「本当の地の底」
立ちはだかった愛華を前にして、より一層に面倒がる顔を露わにする斎藤は鬱陶しげに自身の髪を雑に搔きむしりながら
「お前……倉島愛華か」
斎藤は漸く気づいたかのような言いぶりで、彼女を認知する。
対し、愛華はただ一心で斎藤の前にたち、強く彼を睨みつけていた。
両者の間に強張った空気が張り詰めるが、先にその緊迫を壊したのは意外にも斎藤自身で、彼は突然破顔したかと思えば
「よくわかんねぇ、掴みどころもねぇのに……委員長とは随分と仲良くなったもんだな」
一度だけ、愛華を嘲ったと思えば
「どけ」
やけに強く、毅然たる態度で彼女にそう命じた。あたかも自身の行為に一切の罪悪感を抱いていないかのような、そういう純然な意識を感じられて、それがすごく不快で--愛華は顔をしかめる。
愛華は立ち退くつもりはなかった。 今まで以上に両手を広げて、より強く犯行の意思を見せる。今の彼女を、一人きりにさせてはいけない、愛華のその強い意思が彼の相反する意思とぶつかり合うのだ。
だけど、斎藤が辛抱ならなくなるのはあまりにも早かった。
「邪魔なんだよっ!」
斎藤は構わず彼女の顔面に打撃を与える。小柄な愛華は簡単に横に吹き飛び、倒れる。
「やめてっ!」
力いっぱいに奏音は叫んだ。だけども、そんなか弱く、か細い声なんて激昂した者たちには届くわけもなく消えてしまう。
その間に、取り巻きが彼女の身体を担ごうとするも、愛華は諦めない。彼女は近場の石を拾い上げて、微弱な力ではあるがしっかりと狙いを定めて、取り巻きに投げる。
それが正確に彼奴らの脚や腹部に衝突し、彼らの行動がワンテンポ遅れる。その間で割って入って愛華は小さな体で私を担いで逃亡を図ろうとするも、斎藤がそれを許さない。
「ちっ……」
彼は生来の短期さで、それでいて病院理事の唯一の子息というのもあって、傲岸不遜を顔に書いたような人間だ。だからこそ、自分の為すことのみが絶対で、棹差す行為に激しく怒りをもよおす性格をしている。
そんな彼にとって、今の愛華の行為は腹立たしいことこのうえなかった。
いっそ、彼女にも蒼薬を投与して黙らせたかった。が、流石の彼とてそこまでの自由は保障されていないのだ。
病院長の息子という立場は、彼の暴虐無人ぶりを黙認させるのに十分だった。一連の暴力的な側面も、授業に不真面目な側面だろうと……彼を放校させられる人物はいないのだ。一部で、彼を危険視する教師が過去にいないわけではなかったが、総じて左遷処分となった。
が、それでも蒼薬の無暗な使用だけは憚られた。
それは偏に蒼薬という薬が合法と違法の狭間を行き交う薬物であるというのが大きいからなのである。 違法指定されてしまえば、彼を始めとした悪人の資金源が一気に叩かれてしまう。そうなっては--彼一人の責任に負えなくなってしまう。
「先にこいつ眠らせるぞ」
だけど裏を返せば、それ以外であれば、例え過度な暴力行為でも――学内であれば何も言われない、誰も言えないのだ。
斎藤が詰め寄って、愛華を突き飛ばす
「愛華っ!」
愛華はがどうなったか、奏音の危惧は一気に悪化を辿る。
「愛華!」
それは、身体に傷を作りながらも私の前から動こうとしない愛華の姿があった。 何度吹き飛ばされても即座に起き上がって奏音の前に戻り、何度だって何度だって斎藤の前に立ちはだかる。何度その身が薄汚れようとも最初に作った反抗の姿勢を一切解く様子はなかった。
だけどそんな彼女の姿に耐えられなくなった。奏音は痛む体に鞭打って愛華の横に移り、彼女を止める。
「駄目だよ愛華……愛華は関係ないよ、だから……」
「奏音、早く、逃げよう?」
愛華は自分の傷よりも、奏音の精神や体が回復したことを優先した。
瞬間、斎藤の脚が、愛華の脇腹を突く。
彼女は思い切り咳き込み、四つん這いに伏す。口からは唾液が零れ、呼吸も荒い。
このままでは、彼女にも後遺症が残ってしまう。
「斎藤君やめて! このままじゃ愛華が――」
「しゃらくせぇ!」
彼は、今度は奏音を平手打ち、倒す。
「もうめんどくせえな……」
彼は面倒臭さを隠すことなく、髪を雑に掻きむしっている。
「おい、蒼薬用意しろ」
「いいんですか……?」
「構わん、もう一人も二人も関係ない」
その声に、彼女はいてもたってもいられなくなる。
