第36話「アニスの最期の光」
ここから数話は閲覧注意ゾーンです。
結果は既に前の話で提示しているので蛇足かとも思えましたが、その後のカノンの怒りをより強くするために挟ましていただきました。
少女アニスは日々の手伝いに励んでいた。
労働、というには見合った賃金が発生しないが……カノンとは異にする性質を持つ彼女は人々の笑顔が広がるのなら、多少の無賃金労働であろうが是に思うようだった。
雇い主側も、流石に彼女の厚意に甘えきるというのも顔が上がらないというもので、外聞も余りよくない。というわけではあるが、露骨に金銭授与を行ってしまうのも又、アニスの情操教育を阻害する要因になってしまう。雇い主側は考えに考えて、捻りだした結論というのが、三食の保証と多量の菓子類である。
そして特に彼女が精を出していたのは憲兵の真似事なる行為だった。街の風紀を律し、市井の平穏を維持する――生来の生真面目さが売りのアニスにとってはこれ以上なく合致する手伝いともいえよう。また、彼女の持ち前の活発さ、そしてそれに後れを取らない爛漫さが、これまた士気が低下しがちの憲兵らを自然と鼓舞しているようで、彼女は労働を始めてまだ間もないというのに早くも憲兵団の広告塔或いはアイドルになっているようだった。
ただ、幾ら大人気の存在だとしても憲兵らの中に当たり前だが倫理なるものはあり、彼女を誰も街の外に出そうとは思わなかった。彼女はまだ十歳にも満たない少女、憲兵として治安維持に従事する者の中ではアニスと年ごろが変わらない子息を持つ者だっている、だからこそ、何があっても平和が維持されていると疑ってやまない街の中で、彼女を活躍させてやろうというのが憲兵たちの中の暗黙の了解であった。
そう、何があっても街が安息を脅かされることはないのだ。余程のことがない限り、例えば街の外の盗賊団が居場所を失い、残党が街に流入したことによって勢力図の均衡が崩れないという前提があってのことだが。
「アニスちゃん、おはよう」
どれ程に疲弊で気分が沈んでいようとも、元気に駆けるアニスの姿を見ると自ずと表情が綻んでいった。アニスは特にその幼女としての気質が強く、故に愛されるわけである。常に妙な緊張や気配を放出しているカノンとは大きな違いである。
「おはようございますっ!」
加えて、彼女はどのような相手にでも気後れせずに溌溂とした挨拶をするものだから、如何に気難しい人間でも彼女には真摯に答えざるを得なくなる――それがいつの間にか習慣化し、アニスとの交流がなければ一日が始まらない、とまで言い出す兵士がいるくらいだった。
彼女の一日の始まりは、憲兵の詰め所にいる、交代しつつある夜番の守衛さんに挨拶に始まる。いくら平和な都市とはいえ、夜となると憲兵がいなければ少しばかし騒がしくなりかねない。街の外の流浪者が無遠慮に門戸を超えられては治安の低下に影響するし、夜になれば酒癖の悪い人間が乱痴気騒ぎを起こすことが多い。また、騒動を起こす人間というのは総じて気性が荒かったり、腕っぷしが嫌に強かったりするものだからある程度腕に自信がなければ制圧できなかったりするわけだ。
だから夜番は憲兵の中でも、腕に自信のある人員が選出される割合が高い。それらの珍事を阻止する重要な役割を夜番は有している。それに対し、朝番はその責務がなく、夜番に比べると多少の練度の差がみられる。流石に昼間から泥酔し、暴れる人はそういないのもあるからだ。
彼女は憲兵の固まった制服を着用するのではなく、学院の制服に、憲兵であることを証明する腕章のみを装備して、街のパトロールに当たる。アニスに課せられた仕事は、背に通常の籠を背負ったうえでのゴミ掃除である。ごくまれにポイ捨てをする人に対し、注意啓発活動を行う程度、危険なことはそうないのだ。
また、街の住人への挨拶回りも彼女の重要な役目である。
人々の僅かな変化に気づくことも、街を守る者の大きな責務である。また、この世界はカノンのいた世界のように通信技術が発達していないので、これらの地道な活動が意味を為すわけである。
挨拶をし、時折清掃活動に励んで、昼食と休憩をはさむのが彼女の日中の活動であるわけだ。そうこうしていると、あっという間に日は傾き始め、彼女の仕事は終わりになる。
