「倉島愛華は不思議ちゃん」
はい、お前本当にカノンか?
と思われる方は多いかもしれませんが、正真正銘カノンです。信じてください。
霧谷の言う蒼薬なるものを奏音にとっても初めて耳にする名称だった。
合成麻薬や危険薬物等の俗称を保健の授業で粗方学習済みだけど、斯様な呼称をする薬物は未知なるもので。日々法の抜け穴を掻い潜るために新たな効用のそれが開発し、頒布されてしまっている事実を加味したとしても――この情報化社会に全くの未知の薬物の儘存在できるものだろうか? と彼女は疑問に思う。
何処にも被害が及んでいないというのならわからなくもないが、小規模的とはいえ既に複数の被害者が深刻な様態となっているというではないか。当然ながら警察組織もその実態を掴んでいる筈なのでは?
掴んでいるというのならば、霧谷が頭を悩ませる余地なんて必要ないくらいに足早に淘汰されて然るべきだ。
「先生、その薬の使用による症状と副作用は?」
「現在確認されているのは使用することによって“幻覚”、“発熱”などが初期症状だということさ。酷いケースだと精神が完全に錯乱して、人にとっては性格が反転したかのように凶暴化したという例もある」
「そんな……どう考えてもあってはならない薬物ではないですか」
「その通りなんだ」
「警察は……勿論動いていますよね」
「ああ、だけども見つかるのは既に中毒患者となった人のみで、その薬物自体の出所は依然として発見されていないんだ」
(そのようなことがありえるの?)
まさか売人は通常の小間使いではないというのか――斯様な薬物売買では元締めがかなり複雑化しているため検挙が難しいと聞く。大抵はそれらの元締めに命じられただけの、一時の小遣い稼ぎでしかない売人を捕まえて、それらの自供をもとに捜査は進められる。
だというのに一切の進展がないというのはどういうことか。
「中毒者の身体からは症状だけは残るのに、薬物は検出されないという溶解性が末期中毒以前の初期症状を発見出来ない要因なんだと思う」
「初期症状……例えば幻覚とかが発症したら、全員がそうでなくても病院に行く人はいると思いますが……」
「だけど篠崎さんもそうだと思うけれど、幻覚が出たからいきなり採血検査はしないと思うよ」
「……成程」
初手はだいたい脳波とか、そういった類の検査が基本だろう。
ましてや単なる発熱だけなら満足な検査もせずに処方箋で様子見が関の山かもしれない。
「ここだけの話なんだけど、僕はそれを……入手してしまった」
「えっ――だったらすぐに警察に――」
「駄目なんだ、先にやらなければいけないことがあるんだ」
「どういうこと、ですか?」
「これは信頼している学生さんにしか声をかけていないことなんだけどね――協力してくれるかい?」
「私、ですか?」
異世界に転移した今の奏音であれば――これ程胡散臭い話、どうして信用できていただろうか。結局のところ、後悔というものは先に立たず、とは実はこのことのようなことで。
だけどどうしてか、当時の奏音はそれを霧谷の切実な願いとして取り扱ってしまった。
彼が再度昼休みに指定する部屋に出直してほしいという要求を、何ら疑うことなく飲んでしまった。
奏音が予鈴前に教室に足を運ぶと、生徒は概ね登校しきっていた。
彼女の知る限り、この学園に目に見えた不良はいない。確かに素行に少し難ありな生徒も一定数いるし、それらの学生が生徒指導を始めとした教師陣を悩ませているのもまた事実。彼女も、積極的に注意しているのだけど、それでも限度があるから悩ましい。
だけどそれでも奏音は信じていた。
すぐにでは不可能であっても、ゆっくりと時間をかけて対話をすれば、言葉は届くと。
「いいんちょ、おはよ」
「おはよう、斎藤君」
彼の名は斎藤浩二。
髪型は今風なオールバックというのだろうか、橙の髪は常に色落ちをしないあたり日々の丁寧な染め上げが見て取れる。当然校則違反であるが、教師の言い分は彼には届いていないようだ。
彼の問題点は外見的なものにかかわらず、学業面でもまた悩ましい箇所が多い。
「……まさか斎藤君、今日も?」
