「匣の中の少女」
いつも応援ありがとうございます!
励みになります!
今日も、早朝の学園近辺は多くの学生の談話や笑い声で満ちていた。
世間に出ていない少年少女は社会の本当の過酷さを知らない。だというのに、些事が掃いて捨てる程にあって――それに延々と悩み続けている。だけど結局は、簡単に解決できるような問題しかなく、数日前にこの世の終わりのように思い悩んでも、数日が経過すれば何事もなかったかのように元気さを取り戻すのだ。
ことさら朝の、通学時間に関して言えば、その能天気さの傾向は極めて強かった。五月蠅く叫ぶ教師もいなければ、執拗に迫る親もいない……完全に自由な時間。だからこそ、学生の間に明るい感情が強く芽生えているのだ。
だけど篠崎奏音にとっては正直なところ、足取りは酷く遅く、気分がに落ち込んでいく一方だった。
隣には愛華がおり、彼女が手を引いて奏音を先導してくれている。衣服は、彼女の制服を借りた。といっても、着古した制服は着用できなかった。何故なら胸囲で服が拡がっているものだから、彼女が着ると、あまりにも布が余るのだ。だから新品を卸すこととなった。
「奏音?」
「だ、大丈夫……」
大丈夫、なんて言葉は虚勢以外のなにものでもない。平気なわけがない、今にでも奏音の虚弱な心身はずたずたに引き裂かれそうだ。あの夜、あの場にいた男性の半数以上が、彼女の知らない人だった。だからこそ周囲にその一味が潜んでいるではないかという、余りにも荒唐無稽な恐怖が私を委縮させている。呼吸が不規則になるのを抑えつつ、震える足取りで学園へと向かっていくしかなかった。
「篠崎さん?」
「!」
後ろからの男性の声に、不自然な驚きを見せてしまった。
「その声は……咲来君?」
「おはよう、篠崎さん、倉島さん。どうしたんだい、篠崎さん、元気がないようだけど」
「大丈夫、だよ」
「そうかい? 凄く顔色が悪いようだけど……」
彼が心配で顔を近づけようとするが、寸前で勢いよく逸らしてしまった。
「っ――」
奏音にとってその行動は間違いなく無意識だった。自身の意思での行動を取るよりも前に、こともあろうか咲来蓮人を避けてしまった。
その事実に、彼女の頭は収拾がつかずに――この場に留まることができなくなって、
「ごめんなさいっ」
無言で駆け出してしまっていた。
校舎裏の、比較的人通りの少ない水道まで走り、そこで奏音は腰を落とす。
――咲来には悪いことをした。
彼が、昨日あの場にいる筈がないのに。だというのに、男性が傍に寄った瞬間、浮かんだ。あの男たちの醜悪な一部を、異臭を放ったそれが、自分を犯したことを。
「うっ……」
気づけば彼女は路肩で戻してしまった。愛華と朝食で頂いたものを全て、吐瀉してしまっていたのだ。
(駄目だ、ご飯を食べても……)
これでは意味がない。何をしても、考えても――思い出したくない存在がどうしても頭を離れないがために……何もできなくなっている。
気づけば、愛華が隣にいて、彼女の背を懸命にさすってくれている。
「ごめん、なさい……ごめんなさい……」
――私はなんてことをしてしまったのだろう。
――私は狂ってしまったのか?