「ありがとうございましたっ!」
彼女は疲弊の様子を、決して誰にも見せなかった。まだ七歳になって満たないという少女が一日中歩き通すのは聊か酷な話だというのに、彼女は一度とも弱音を吐く様子はなかった。
腕章を担当の人に返却し終えた彼女は、足取りも早く夕食の待つ寮へと帰ろう、その気持ちで胸がいっぱいだった。腕章は彼女の誇りであるし、自分の正義感を強く認識させる重要な存在だった。だからこそ、彼女は弱音を吐かない――自分が弱音を吐けば、その腕章が間違いなく汚されてしまうと思って止まないからだ。
そして、返却後、彼女は従来の学生に戻る。
宿題は無事終えているため、あとは復習だけだ。一日たりとも呆けている暇はない。少しでも呆ければ、級友のあの子に後れを取ってしまう。
別に対立したいわけではなく、親睦を深めたいだけなのだ。彼女に肉薄する成績を取れれば、きっとカノンと仲良くなれる。アニスはそう確信していた。
と、寮も近づく最中、怪しい動きをする男性たちの姿が見えた。見るからに挙動不審で、寮の周りを観察しているように思えた。それがアニスにとって、不思議でならなかった。だから、彼女は不思議を探求するように、その者達の姿を追ってしまった。
寮の外れ、建物と建物の狭間。暗がりで、朝昼晩の固定された時間、食事を提供する店の人間がゴミを決まった場所に投機するくらい頃合いでしか人が寄り付かない。そんな場所だからこそ、不審者の温床となるのだが、アニスにはそこまで思考が至らなかった。
アニスが人生の終末に見た景色は、湿気の高く、薄暗い光景なのだった。
アニスが瞳を開いたとき、其処は微かな光のみが差し込む場所だった。
「ここ、は?」
身動きは取れない。足が、分厚い金属の拘束具で固定されており、壁に繋がる鎖の可動範囲は余りにも少なく、最低限寝返りを打てるかどうか程度だ。
何よりも、地面が余りにも汚い。学院の施設で慣れ親しんでいた彼女からすると、雲泥の差がありすぎて、若干の嫌悪を抱いてしまった。いけない、どんな場所でも失礼にしてはいけない、彼女はこんな状況でさえも自分の親、教師達の教えを守ろうと必死になった。しかし、気づく。自身が制服を纏っていないということを。草臥れ果て、汚れ切った布を無理やり裁断し、巻いただけの粗末なものだ。
何かが、何かがおかしい。
アニスは漸く自分の身に尋常ならざる事態が襲い掛かっている自覚を持つ。
先ず、彼女が今いる世界は狭苦しいものだった。せいぜい二メートルあればいいくらい、そして眼前には鉄の格子がはっきりと確認できる。自分が牢屋に収監されていることを、アニスは認めざるを得なかった。当然、彼女は声を絞り、助けを呼んだとも。が、虚空に何度かこだまするだけで、それ以上もそれ以下もなく……彼女はより寒気を強く感じるだけなのであった。
そこに、男が来る。
それは記憶が途絶える直前まで観察していた男たちに他ならないものだった。
男は直ちに格子の扉を開き、狭苦しい牢屋の中に侵入してきたのは、他の男に比べると高価なスーツを着飾った、中年男性だった。よく肥え、脂ののった貌には下卑た醜悪な笑みを浮かべ、彼女を品定めするようだった。アニスには、この後、自分の身に何が起こるのかを認識する程の知能はなかった――無理もない、彼女はまだ入学間近の少女なのだから。
「ここは、どこですか?」
アニスは、懸命に周囲の人間に対し、訴えた。
「貴方たちは、誰ですか? 私の身に何があったのですか?」
あらゆることを問うたが、返答はない。それどころか、顔に露骨な不快の念を浮かべた付き添いの男の一人は、勢いよく彼女の顔面に拳を打ち込んだ。
「ぎゃっ――」
体重を乗せた、堅気には出せない一撃をもらったアニスは全身を揺らし、血を吐きながら地面に打ち付けられた。その時点で、彼女の意識は絶え絶えだったが……大男は何度も彼女の顔面に執拗に打撃を放ったものだから――完全にアニスは失神。白目をむき、乳歯はぼろぼろと崩れ、吐血と泡が混じった様相となった。その醜悪な表情を受けてこの場で一番の地位を有する中年男性はその醜悪な貌に喜悦の様を浮かべ、汚らしく笑う。
そして、アニスの処遇の権利の全ては、その男に譲渡されたのだった。