「ごめんごめん! ちっと昨日は忙しくてさぁ」
何とも嘘くさい笑い顔を彼は作る。
「毎日そうじゃない……」
そう言って奏音はノートを差し出した。
「でも明日こそはちゃんと――「ありがとっ! この恩は忘れないからよ!」
小言を言い終えるよりも早く、彼は駆け出して行った。
「もうっ」
「怒りたいのはこっちの方よ」
「えっ?」
声をかけたのは、天音だった。天音はもう何度目か、呆れかえった表情で奏音を見つめる。
「あんな奴に見せてやる必要はないわよ」
天音は、比較的斎藤を始めとしたグループを忌み嫌っている傾向が強い。加えて天音はわりかし歯に衣着せぬ物言いもあって、時折対立が見られる。
「でも、せっかくやる気になっているんだし……」
「あれのどこがやる気になっているというのよ、方便よ、お得意のね」
級友にそんなこと言うものではない、喉元までその言葉が浮かんだが、彼女は止める。天音とて私憎しで述べているわけでもないのだから、複雑な話だ。
「というか奏音、貴女また雑用させられてたの?」
「雑用? ああ、先生の手伝いならね」
「言っても無駄かもしれないけれど……程々にしときなさいよ。まぁ、貴女ではなくて霧谷に言うべきかもね」
彼女は既に私に対しどことなく諦観の念を抱いているようで、それはそれで心外でならない。
「っと……」天音は扉の側に視線を送る。
桜色の瞳は常に煌めいており、虹彩の中にはいつも星が浮かんでいるような強い輝きを持つ。
今日も今日とて、胸部のぎりぎりの場所までボタンが外れており、中学三年生にしてはやや育ちすぎた乳房が制服のシャツを圧迫しつつある。奏音が若干コンプレックス的に意識しているのは彼女だけの秘密だ。
「おはよう、倉島さん、ちゃんと到着したんだね」
奏音が彼女の目を見て挨拶すると、
「おはよう……?」
澄んだ音色だけど覚束ない挨拶を返した。
「またボタンが外れているわよ、この学園には悪い人はいないけれど、警戒しなきゃ」
「感謝……ありがとう。委員長、遅刻……?」
「違うよ、少し手伝いをしてたの。よし、つけたよ」
彼女と別れようとしたとき、彼女の口元の様子に気づく。
「あ、待って」
「……?」
「ほらこっち向いて、口に朝ごはんがついたままだよ」
そっとハンカチを取り出して、彼女の口元を拭いた。
彼女の世話を終えると、彼女は虚ろな視線の彷徨わせ、風に身を任せるが儘、自分の席まで歩いて行った。ふらふらと肩を左右に揺らせて歩くさまははっきり言って危なっかしい。いつ転倒してもおかしくないのだが、不思議な平衡感覚を保つ彼女は一度たりとも転んでしまうことはなかった。
倉島愛華は少し変わっている。会話下手なのか、滑らかに文章を紡ぐことを得意としない。意味は通じているから無理に改善する必要はないと奏音は思っているが、
「……あの子、ほんと相変わらずね」
時には受け入れ難い人もいるわけで。
「倉島さんは悪い人じゃないよ」
「いや、まぁそうなんだけどさぁ……そりゃ、ぶりっ子のそれとは違うし、たぶんあれ天然だし……そうじゃなくてなんというか……」
「でも今朝はびっくりしたよ、野暮用なんだと思うけれど私の近所まで来てたの」
「ええっ、ほんと?」
「うん。でも道に迷ってたらしいから駅を教えてあげたんだ。少し心配だったんだけど無事到着してよかったよ」
「えええ…………」
何故彼女が呆れているか、奏音にはわからなかった。
「それに嫌いってわけじゃないんでしょ?」
私の問いに、彼女が被りを振ることはなく、遅れて頭を振る。
「ね? 倉島さんってどことなく愛玩動物みたいで可愛らしいじゃない。きちんとお礼も言えるし、面倒見があるっていうか」
「貴女、今にダメ男にひっかかりそうね」
「貴女が言う? それ」
何をっ、と軽く拗ねた天音は私の頭をこついた。
しかし怒こっている様子ではない。単なる冗談という奴である。
そのあと天音は沈黙した――少し言葉を選ぶのに苦労しているのがわかる。が、数秒し、それさえも面倒になったか一度だけため息をついて、
「奏音は人を信用しすぎなのよ……疑うことだって覚えないと」




