第105話 父の右腕、異界より持ち帰りしもの
第105話 父の右腕、異界より持ち帰りしもの
帝政歴347年11月12日、午後5時43分。
帝国領中央部、クロウ家本邸。
夕暮れの空が赤紫色に染まり始めた頃、一台の帝国軍公用車がクロウ家本邸の正門を通過した。石畳の車寄せに停車した車両から降りたのは、帝国軍の野戦服を着たレイブン・S・クロウ軍曹だった。
ヴァルトハイムでの調査任務が始まってから、五日が経過していた。
旧貨物駅で発見された青白い発光現象については、専門機関による追加調査が決定し、第二保管区画への立ち入りは引き続き禁止されている。共同特別任務分遣隊〈SHADOW LADY〉は現地警備と住民支援を継続する一方、指揮要員の一部に短期間の帰宅と報告整理が認められていた。
レイブンもその一人だった。
もっとも、彼の鞄には休暇用の衣類よりも、閲覧を許可された調査資料の方が多く入っていた。
「ただいま」
玄関の扉を開けると、暖炉で温められた空気が頬に触れた。
「お帰りなさいませ、レイブン様」
迎えに出たのは、クロウ家の従者ファニータだった。彼女はレイブンの鞄を受け取ろうとしたが、彼が小さく首を振る。
「ありがとう。でも、これは自分で持つよ」
「軍務の資料でございますか?」
「うん。ちょっとね」
ファニータは、それ以上尋ねなかった。
代わりに彼の上着を受け取り、微笑んだ。
「皆様、居間にいらっしゃいます。ルナ様など、午後から何度もお帰りの時刻を確認されておりました」
レイブンの黒い猫耳が、わずかに動いた。
「……ルナが?」
「はい。お兄様が帰ってきたら、最初に驚かせるのだと」
「それ、今聞いちゃっていいの?」
「申し訳ございません。秘密でございましたね」
ファニータは涼しい顔で答えた。
レイブンが苦笑した直後、廊下の奥から勢いよく足音が近づいてきた。
「兄さーん!」
「うわっ!」
曲がり角から飛び出したルナ・V・クロウが、そのままレイブンに抱きついた。
彼は片足を引いて体勢を保ち、妹の肩を支える。
「ルナ、危ないって」
「だって久しぶりなんだもん!」
「数日だよ?」
「数日も、でしょ!」
ルナは兄の顔を覗き込み、金色と黒色の瞳を交互に見た。
「ちゃんとご飯食べてた? 怪我してない? エリシアお姉ちゃんは?」
「一度に聞かないで。怪我はしてないし、ご飯も食べてた。エリシアは共和国軍側との調整があるから、今夜は基地に残ってるよ」
「そっかぁ……。会いたかったな」
ルナは少し残念そうにしたものの、すぐに笑顔を取り戻した。
「でも、今日は兄さんが帰ってきたからいいや!」
レイブンは妹の頭を優しく撫でた。
「ただいま、ルナ」
「お帰り、兄さん!」
午後6時17分。
クロウ家本邸、一階居間。
暖炉の火が静かに燃える居間には、夕食前の穏やかな時間が流れていた。
ソファには母セレナ・S・クロウが座り、読みかけの本を閉じて息子を迎えた。
「お帰りなさい、レイブン。顔を見られて安心したわ」
「ただいま、母さん」
セレナは立ち上がり、息子の頬へそっと手を添えた。
「少し痩せた?」
「そんなことないと思うけど」
「そう言うところ、お父さんにそっくり」
その言葉に、暖炉の近くから低い笑い声が聞こえた。
「おいおい、俺まで巻き込むな」
父ヴァルター・A・クロウが、新聞を畳みながら顔を上げた。
かつて戦場で失った右腕には、精巧な義肢が装着されている。袖口から覗く金属製の関節は、暖炉の光を受けて鈍く輝いていた。
レイブンは父へ敬礼する真似をした。
「ただいま帰還しました、教官殿」
ヴァルターは片眉を上げた。
「ここは訓練場じゃないぞ、軍曹」
「では、ただいま。父さん」
「おう。よく帰った」