彼は本当にやる、愛華に対して、私に行ったような悪逆を繰り返すつもりだ。
彼に迷いはない。
彼の考えるより先に行動してしまう、短絡的な性格が、今までの行動がそれを裏付けている。
斎藤浩二は誰よりも悪人だ、私はそれを否定できなかった。だけど、その悪名に恥じぬ誇りもあった。 嘘は言わない、有言実行を信条にし、虚勢を張ることはない。
それが、奔放の限りを尽くす彼の後ろに人が集う理由でもある。
だが、それは今、脅威にしかならない。
愛華には純真でいてほしい、好きな人と初めてを迎えてほしい。私のように……精神を破綻しないでいてほしい。
だから、奏音は愛華を守るために全てを捨てた。
彼女が選んだのは、土下座だ。
もう外聞なんて、些事なものに囚われている暇はない。
「お願いだから……やめてっ」
斎藤は驚きで驚天のあまり、目を大きく見開いてしまう。
「私をどうしてもいい……慰めものにしても、ストレスの捌け口にしてくれてもいい……だから……だからっ、私の大切な人を……傷つけないで!」
斎藤らからしたら、さぞ滑稽だろう。
だけど、なりふり構う暇はなかった。愛華を、守るんだから……こうするしか、彼女には道がなかった。
するとやっと言葉が届いたか、彼の表情が綻んだ。
「そうかよ……じゃあ、こいつを連れてけ」
斎藤の取り巻きが、私を乱暴に連れて行こうとする。
「奏音――」
「大丈夫」
ついてこようとする愛華を止める。
いいんだ、これで愛華を守ることができるのだから――向かう闇に対し、奏音はそっと瞳を閉じた。
救いは其処にはない。
ここは地の底だ。
体育館倉庫、幾つもある中でも水泳具を専門に置かれたこの場所に、冬が近づいたこの時期に立ち寄る人はそういない。部活時間になれば、話は別だが、今は正規授業中だ。誰も来るはずがない。
何があったか――昨晩と然して変わりようがない。
抵抗すれば殴打が襲い、失神すればプールに顔を沈められ、強制的に覚醒させられた。
そしてある段階で、昨晩よりも多量の蒼薬が投与されて、
もう奏音は後半以降の出来事を覚えていない。
痛みも、抵抗の力も途絶えた私は物言わぬ汚れた人形と同じ。
いっそ、完全に壊れて、死んでしまいたかった。泡沫のように溶けて消えれば、どれほど楽だろうか。だけど現実は簡単に自壊という逃避を選ばせてくれないようだ。
性懲りもなく、目を覚ます。
それは地獄が継続されることを意味する。
「まな、か……?」
真横で、彼女はまた、身体を拭いている。 昨日よりも酷く目蓋を腫らしている。
「ごめんね……心配させて」
「謝らないで」
彼女は奏音の頭部を自分の膝に置く。
「ごめんなさい……守れなかった、奏音を」
「ううん、そんなことないよ。必死に守ってくれた」
感謝しても、しきれないし、愛華を守れてよかった――自分のことよりも、奏音は真っ先に愛華を庇っていた。
「はは……うまいこといかないね、現実って……」
そう、悪い現実というのは積もりに積もるもので――それだって現在進行形に悪化していくものだ。
だけど一度地の底に落ちてしまえば、もう落ちることはないはずだ。
そう、絶対にないと彼女は確信していた。それなのに。
「これは……何があったんだ?」
扉の先には、咲来蓮人の姿があった。
「斎藤君が……篠崎さんが呼んでいるって」
「咲来……君?」
これは、斎藤の差し金――冷静さを欠いた彼女でも即座に理解できた。
奏音は勘違いをしていた、というか見間違えていた。今までこそが地の底だと失念していたのだ。まだあった筈の本当の地の底を思い出し、わなわなと震えが止まらなくなる。咲来に現実を知られること、それこそが本当の終わりではないか。
私が恋慕を抱いていることを何時の間にか掴んだか――完全に終わらせに図った。
「あ……」
――何がおかしかったの?
「ああっ……」
「奏音……?」
「あああ!」
奏音は、身体を埋めて、声が止まらなくなる。
「ああっ……ああああ!」
「奏音……奏音!?」
――私が何をしたというの?
――間違ったことをしたの?
――誰かを、困っている人を救おうとしただけなのに……。
堰き止めていた、最後の防波堤が……音を立てて崩れた。
篠崎奏音は今日、壊れた。
好きな人にも、大切な人にも全てを知られてしまった。
――私はただ……泣いている人を、笑顔にしたかっただけなのに。