一時は確かに恋慕を抱いていると確信していた相手に対し、まるで俗物と接するように……最低な態度をとってしまうだなんて。奏音は自分が憎く、許せなくなっていた。自分は人として、あってはならないことをしてしまった、そう責め立てた。
怖い、怖い、怖い。
いつからか、予想以上の傷となっていた恐怖はひしひしと彼女の臓腑を蝕んでいることに、恐怖が抑えられないでいた。
「あんなに、あんなにちゃんと洗ったのに……まだ、汚いのが、取れていないの」
そう言って、奏音は自身のハンカチで激しく地肌を擦る。
擦る度、赤く腫れて、傷になる。それでもなお、粘液が取れる気配はない。
「こんな汚い姿、見られたくない。見てほしくない……とらないと、汚れた私を、綺麗にしないと……」
血が滲み、ハンカチを染める。
「奏音、駄目」
愛華は擦る腕を、両手で掴んで止めた。
「もう十分、綺麗」
「綺麗なんかじゃないよ、見てよ、ほら」
奏音の手にはびっしょりと奴らの体液がこびりついているではないか。
「汚れてなんかない、綺麗」
彼女は、奏音を座らせ、自身の額をこつんと私の額に優しくぶつけた。
すると、急速に思考が明快になった。
「あれ……私、何を……っ――……」
冷静になって、自身の手が酷く爛れていることを知る。
「愛華……私、もしかして……またおかしくなってた?」
天音の現状を知った時から時折発症する、幻覚的な何か。昨晩から、その傾向がより一層に強まった。昨晩は実は、眠ってはすぐに震えから目を覚ますというのを繰り返してしまっていた。
「私……蒼薬で、おかしくなったのかな……?」
考えられる節は、そこにしかなかった。
精神が、私の及び知らないところで暴走しているようだ。私が、私でなくなる感覚が……痛み越しに強まっているのだ。私の中で何かが変わりつつある――それが怖くて、悲しくて。
そんな私に対して愛華は何も言わなかった。ただ私を抱きしめて、私を安心させようと――。
「とりあえず……保健室、行かないと、ね……」
咲来にも謝罪をしなければいけない。
あんなこと、あってはならないから。
だけど私は世界に嫌われている。
そう断言しざるを得ない程に運命というものは私を捕まえて離そうとしなかった。
「委員長じゃん、昨日の今日だというのに、真面目だな」
「――――」
斎藤浩二が、私が此処に来るのに使った唯一つの経路からこの場所にやってきた。
複数の……他クラスの男子生徒を引き連れて。
「奏音、行こう」
愛華は斎藤を無視していこうとするも、斎藤らは立ちはだかって通そうとしない。
「なぁ、委員長、そう邪見にすんなよ」
斎藤は興奮にも似た喜悦の表情を浮かべて、私の耳元に顔を近づけて、嘯く。
「また昨日の晩みたいに、遊ぼうぜ?」
「ぃっ――」
気づけば、私は地を転がるように逃げ出していた。
だが、前後不覚になった私は満足に走ることもできずに転倒。起き上がることさえも忘れ、地面に体を引きずっていた。
「いぁっ……ぃや……あああ……」
這いずる毎に、衣服には汚れがついていく。
その様を見て、存外でもない表情を浮かべていた斎藤は私をゆっくりと追いかけ始めた。
「こないでっ――いや……ああああああ!」
今思えば――これは発狂といってもよかったと思っている。
正常な思考が働いていない証拠だ。
退路は、彼らが来た道にしかないというのに奥へ奥へと逃げ込もうとするのが、紛れもない事実だ。
「いやっ――いや、いやだいやだいやだいやだ!」
気づけば、私は意味がないというのに、壁を爪で掻きむしり始めていた。
退路を作ろうと……そう考えていたかは、冷静時の私ではわからない。
「奏音!」
愛華が叫んで、私のもとへ駆け寄る。そして私の上に覆いかぶさるように庇う。
愛華の行動に然したる興味を抱いていなかった斎藤は、ただ延々と私を値踏みするような、そんな理解不能な眼差しを送っていた。
「随分と派手なトラウマになったもんだな……いや、まてよ」
斎藤が瞳を閉じて、一つの浮かびかかった予想をまとめる。
「蒼薬切れか? 依存性は人それぞれだが、委員長の場合激しく出ているってわけか」
ふむ、と一考し始める斎藤を見ることのできない私は、遂に掻きむしる爪を赤く染め上げて、地面に蹲ってがたがたと震えるしか、為すことがなくなってしまっていた。
「ならまた打ってやるか、よし、こいつを体育倉庫に連れて行くぞ」
「駄目」
愛華が、身動きの取れない奏音の前に立ち、両手を広げて近寄るのを阻止した。
愛華と斎藤、体格差は一目瞭然だった。二頭身以上の身長差がある二人が相まみえると、愛華がとても小さく見えた。
わかっている、愛華自身も、自分では大した力も出せずに、斎藤を止めることはできないと。
だけど、倉島愛華は逃げ出さなかった。
背後に隠れる奏音にとって、その愛華の背中はとても頼もしく、自分よりも小柄な子だというのに――とても雄大に見えたのだった。