父は立ち上がり、左手で息子の肩を叩いた。
その力強さに、レイブンは幼い頃の記憶を思い出した。
戦場へ赴く前も、帰還した後も、父はいつも同じように肩を叩いてくれた。
ただ一つ、以前とは違うことがある。
父が右腕で触れることは、ほとんどなかった。
レイブンはそれを、義肢の操作上の癖だと思っていた。
午後7時06分。
クロウ家本邸、食堂。
夕食の席では、ルナが次から次へと質問を投げかけていた。
「兄さん、共和国軍の人たちと本当に一緒に訓練してるの?」
「うん。通信方法も装備も違うから、最初は大変だったけどね」
「ガイルさんもいる?」
「もちろん」
「また変なこと言ってる?」
「……いつも通りかな」
ルナが吹き出した。
「やっぱり!」
セレナも微笑み、食卓には和やかな笑い声が広がった。
ヴァルターはグラスを傾けながら、息子の話に耳を傾けていた。
「共同部隊か。昔なら考えられなかった編成だな」
「父さんもそう思う?」
「ああ。だが、必要なことだ。敵が変われば、戦い方も変わる。まして、今は戦争が終わったばかりだからな」
レイブンは頷いた。
「今の任務も、戦闘より住民支援が中心なんだ」
「ほう」
「国境の町で不発弾の調査をしてる。共和国軍の記録がないと分からない場所も多くてさ」
ヴァルターは真剣な表情で聞いていた。
「戦争の後始末は、戦うことより時間が掛かる場合もある。気を抜くなよ」
「うん」
レイブンはパンを一口食べ、それから思い出したように続けた。
「そういえば、ちょっと変わったものも見つかったんだ」
その時点では、レイブンに特別な意図はなかった。
任務の詳細を話すつもりはなく、単に父が異界に関わる経験を持っていることを思い出しただけだった。
「古い貨物駅なんだけど、奥の保管区画から青白い光が漏れててね。専門調査班でも原因が分からないらしいんだ」
食卓の空気が、ほんのわずかに変わった。
ヴァルターのグラスが止まった。
「……何?」
レイブンは父を見た。
「青白い発光現象だよ。古い軍の施設から出てたんだ」
「……青白い?」
「うん。共和国軍の記録にも、同じ光を見たって報告があって」
ヴァルターの右手が、かすかに動いた。
金属製の指が一度だけ開き、すぐに握り込まれる。
レイブンはそれに気づいた。
「父さん?」
「……いや」
ヴァルターは椅子から立ち上がった。
「すまん。少し、書斎に用事を思い出した」
セレナが顔を上げた。
「あなた? まだ食事の途中よ」
「ああ、分かってる。すぐ戻る」
そう言い残し、ヴァルターは足早に食堂を出ていった。
扉が閉まる音が響いた。
ルナは、ぽかんとした表情で父が去った方向を見つめた。
「……父さん、どうしたの?」
レイブンも首を傾げた。
「……分からない」
しかし、胸の奥には小さな違和感が残っていた。
父が何かを恐れている。
少なくとも、あの一瞬だけはそう見えた。
セレナは夫が出ていった扉を見つめ、静かに目を伏せた。
「……レイブン」
「母さん?」
「お父さんのところへ行ってあげて」
レイブンは母を見た。
「……何か知ってるの?」
セレナは、すぐには答えなかった。
やがて、小さく頷いた。
「全部ではないけれど……あなたのお父さんには、まだ話していないことがあるの」
レイブンは椅子から立ち上がった。
「……分かった」
午後7時29分。
クロウ家本邸、二階廊下。
書斎へ続く廊下は、食堂とは対照的に静まり返っていた。
レイブンは父の足音を追いながら、昔から何度も通った廊下を進んだ。
ヴァルターの書斎は、家の北側にある。
軍務に関する書類や古い地図、家門の記録などが保管されている場所だった。
幼い頃、レイブンはよく父の膝に座り、戦場ではなく遠い国々の話を聞かせてもらった。
