「因果応報」
奏音は愛華のその突発的な急接近により、完全に火照ってしまっていた。それを冷まして通常の状態に戻すのには幾分か時間がかかった。当の愛華は自分が為したことが奏音に尋常以上の動揺を受けていることに気づいていなかった。
奏音の動転をよそに、愛華は次なる菓子パンの何事もなかったかのように用意し始める。奏音としても腹八分にも至っていないので、菓子パンを食すことに関しては抵抗がないが、彼女の食べさせ方が問題だったのだ。どうにかしないと、奏音は再び昂って止まらなくなってしまう。
そうこうと、彼女がどうにかこうにか対策を考え、それを講じようと画策しているときに、屋上にいる生徒一同は一瞬にして静まり返った。最初は公共の場ということを忘れた結果、奏音と愛華が目立ってしまったのだとばかり考えていたが、そうではなかった。
屋上の扉が開かれた。その扉の向こうの存在に、一同を黙らせたのだ。
そこには斎藤浩二の姿があった。
「!」
愛華は率先して奏音の前に立ちはだかる。
だけど、彼の様子は違った。普段の生気はなく、目線が虚ろになっていて、普段のような万人を威圧する眼光は健在ではなかった。かてて加えて、侍らしている取り巻きが一人もいないことがその彼から迸っている違和感に拍車をかけていた。そんな中、少しすると彼は地面に倒れた。その奥から咲来がゆっくりと姿を現す。
「咲来……君?」
「これでもう、篠崎さんは安全だ」
倒れた斎藤をよくよく観察すると、顔中に痣があって、泡を吹いている。一見して彼が満身創痍であることはそこにいる人ならばすぐにわかった。それ程彼に見違えた変化が残っていたのだ。
「何を……したの?」
「あの後、僕は斎藤を探した。そして彼はいたんだ、ゲームセンターにしたり顔で」
彼は普段と変わらず、仲間とゲームセンターで溜まっていた。
咲来はその現場に単身で乗り込んだ。意気揚々と、武勇伝を語るような雄弁な口調で自身の非道ぶりを語る様を見て、咲来蓮人は彼に対し情状酌量の余地なしと断じる。そして、彼は強気に斎藤を野外に誘う。
当然、会話を中断されるだけではなく、面子を潰された斎藤はそれはそれは激高したが、彼は目の前の咲来を完膚なき儘に叩き潰せば、つぶれた面子が回復するだけでなく、武勇伝が追加されるというお釣りまでくる。そう息巻いた彼は、単身で訪れた咲来を一笑に付し、外に出た。
が、これが齋藤の最大の誤算だった。
複数人の聴衆と完全にホームであるこの場に加えて、普段は細身な咲来に対し、万が一にも後れを取ることはないと。そう確信があった。過去にも自分に勝負をしかける者は何人もいたが、一薙ぎで平伏させていた。今回とて、同じことだ、彼にはそういう自信があったのだ。
だけど、違った。
初手、舐め切った態度で彼を沈めようと一撃を放つも、後方に一歩下がるだけで簡単に回避した咲来は一切に遊ばず、斎藤の左足を強く蹴る。
それで一気に調子づいた彼の顔が苦い色に染まる。
それを受けて、取り巻きが一斉に咲来を組み敷かんと襲い掛かったが――。
「全員……倒したの?」
「これくらい問題ない、篠崎さんの痛みに比べればね」
「でも…………駄目だよ? 喧嘩なんて、私なんかの為に……」
奏音は度重なる精神の摩耗が原因で、著しく自己評価が低下してしまっているのが、咲来の眼にも如実に伝わった。こともあろうか自身の心配をするではなく、校則違反を犯した咲来を心配し始めるくらいには。
「篠崎さん」
咲来は彼女のもとへ近づく。
だけど、不必要に近づきすぎず、怖がられない程度の距離――数歩で縮まる距離。
「今朝は、君の異変に気づけなくて……ごめん」
「謝らないで……私の精神が弱いばっかりに、起こったことだから……」
「……身体の方はどうだい?」
「蒼薬を打たれた直後は、高熱に冒されたけれど……二度目はそういうのが起きなかった」
「本当かい? 外見の変化とかは」
外見の変化、月石天音を襲った反応に似通った現象である。外見的特徴の変質、蒼薬にはその可能性がある。人体的なもので、発疹や極度の乾燥。重度の場合は、天音のように生物の枠を超えてしまう――。
「大丈夫だよ、ちょっとまだ情緒が不安定だけど……それ以外は」
咲来は彼女の表情を診察するように見据え、頷く。
「わかった、何かあったら病院に……といっても今は駄目だけど、きっと探せば受け入れてくれる病院がある筈だから」
そう言って、彼は立ち上がる。
「……行っちゃうの?」
「ああ、僕はね。今の篠崎さんには倉島さんが必要だ。僕は退散するよ」
そして、未だに倒れる斎藤を睨みつける。
「これでもう、斎藤が何か篠崎さんに仕掛けることはない。蒼薬騒動も沈静化してくれると有難いんだけど、兎も角事態は前進した……あとは僕に任せてくれ」
そして責任をもって、彼が齋藤を担いでその場から去っていく。
去り際の咲来の背中は、奏音にはどう写ったのだろうか。
だけど、愛華にもわかることはあった。
奏音の強張っていた表情が……ほんの少し柔和になった気がしたのだった。




