「虚構少女」
奏音はその後、真っすぐに家に帰った。
そこから二時間余りが経過し、愛華は公共の乗り物に頼ることなく自分の足で山道を超えて、件の病院の地下室を目指した。額に一粒の汗も滴らせずに彼女は登りきった。往来で、数人の現地の住人とすれ違う機会があったが、彼女の生来の、妙な影の薄さ故か--誰も不思議に思うことがなかった。そして難なく病院の地下室に到着した。
その最奥部の、前方に集中治療室がある設置式の椅子にて、着座する奏音の姿があった。どうやらバスに乗るといった手段で、いつの間にか愛華を追い抜いてしまったいたようだ。それに対し、彼女はやや遅れてしまったと反省した。到着した彼女が奏音を見たことによる感想は実に疲弊しきっている悲痛なものだった。決して動的ではなく、静寂そのものを骨肉に染みわたっているという、凡そ中学時代には備わることのない物憂げな様子を伺うことができた。
彼女は全身にこの世に存在しうる限りの不幸を纏っているようだった。
彼女はただ何かをすることもなく、硝子越しに眠り、今なお不安定な状態を行き来する月石天音の姿を眺めていた。面会時間はとうに終了しているが、地下に関してはその限りではなかった。
そもそものこの地下病棟が非正規の存在であるからして、地上階の規則は通用しない。
だから職員も、延々と何も為すわけでもない奏音を放置していたのだ。
「奏音」
「……愛華」
奏音の双眸は解散する以前とは明らかに違っていた。
妙にやつれたようで、実際に過度な心労が目に見えてわかった。
「……ごはん食べた?」
「うん、少しだけ」
味覚はまるで機能していないけれど、と奏音は苦しい表情を見せる合間に、ほんの少しだけ笑った。
愛華は自身が背負っている学園指定の鞄を前にかけなおし、そして中をごそごそと漁るとそこには一杯のパンやおにぎりなど、コンビニ等で簡単に買い集められるものだ。栄養素について多少なりと意識が傾いたのか、手頃な野菜食品までその中には含まれていた。
そして、鞄に入れきれず手持ちになっていた袋には何本ものペットボトルが入れられていた。茶に、単純な水に、ジュースまで幅広い。
「最終バス、さっき行った」
「そうなんだ……愛華、よかったの?」
「私は一人」
愛華は自身の損得を丼勘定に入れようとしなかった。
「でも奏音は違う」
愛華は最初こそは、少し間を開けて奏音の右に座ったが、その言葉をきっかけに彼女に密着するように座った。
「帰る家がある」
「そうだね」
そう呟くと少しして奏音は首を振った。
「ううん、正しくは…………そうだった、だよ」
「?」
「もう家はない、私に居場所はないんだよ」
奏音はあっけらかんとした態度でそう告白する。
「あはは、色々あってね」
奏音はそれでもぎこちなく笑っている。
確実に、無理くりだということがわかっているというのに、奏音はそれでも笑顔を作っていた。
「とりあえず、折角こんなに持ってきてくれたんだから、食べよ」
二人となら、味も変わるかもしれないと奏音は笑った。
「食べてから、話すことにするよ」
「家には帰ったよ」
あの後、愛華と解散した奏音は確かに家路を急いだ。
携帯電話は最後まで、見なかったという。
結末は見えていたから。
だけど何処かで最後の活路を見出していたのかもしれない。
「許し……とは少し違うかな、説教が待っていると思ったんだ。親として、子供を叱ることが」
「説教を……」
「うん、いっそひとおもいにやってほしかった。不甲斐ない私を責め立ててほしかった」
叱られたかった。ただそれだけなのだ。
濡れ衣を被せられた身の甘さでもいい、いっそ疑われたままでもよかった、何にせよ問題を起こした子を諭すようにあってほしかった。だけど実態は、違った。
「ずっと、ずっと二人が喧嘩しているだけだった」
彼女が帰宅した時点でそれは始まっていた。
「お父さんがお母さんに罵声を浴びせていた。だけど、売り言葉に買い言葉で、お母さんもお父さんに対して、鬱憤を遠慮なく浴びせていた」
「奏音は?」
「もちろん声をかけたよ、私はここにいるよって」
だけど、奏音は言う。
「私はまるであの家に、世界に存在していないような扱いだった」
