59.
「そういえば、貴方の家名を伺って無かったわね」
「えっ……」
「どちらの伯爵家か教えて頂いても?」
私は馬車の中からこちらを見下ろす女に告げた。
しかし彼女は口を開かない。
どうして先程まであれ程自分は正しいと言い張っていたのに名乗れないのだろう。
(今回に限った話では無いけれど)
前世でだって似たようなことはあった。
そして答えない者はきっと奥底では自分に道義的な非があると気付いているのだ。
しかし名前さえ知られなければ好き放題出来るとでも思っているのだろうか。
幾らでも調べる手段はあるのに。
私がわざとらしく微笑んだ途端、馬車の窓が内側から黒くなった。
伯爵夫人がカーテンを閉めたのだと気づいた瞬間叫ぶような声が聞こえる。
「帰るわ、さっさと出しなさい!」
「おっ、奥様!?」
女のヒステリックな声に慌てる台詞を発するのは執事らしき男だ。
それも仕方がない、彼がいる場所は馬車の中では無いのだから。
けれど伯爵夫人が乗った馬車は躊躇うことなく動き出した。
そして私から逃げるように反対方向へ遠ざかっていく。
そのまま外側を回るようにして入口へ戻るつもりだろうか。
(御者もうんざりしていたのかもね)
余りにもスムーズな逃走にそんなことを考えた。
「待てっ、俺をっ、置いてっ、いくなっ」
伯爵家の執事らしき男が小刻みに叫びながら馬車の後を追いかけていく。
私は何となく我が家の家令を見たがそっと目を逸らされた。
その気まずそうな様子に共感性羞恥でも働いているのかと邪推する。
「……私たちも馬車に戻りましょうか」
きっと気の短いレオは苛々しながら待っているに違いない。
彼からの理不尽な抗議を避ける為に私はそう言った。
「お待ちください」
しかし第三者によって行動を止められる。
声の主は私の前に自称伯爵夫人一派と口論をしていた女使用人だった。
「……何か御用かしら」
「膠着状態を解決して下さり有難う御座います」
そう言って彼女は私へ向け丁寧に礼をした。
伯爵夫人へ対する態度とは全く違う。
それが私の公爵夫人という身分に対してか、それとも言葉通りの礼のつもりか判断は難しい。
だがさして重要ではない気がした。
どうせもう会うことも無いのだろうから。
「気になさらないで、子どもたちの為にあの女を退けたかっただけですわ」
「子ども……というのはアベニウス公爵家の御令息たちですか」
「ええ、そうよ」
先程名乗った家名を彼女はしっかり覚えていたようだ。
確認するような問いかけに私は肯定を返すしかない。嘘を吐いても仕方がないからだ。
不安になるのは目の前の女使用人が考え込む素振りをしているからだ。
「では子どもたちが待っているから、これで」
「アベニウス公爵夫人、貴方に頼みがあります」
頼みと言っているが断られると全く思っていない声だ。
恩を仇で返されるというのはこういう気持ちなのだろうか。
そんな不快感は彼女の次の言葉で吹き飛ぶ。
「存分に謝礼は致します。一時の間だけ王妃様たちと行動を共にして頂けませんでしょうか?」
花火が終わるまでで良いのです。
そう自称王妃付きの女使用人は小さな馬車を背に私にそう告げた。
更に突然刺しゅう入りのハンカチを取り出して私に手渡す。
「こちらは……ラグノー公爵家、王妃殿下の御実家の家紋です」
そう緊張した声でカーヴェルが言う。
つまり本物の王妃が目と鼻の先にいるということだ。
そして何故か私に関わろうとしている。
全部目の前の女性の独断と暴走で、出てきた王妃が全部嘘だと言ってくれないだろうか。
そんなことを考えていると馬車の窓が開き驚く程白い手が私を招いた。
私も伯爵夫人たちと同じように逃げれば良かった。そんなことを思った。