ただ、異界についてだけは違った。
父は異界へ迷い込み、右腕を失って帰還した。
その事実は知っている。
しかし、そこで何を見て、何が起きたのか。
詳しい話を聞いたことは、ほとんどなかった。
書斎の前に到着すると、扉がわずかに開いていた。
中から父の声が聞こえる。
「……まさか、あれが……」
レイブンは足を止めた。
「……そんなはずはない。俺が持ち帰ったものは……」
金属が擦れるような、小さな音がした。
「……右腕が反応するなんて……あの時以来だぞ……」
レイブンは、静かに扉を叩いた。
「父さん」
中の声が止まった。
しばらくして、低い返事が聞こえた。
「……レイブンか」
「うん。入ってもいい?」
「……ああ」
レイブンは扉を開いた。
書斎の中央には、大きな執務机が置かれていた。壁には帝国の古い地図と、クロウ家の歴代当主の肖像画が並んでいる。
ヴァルターは机の前に立ち、右腕の義肢を左手で押さえていた。
金属製の指が、本人の意思とは関係なく微かに震えている。
レイブンは思わず足を止めた。
「……父さん、その腕」
ヴァルターは、右腕へ視線を落とした。
「……見られたか」
「調子が悪いの?」
「いや。機械的な故障じゃない」
父は苦笑しようとしたが、うまく笑えなかった。
レイブンは扉を閉め、ゆっくりと近づいた。
「……さっき、俺が青白い光の話をした時から様子がおかしかった」
「……そうだな」
「何か知ってるんだね?」
ヴァルターは、しばらく黙っていた。
やがて、椅子へ腰を下ろした。
「……座れ、レイブン」
レイブンは向かいの椅子へ座った。
父は机の引き出しを開き、古い革張りの手帳を取り出した。
表紙には擦り切れた帝国軍の識別章が残っている。
「お前には、いつか話さなければならないと思っていた」
ヴァルターは、手帳を見つめた。
「俺が異界へ迷い込んだ時のことだ」
午後7時41分。
クロウ家本邸、ヴァルターの書斎。
ヴァルターは手帳を開き、古い地図の写しを取り出した。
そこには、帝国の地理とは明らかに異なる地形が描かれていた。
山脈の位置も、河川の流れも、見慣れたものではない。
地図の隅には、手書きで一つの言葉が記されていた。
《境界の裂け目》
「……俺が異界へ迷い込んだのは、まだお前が生まれる前のことだ」
ヴァルターは、ゆっくりと話し始めた。
「当時の俺は、軍の調査任務に参加していた。国境付近の山岳地帯で、原因不明の空間異常が報告されていたんだ」
レイブンは、黙って耳を傾けた。
「最初は、ただの気象現象だと思われていた。だが、現地では方位磁針が狂い、通信が途切れ、地図に存在しない谷が現れていた」
父は地図の一点を指した。
「俺たちは、その谷を調べに入った」
ヴァルターの声が、少しだけ低くなった。
「……そこで、地面が消えた」
レイブンは眉を寄せた。
「地面が?」
「ああ。崩落とは違う。足元の景色が歪み、気づいた時には別の場所へ落ちていた」
父は右腕を見つめた。
「空は暗い紫色だった。雲の向こうには、見たこともない巨大な構造物が浮かんでいた。地面には黒い岩が広がり、遠くでは青白い光が何度も明滅していた」
レイブンは、思わず身を乗り出した。
「……異界だ」
「そうだ」
ヴァルターは頷いた。
「俺は、あの場所で何日も彷徨った。正確な日数は分からん。時計は止まり、昼と夜の区別も曖昧だった」
彼は手帳のページをめくった。
そこには、奇妙な植物や岩石、建造物の簡単なスケッチが描かれていた。
「水も食料も尽きかけた頃、俺は古い施設を見つけた」
「施設?」
「ああ。人間が造ったものとは思えない構造だった。壁は金属にも石にも見え、内部には青白く光る管が張り巡らされていた」
