「箱庭と呼ばれた世界」
彼女思う故に彼女があるのです。
やっぱり相思相愛ですね。やさしいせかい。
ひとしきり地面を醜く這い回って、衣服と体を泥に塗れさせて――彼女は為すべきことを確信する。
――大切な人と生きるために、私は万全のことをする、ただそれだけだ。
待っていて、愛華。
貴女の元へ帰ることができないけれど――守って見せる。
既に彼女は一人を殺めた身、真相の把握から報復の決意までに邪魔をする倫理は最早存在していなかった。
「終わらせてやる」
だからこそ、その結論は自然な帰結なのだった。
奏音はくすねた霧谷の自著を、今度は冷静に読み解く。
この書物には自身の名前だけでなく、咲来や愛華の名も確かに記されていた。由々しき事実だが、全てが不運と断ずるにはまだ早い。危機を未然に防げるかもしれない――彼女みたいな目に、絶対遭わせてなるものか。
(また箱庭だ)
箱庭。
幾度となく登場するその言葉に奏音は目がいく。
本来の意味で用いられているというよりかは、何かの隠語として多用されていることは文脈の規則性から見出すことができる。が、幾ら文章を読み解こうとも正確に行間を補完できなかった。
(ひっかかるのは……私の文章にもその言葉があるということ。そして、箱庭に対して適性がある――妙な日本語ね。適正、という用法がこの文章に於いて正しいのなら、箱庭は何か入場が制限されている場かしらね。それで私は何らかの条件を満たしていると)
前文から判断するに、条件には蒼薬が大いに絡んでいそうである。
(それに……天音の文章も引っかかる。蒼薬の投与で天音は……結果として“箱庭”の適性を失ったと書いている。つまり……蒼薬を使用することで選別をかけている、ということだろうか?
何の選別かまではまだ不明だが……そう予測すると腑に落ちるところがある。
「では何故咲来君と愛華の名前がある?」
間違いない、愛華は蒼薬を投与なんてしていない。だというのに既に名前があるとはどういうことか? そして同時に彼女らの文章に“箱庭”なる隠語も、適正に関する話題も触れられていない。もしかすると、蒼薬投与者だけが記述されているわけではないのではないか、もう少し範囲を拡大させると――蒼薬が今後投与される可能性のある学生の情報を集めているのではないか?
(蒼薬の仕組みがわからないけれど……もしかすると、犯人は投与してその適正とやらを満たす人間を見極めているのかもしれない)
そこで実際に投与してみて、適性の有無を測ると。だとすると、この長々と余白の全てを潰すように列挙される名前の群にも納得がいく。無作為に抽出して、その上で吟味しているのだ。
そう考えると、調査に役立つかもしれない。
奏音は、既に咲良に代わっていようとも元は委員長――クラスメイトやその周辺の人物の名前くらいなら把握している。
クラスメイトの名前は頭に入っているからこそ、この書物に記されている人、そうでない相手を判別する。きっと、そこには規則性がある筈だ。そして同時にその規則性は、霧谷との共犯者を発見することにつながる筈だ。
「ここに斎藤浩二の名前がなければ――」
その検索の方法はかなりの確率で正しいということとなる。
「よし、名前はない――」
いい傾向だ、この判断を以て彼の殺害が、『愛華の世界を護る』という観点での正当性が証明された。
時間をかけて数えると、有難いことに奏音の学年の生徒の名前はある程度ここに記入されているのを見るに、そこから抜け落ちてる名前を見つけ出せば、自ずと関係者に近づけるということだ。
その理屈だけでいえば、霧谷の白黒は断定できない。この自著でほぼ黒のような気もしなくはないが、小間使いなだけの可能性だってある。が、焦る必要はない。奏音が目的官僚の為に派手に行動を移せば、きっと動きを見せる筈だ。その時を狙えばいい。
奏音の中で、既に行動理念は確立されたのだった。
奏音は件の山道に戻る。
