「最後の因子 後編」
カノンの中の最後の”何か”が完全に崩れる回です。
残された最後の親族との再会だというのに、この日記帳の記述が頭を離れなかった。
欠かさないで何年も継続していた母さんの日記が途絶えるなんて異常なことだ。
それに、凡そ日記の文章として体を為していないあれは明らかに精神的な何らかの病理を患っていることは確定的だった。手首に何本も引かれた線がそれを更に明白にしている。
それに、“殴られた”という描写から……
「暴力を振るっていた、それに……この書き方では」
「今まではそういうことは?」
「なかったよ」
確信をもって言えた。
「それこそ私が冤罪をかけられる直前までは夫婦喧嘩さえもなかった――仮初の関係性とはいえ、表面上は仲睦まじかった。でも、この文章を見る限り」
――父さんが、母さんを殺した?
(死因が絞殺ならば縊死に仕立て上げることだってできる)
そうこうしているうちに、足音が近づいているのに漸く気づく。
が、逃げる機会は完全に喪失していた。
既に父は室内へと入っており、父母の寝室に私たちがいることを発見する。
「奏音っ――お前、奏音か?!」
部屋に姿を見せたのは、父であることは確かなのだが、その風貌に最後に見た時のような生真面目な会社員の様子は何一つと残っていなかった。中途半端に出ているよれたシャツにくしゃくしゃな寝間着のようなパンツ。整髪をした様子も見られずに跳ねだらけでフケが随所に目立つという社会人としてあるまじき佇まいだ。若干の脂汗による異臭も際立ち、彼がいつかのタイミングで通勤さえもしていないことが容易に窺える。
其処にかつて憧憬を抱いていた父の像は存在しなかった。
「お前のせいで、お前のせいで俺は会社を――」
癇癪を起したように手に持っていた種類の空き缶を私の真横に投げる。
「っ――」
その言葉で父の現状を理解するに至った。
私の騒動は会社にも伝い、父の社内での信頼が失墜し、その結果左遷されたか、遠巻きに退職を勧められたか――その結果が顕著に表れているということなのだろう。
が、私はというと斎藤やその一味を仕留めた時のようになりきれずに、たたらを踏むばかりで前進できていない。それを見て動き出したのは愛華で、
「やめて」
彼女は両手を広げて私の前に立ち、静止を促した。が、
「誰だお前、邪魔だ!」
誰にでも優しく、を信条に抱えていた筈の父は、一切の躊躇もせずに愛華の顔面に拳を深くめり込ませた。すると愛華は半回転し、布団に顔から落下した。
「父さんやめてっ――」
私はというと実の父の豹変ぶりに足が竦んだというのか、その場で体を震わせて叫ぶことしかできなかった。
「愛華はっ、愛華は関係ない――」
「黙れ!」
父は自身のポケットに入れていた硬質な財布を乱雑に投げると私の頭部を掠め、私はというとその場に倒れてしまう。
(何故?)
「奏音は、何も、やっていない」
愛華は体を這わせて父の脚に縋りつくか、彼は愛華の顎をそのまま蹴り抜くように彼女を飛ばす。彼女の華奢な体は簡単に転がって、壁際まで叩きつけられる。
(何故もう何人も殺しているのに――ただ父さんが怒鳴っただけで、私は硬直しているの?)
もうわかっている筈だ
ここに居場所なんて、端からなかったことに。だというのに。
父だからなのか?
でも、目の前の相手は……私の大切な人に暴力を振るった。それだけではなく、母さんさえも。
「父さん」
だけどそんな事実とは裏腹に、簡単に仕留められる獲物がこの場に沢山とあるのがわかっているのに私はそれらを何も使わずにただ丸腰で迫っていた。
「やめてっ……愛華に暴力を振るわないで!」
魂の限りの絶叫を父に対し投げかける。が、顔を赤くさせ怒気を露にする父には何も届かない。
「私なら、いいから――愛華だけは、解放してよ」
「お前――実の父よりもこんな気味の悪い女を――」
「今、なんて――」
それを言い終えたころだろうか、父の眼がぎょろりと私の方向に動き、ぴたりと止まった。
血走った目とはこういうことなのだろうか。
瞳孔が不規則に揺れ動き、焦点が定まっていないその有様は“血走る”という表現以外に思いつく言葉がなかった。
「奏音、それほどこの気味の悪い女が大切なのか?」
「愛華を悪く言わないで!」
「黙れっ! 今更そんな声をするな――お前なんて、娘ではない!」
「っ……」
一番聞きたくなかった言葉。
一番自覚することを拒絶していた言葉。
「だからお前が俺にしたように……俺がこの女を壊す」
「なっ…何を言っているの?」
それ以上父は言葉を発さないで、ただ淡々と愛華に対して迫っていった。
「あ」
全身の内部に宿る熱が膨張するのを感じた。
「ああ――」
それが何かを私には理解できないけれど、それでも今のこの現状を止めないといけないことはわかる。
「やめろぉぉぉぉぉぉっ!」
叫んだ。
体が動かない私はそれしかできなかった。
私は赦せなくなった。
実の父だった筈の男の言動に、私は堪らなく憎悪が強まった。
よりにもよって、愛華を侮辱した。
その事実だけがどうしても耐え難いことだった。
そしてそれだけでなく、汚らしい劣情を、私だけの愛華に向けてきた。
だから私は拒絶を全力で訴えた。
今迄も散々に叫んできた。だけど現実は何も変わらなかったというのに。
止められるはずがないのに。
理解していても止められずに、声が枯れる程の絶叫の余り――体温が跳ね上がる。
すると、覚醒が起動した。
私が叫ぶと同時に、風が巻き起こった。私自身が台風の目と化したように、部屋全体を揺さぶる暴風となった。
窓硝子を造作もなく粉砕できる程の強風に私以外の人間は晒される。
愛華は倒れているのもあり、その場で丸くなって狂風の猛威を辛うじて防いでいたが、父は違った。風が吹き荒ぶことなんて到底予期していなかった彼の脚は部屋に衝撃が伝播してしまった瞬間に捻れその身は後方に弾きとぶ。直前まで何か言葉を発していたが、吹き飛んだ拍子に頭部を扉の角に打つ。
数十秒もすれば自然とその不明な猛威は静まり、室内は再び凪へと収束した。
「何が……?」
よろけながらも愛華も立ち上がるが、彼女もその問いに答えることはできなかった。
ただ解せることといえば、室外へと乱気流に乗せられて角に衝突した結果、頭部が見るも無残に破裂し、頸椎よりも上部が原形をとどめていない――そんな父だった物が沈黙し続けている……ただそれだけだった。
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