レイブンは、静かに息を呑んだ。
ヴァルターは続けた。
「その施設の奥で、俺はあるものを見つけた」
父は、右腕の義肢へ触れた。
「……そして、それを持ち帰ろうとした時、奴らに襲われた」
「……奴ら?」
「異界の生物だ。人間より大きく、四肢の形も不規則で、黒い外殻に覆われていた」
ヴァルターの表情が険しくなった。
「俺は銃で応戦したが、数が多すぎた。撤退しようとした時、背後から襲われてな」
父は、右肩へ視線を落とした。
「……右腕を持っていかれた」
レイブンは、何も言えなかった。
父が右腕を失ったことは知っている。
しかし、その瞬間について聞くのは初めてだった。
ヴァルターは、静かに続けた。
「痛みよりも、寒さを覚えている。血が止まらず、意識も薄れていった」
彼は、机の上に置いた左手を握りしめた。
「それでも、俺は持っていたものを離さなかった」
レイブンは、ゆっくりと尋ねた。
「……何を持っていたの?」
ヴァルターは、しばらく黙っていた。
そして、書斎の奥にある古い書棚へ視線を向けた。
「……見せよう」
午後8時03分。
ヴァルターは立ち上がり、書棚の一角へ歩いた。
古い軍事史の本を数冊取り出すと、その奥に小さな金属製の保管箱が現れた。
箱には、クロウ家の紋章が刻まれている。
父はそれを机へ運び、鍵を取り出した。
「この中にあるものは、軍にもすべてを報告していない」
レイブンは、父を見つめた。
「……どうして?」
「報告できるほど、正体が分からなかったからだ」
ヴァルターは鍵を回した。
小さな音を立てて、蓋が開く。
内部には厚い緩衝材が敷かれ、その中央に手のひらほどの黒い結晶体が収められていた。
形状は不規則な多面体で、表面には細かな銀色の線が走っている。
レイブンは、思わず目を見開いた。
「……これが?」
「ああ」
ヴァルターは頷いた。
「俺が異界から持ち帰ったものだ」
結晶体は、一見するとただの黒い鉱石だった。
しかし、レイブンが見つめていると、内部の奥深くで淡い光が動いた。
青白い光だった。
「……光った」
ヴァルターは、険しい表情で頷いた。
「……やはりな」
レイブンは、父へ視線を向けた。
「これ、旧貨物駅で見た光と似てる」
「そうだろう」
ヴァルターは、結晶体へ触れずに説明を続けた。
「俺はこれを《境界晶》と呼んでいる。正式な名称ではない。俺が勝手につけた仮の名前だ」
「境界晶……」
「異界の施設で発見したものだが、何に使うのかは分からん。ただ、周囲の空間や魔力に反応する性質があるようだった」
レイブンは、慎重に尋ねた。
「……父さんの右腕とも関係があるの?」
ヴァルターは、ゆっくりと頷いた。
「……ある」
彼は義肢の袖口を捲り、金属製の関節を露出させた。
「この右腕は、単なる機械式の義肢じゃない」
レイブンは、父の腕を見つめた。
「……どういうこと?」
「帰還した後、俺は失った右腕を補うために、軍の技術者と魔導技術者の協力を受けた」
ヴァルターは、右手を開いた。
金属製の指が、静かに動く。
「だが、通常の義肢では俺の身体に適合しなかった。神経接続も、魔力伝達も、何度も失敗した」
父は結晶体へ視線を向けた。
「……その時、この結晶が反応したんだ」
レイブンは、息を呑んだ。
「……反応?」
「ああ。結晶から放たれた微弱な魔力が、俺の失った右腕の魔力経路に干渉した」
ヴァルターは、義肢の手首をゆっくりと回した。
「技術者たちは、その反応を利用して義肢の制御系を再構築した。今の右腕は、機械構造と魔力伝達を組み合わせたものだ」
レイブンは、父の腕を見つめた。
幼い頃から見慣れていた右腕。
しかし、その仕組みについては、ほとんど知らなかった。