中途だった証拠隠滅を絶対的なものとして進める。一時的な処置として、彼の亡骸の上に被せたブルーシートを捲る。すると、殴打痕が目立つ彼の身体が夜風に晒される。彼の比較的外傷の少ない胸部にそっと触れて心音を確かめる。数十秒間入念に確認を続けたが、返答はない。それによって彼の死亡が確かなことを再度奏音は確認した。
死後硬直が半ば進行している彼を脇目に、彼女の最後の作業が開始された。場所取りのように突き立てられた円匙を抜き、それでやや硬質な地面に先端を差し込み始める。そして、テコの要領で土を掬いはじめる。
「基礎体力…………ないな、私……」
三メートルほどの穴を掘るのにかかったのは三十分弱……というのに彼女の疲弊は最大限にまで達していた。作業を一時中断してその場で仮眠をとりたいくらいだったが、朝が来てしまっては嫌でも人の往行が増える……そうなっては奏音の準備も不意になってしまう。
だから、最後まで気を抜かないことにした。
彼女は既に硬化している彼の遺体をおもいきりその穴に放り込んで、穴の淵に保存していた土石を、元に戻し始める。
「おっと、忘れるところだった」
奏音が一度穴の底まで降りて、彼の下着のポケットを弄る。すると彼女の求めていたものは見つかった。
「よし……パスワードは、ないわね」
彼のスマートフォンだった。私のものは、何時しか紛失してしまっていたからこそ……奏音には現状最適なアイテムなのだがそれだけではない。奏音は彼の携帯電話が次の標的の選定に重宝すると読んだ。
(これで……いい)
もう思い残すことはない。
彼には安らかに眠ってもらおう。
彼の肌色は徐々に土色にかき消され始める。
そして血に染まった皮膚は次第に光源のない闇に巻き込まれて、埋もれていく。
(これ程深ければ大丈夫かな)
手で掘り返せる程度の深さならば、今後の降雨などで死体が露になってしまう可能性が高い。多少の気候で看破されることのないように事を運ばなければならない。加えて臭気が漏れ出すのも問題だ。防腐剤を散布するにも限度がある――完全に白骨化するまではなんとしても隠しきらないとならない。
「……燃やす道具用意しておいた方がよかったかな」
今になって自分の準備不足を呪う。
しかし、考えすぎると泥沼に嵌まりそうになってしまうだろうから、と奏音は早々に当初の計画に戻る。
「これでいいわ」
地面は元の傾斜を取り戻す。
空を見上げれば、今なお津々と雪が降り注いでいる。
(この降雪具合だ――明日にはかなり積もるわね)
そうなれば、少なくとも春の訪れまでは露見する可能性は低下するだろう。
「帰ろう」
用いた道具を丁寧に天然水で洗浄し、鞄に収納した。
「だけど……どこに帰ろう」
奏音が今、抜かった点としては――寝袋を購入できる程の金額は持っていなかったことにある。数日間の飢えと寝床を用意する分の金額は残っている――場末のネットカフェでも探すべきだろうか? 駅前の都市部にいけば……何かあるだろう。
背後に注がれる視線に気づく。
その温もりのある眼差しを知っている。熟知しているからこそ、振り返ることに異様の恐怖が襲い掛かった。だけども、背けられない。後ろにあるそのものこそが現実なのだから。
「愛華」
思えば彼女は私の居場所を察知するのに長けていた。ましてや、一時的とはいえ失踪状態にあったのならば猶更その性質が強まるのは容易に想像ができたこと。
「見ちゃったんだね」
「うん」
夜の闇の中だというのに、愛華は輝いて見えた。
傾斜の位置的に上下に位置するのもあって、奏音のいる場所がこの世の底のように思えて――その高低差が、愛華と自分の、決して触れることのできない距離のように感じられてならなかったのだ。
「ねぇ、愛華」
奏音は、天上にいる愛華の名を呼ぶ。
「今の私、とっても醜いでしょう?」
奏音は正直な気持ちを乗せて言葉をつづけた。
「でもどうか、そんな私を嫌いにならないでね」
そして彼女は愛華に、にっこりと笑いかけたのだった。
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