ルナは無断で遠出をするような子ではない」
しかし、言葉とは裏腹に、父の表情は真剣だった。
レイブンは、妹の置き手紙を握りしめていた。
「……俺、探してくる」
ヴァルターは、息子を見た。
「どこへ?」
レイブンは、少しだけ考えた。
「……志願兵学校」
セレナが顔を上げた。
「学校?」
「ルナは、昨日から軍への志願について調べてた。もしかしたら、見学か相談に行ったのかもしれない」
ヴァルターは、静かに頷いた。
「……可能性はあるな」
レイブンは、父を見つめた。
「……確認してくる」
ヴァルターは、少し考えた後に答えた。
「分かった。ただし、一人で走り回るな。学校側へ先に連絡を取ろう」
レイブンは頷いた。
「……了解」
午前7時46分。
帝国領中央部、市街地。
ルナは、朝の人通りが増え始めた通りを歩いていた。
冷たい風が頬を撫で、黒い猫耳が小さく揺れる。
彼女は鞄から志願兵学校の案内書を取り出し、地図を確認した。
学校までは、まだ距離があった。
しかし、ルナは足を止めなかった。
兄の言葉が、頭の中で繰り返されていた。
軍に入りたい理由は、それだけなのか。
ルナは、唇を噛んだ。
「……違うもん」
そして、小さく呟いた。
「……ちゃんと、自分で見つける」
彼女は、案内書を鞄へ戻した。
その時、通りの向こうから帝国軍の輸送車が走ってきた。
車両には、志願兵学校の識別標識が付いていた。
ルナは、その車両を見つめた。
兄も、かつてあの学校へ通っていた。
そして、戦場へ向かった。
自分が同じ道を歩むべきなのか。
まだ答えは出ていない。
それでも、何も知らないまま諦めることだけはしたくなかった。
ルナは、静かに息を吸った。
「……行こう」
そして、再び歩き始めた。
帝政歴347年11月13日。
クロウ家の長女ルナ・V・クロウは、兄との初めての喧嘩を経て、自分自身の進路を確かめるため、家族へ行き先を告げずに屋敷を出た。
父ヴァルターの説得によって、軍人になることへの考えを少しずつ整理し始めていたものの、兄レイブンとの関係はまだ修復されていなかった。
そして、妹の不在に気づいたレイブンは、彼女の安全を確かめるため、行動を開始した。
初めてすれ違った兄妹が、再び向き合う時は近づいていた。