何度叫ぼうと、仲裁に入ろうと喧嘩が止まることはなかった。
凄く、口汚い、子供のような争いだと奏音は言う。
母親はうだつが上がらなくて、出世コースから外れたことを罵って、自分が結婚のときに無理やり仕事をやめさせられたことを後悔していることを遠慮なく主張していた。そこには自分が父親とは違って、出世街道にあったことも添えてだ。
対し、父親は未だに自分の稼ぎがないと母親は生活も真面にできないと過信しきっており、それを武器に余りにも酷な人格否定を母親に浴びせ続けていた。
「正直、怖いという感情よりも先に――悲しくなった」
奏音の中の支柱だった筈の何かが音を立てて崩れる音がしたのだ。
「両親への憧憬、畏敬、全てが……私を作っていたんだ」
家族を養うために汗水流すことを厭わなかった父の背中を、それを笑顔で見守って支え続ける母の背中を――奏音は実に馬鹿正直に信じ切っていた。彼女はずっと無垢であったのだ。無垢すぎる故に、気づいていなかった。海溝のように深々としたものとなっている、父と母の軋轢に……。
「ううん、それだけじゃないんだ」
確かに憧憬の対象の現実との乖離に奏音は深い衝撃を抱いていたが、それだけでは彼女はこうはなっていなかった。
「どんな仮初の平和だったとしても、夫婦としての関係性がとうに終わっていたとしても、私に対してはそれぞれで、愛を注いでくれていたと信じていた」
「……どういうこと?」
「聞いたの、喧嘩の最中に」
「…………」
「私は失敗作だって」
「――――」
親が子に対し、斯様な残酷な言葉を吐く事例はままある。が、奏音にとってそれは、普通の子供が感受するそれよりも圧倒的な重圧となるし、それ以上に裏切りとなる行為だった。
「私はお父さんのようにはなることができなくても、直向きに頑張ろうと思っていた。そうすれば二人は喜んでいてくれたから」
奏音は更に存在が小さくなっていくようだった。
「だけど、二人の考えは子として私を立派に育てることが目的ではなかったの」
奏音はそう言い終えると、はぁ、と息を吐いた。
「お父さんとお母さんは、私を自分たちが叶えられなかった夢を継がせるための道具としてしか認識していなかったの」
そう――二人の対立の中心となる話は奏音の処遇ではなかった。
確かに彼らは奏音が着せられた濡れ衣を真実として疑わなかったが、それよりも何よりも、彼女の今後の人生が断絶されたことを嘆いたのだ。
今の段階でつけられている奏音の内申点は、ほぼほぼ白紙といっても等しくなる。そうなると、有名私立校への進学は絶望的となる。ともなると、両親の完璧な天才を、自分たちがなしえなかった才女を作り出す道が絶たれてしまうのだ。
二人の対立の原因は、断絶されてしまった責任の擦り付け合いに終始していたのだ。父は監督不届きと母を否定し、母は父の不甲斐なさで攻める。手は出ていなかったが、これは紛れもなく言葉の殴り合いそのもので――その光景は確かに奏音には酷だったが、断片的でも会話が耳に入るものだからこそ彼女は深く傷ついたのだ。
議論の中心が、奏音の存在そのものの否定なのだから……耐えようがない。
不毛な罵声の横行が継続されるにつれて、奏音のなかの暗闇という根が鬱々と拡大していって、彼女を司る臓腑をどす黒い泥で汚していった。さながら虚構の存在として、父母が満足いくまで遊び倒す人形としての役割しか自分にはなかったと知った彼女は……今までで一番の崩壊を迎える。凌辱された時でも、濡れ衣ですべての信頼を失ったときにもなかった、巨大などす黒い破壊――奏音は愛華を心配させまいと着丈に笑うが、奏音はとうに自分の軸を、自分の生きる意味を見失ってしまっていたのだった。
「ねぇ、愛華」
「……奏音?」
「私って、偽物なのかな」
愛華はきつく胸が締め付けられた。
何があっても折れることのなかった奏音からその問いが投げかけられるということの意味を、愛華は何よりも理解しているからだ。
「私は作られた、脚本通りに生きていくことしか望まれていなかったのかな」
奏音は愛華に縋るようにその身を寄せた。
「愛華」
彼女は消え失せそうな程弱々しく、言葉を捻出し
「私の人生って、虚構で、無意味なのかな?」
絶望を口ずさんだ。