「……じゃあ、その結晶がなかったら」
「今のように動かせたかは分からんな」
ヴァルターは苦笑した。
「ただし、結晶そのものを義肢へ組み込んだわけじゃない。あくまで、制御方式を確立するための手掛かりになったんだ」
レイブンは頷いた。
「……なるほど」
ヴァルターは、右腕を見つめた。
「だが、今日お前が青白い光の話をした瞬間、この腕が反応した」
レイブンは、父へ顔を向けた。
「……どうして?」
「分からん」
ヴァルターは、正直に答えた。
「ただ、異界にいた頃、似た反応を経験したことがある」
彼は、結晶体を見つめた。
「……近くに同じ性質のものが存在する時、この結晶は光を強めることがあった」
レイブンは、ゆっくりと考えた。
「……旧貨物駅に、同じものがあるかもしれない?」
「可能性はある」
ヴァルターは頷いた。
「だが、断定はできん。似た光を出す異界の物質は、他にも存在するかもしれない」
レイブンは、静かに頷いた。
午後8時26分。
書斎には、しばらく沈黙が流れていた。
レイブンは、黒い結晶体を見つめながら考えていた。
旧貨物駅の第二保管区画。
原因不明の青白い発光現象。
帝国軍の機密指定を受けた特殊物資保管施設。
そして、父が異界から持ち帰った《境界晶》。
すべてが関係しているとは限らない。
しかし、無視できる情報でもなかった。
「……父さん」
「何だ?」
「これ、軍に報告した方がいいと思う」
ヴァルターは、静かに頷いた。
「……そうだな」
レイブンは、少しだけ驚いた。
「……反対しないの?」
父は苦笑した。
「昔の俺なら、隠したままにしたかもしれん」
彼は、結晶体へ視線を落とした。
「だが、今は違う。あの町には住民がいる。お前たちも調査に入っている」
ヴァルターは、真剣な表情になった。
「……もし同じようなものが残されているなら、放っておくわけにはいかん」
レイブンは、静かに頷いた。
「……うん」
父は続けた。
「ただし、報告する前に一つ確認しておきたい」
「何?」
ヴァルターは、手帳の最後のページを開いた。
そこには、異界の施設で見つけた奇妙な紋様が描かれていた。
円形の外枠。
その内側に重なる三本の曲線。
中央には、縦に割れたような細長い記号があった。
「……この紋様を見たことはあるか?」
レイブンは、じっと見つめた。
そして、眉を寄せた。
「……ある」
ヴァルターの表情が変わった。
「……どこで?」
「旧貨物駅の金属扉に、似たようなものがあった」
父は、椅子から身を乗り出した。
「……本当か?」
「うん。全部は見えなかったけど、削り取られた識別番号の近くに、円形の刻印が残ってた」
ヴァルターは、深く息を吐いた。
「……そうか」
レイブンは、父を見つめた。
「……何の紋様なの?」
ヴァルターは、しばらく答えなかった。
そして、低い声で言った。
「……俺が異界で見つけた施設にも、同じ紋様があった」
レイブンは、息を呑んだ。
ヴァルターは続けた。
「その施設には、青白く光る装置がいくつも並んでいた。そして、その奥には……」
父は言葉を止めた。
レイブンは、静かに尋ねた。
「……奥には?」
ヴァルターは、ゆっくりと顔を上げた。
「……門があった」
レイブンの猫耳が、ぴくりと動いた。
「……門?」
「ああ。巨大な円形の構造物だ。中央には何もないように見えたが、時折、青白い光が走っていた」
ヴァルターは、結晶体を見つめた。
「……俺は、その門の近くでこの結晶を見つけた」
レイブンは、静かに息を吐いた。
「……じゃあ、旧貨物駅の奥にも」
「……分からん」
ヴァルターは、すぐに答えた。
「ただ、もし同じ技術が使われているなら、単なる物資保管施設ではない可能性がある」
レイブンは、しばらく黙っていた。
そして、静かに頷いた。
「……分かった」
午後8時49分。
ヴァルターは、保管箱の蓋を閉じた。
青白い光が、ゆっくりと消えていく。
レイブンは、父の右腕を見つめた。
「……父さん」
「何だ?」
「……怖かった?」
ヴァルターは、少しだけ驚いたように息子を見た。
「……異界でのことか?」
「うん」
父は、しばらく黙っていた。
そして、静かに笑った。
「……怖かったさ」
レイブンは、何も言わなかった。
ヴァルターは続けた。
「右腕を失った時も、帰れなくなるかもしれないと思った時もな」
彼は、机の上に置いた手帳へ視線を落とした。
「……だが、一番怖かったのは、家族に会えなくなることだった」
レイブンは、静かに父を見つめた。
「……母さんに?」
「ああ」
ヴァルターは、少しだけ微笑んだ。
「まだ若かったセレナを、一人残してしまうんじゃないかと思った」
父は、右腕をゆっくりと動かした。
「……だから、帰ろうと思った。どんな姿になってもな」
レイブンは、胸の奥が少し熱くなるのを感じた。
「……父さん」
ヴァルターは、息子の肩へ左手を置いた。
「レイブン」
「……うん」
「お前も、これから危険な場所へ行くことがあるだろう」
父の声は、いつもの訓練教官としてのものではなかった。
一人の父親としての声だった。
「……だが、忘れるな。帰ってくることも任務の一つだ」
レイブンは、静かに頷いた。
「……分かってる」
ヴァルターは、少しだけ笑った。
「本当か?」
「……本当だよ」
父は、ようやく安心したように息を吐いた。
午後9時12分。
クロウ家本邸、一階居間。
レイブンとヴァルターが居間へ戻ると、セレナが暖炉の前で待っていた。
ルナはソファで眠りかけていたが、兄の姿を見ると顔を上げた。
「……兄さん?」
「ただいま」
「……父さんと何話してたの?」
レイブンは、少しだけ考えた。
「……昔の話だよ」
ルナは首を傾げた。
「昔?」
「うん。父さんが若かった頃の」
ヴァルターが苦笑した。
「おい、俺を年寄り扱いするな」
セレナが微笑んだ。
「あなた、もう十分にお父さんらしい年齢でしょう?」
「……セレナまで」
ルナが笑い、居間には再び穏やかな空気が戻った。
レイブンは、暖炉の炎を見つめた。
父が異界から持ち帰った黒い結晶体。
それによって再構築された右腕の制御技術。
そして、旧貨物駅の第二保管区画に残された謎の紋様。
その情報は、今後の調査にとって重要な手掛かりになるかもしれない。
だが、今夜はもう一つ、大切なことを知った。
父もまた、恐怖を抱えながら戦っていたということ。
そして、家族のもとへ帰るために、生き延びようとしていたということ。
レイブンは、静かに微笑んだ。
翌朝、彼は父の証言を正式な報告書にまとめ、共同部隊と基地司令部へ提出するつもりだった。
その際、境界晶の現物はクロウ家で安全に保管したまま、専門機関による評価と適切な管理方法の判断を求めることになる。
旧貨物駅の奥に何が眠っているのか。
それは、まだ分からない。
しかし、閉ざされた扉へ続く道に、確かな手掛かりが一つ加わった。
帝政歴347年11月12日。
レイブン・S・クロウは、父ヴァルター・A・クロウから、かつて異界へ迷い込んだ際の出来事と、持ち帰った未知の結晶体《境界晶》について初めて詳しく聞かされた。
その証言は、ヴァルトハイム旧貨物駅の第二保管区画で確認された発光現象と、何らかの関係を持つ可能性があった。
そして、父が失った右腕の秘密もまた、異界の技術と深く結びついていた。
長く閉ざされていた父の記憶が、息子の前で静かに開かれた夜だった。




