第一章【ハチとの見つめ合い、あるいは「静寂」という名の新説】
第一階層の中層エリア。
シンは、家宝の名刀『雷切』の柄に指先を添え、脳内で自分だけのBGMを流しながら静かに微笑んでいた。
目の前に現れたのは、この階層の中層に君臨する獰猛な魔獣――高圧の巨大殺人蜂『ハイプレッシャー・ビー』。
通常の冒険者パーティであれば総力戦で挑むべき強敵だが、今のシンにとっては己の栄光を飾るためのささやかな生贄に過ぎない。
危険な徘徊魔獣ではないただの通常種、瞬殺してみせよう。
シンは美しく洗練された半身の構えをとり、自身の持つ最大の理力を一気に解放した。
誰も見ていないが、
「さあ、刮目し給え世界よ!」
と叫びながら。
「スキル発動――『一騎当千』!!」
瞬間、空間が鳴動した。
シンの体内から噴き出した圧倒的な理力が、眩いばかりの白い光となって全身を包み込む。
空間を裂くような『キィィィン!』という鋭い高音が周囲に響き渡り、名刀の鞘からは、千の軍勢を瞬時に切り刻まんとする極大の攻撃の波動が、目に見えるオーラとなって溢れ出していた。
あまりのプレッシャーに、ハイプレッシャー・ビーも一瞬、恐怖に身を竦ませる。
(さあ、切り裂け! 僕の身体よ、神速の居合いでその羽虫をバラバラにするがいい!)
シンは脳内で、最高にクールなポーズを維持したまま、勝利の確信とともに肉体へ命令を下した。
……。
…………。
(あれ……? 体が、一ミリも動かない……?)
凄まじい光のオーラを全身から放ち、極限の居合いのポーズを決めたまま、シンの肉体はピキリとも動かなかった。
まるで空間そのものに肉体をガチガチに固定されてしまったかのような、奇妙な硬直。
(な、何が起きた……!?
理力は確かに消費されている!
なのに、なぜ僕の身体は、ただ美しく、完璧な置物になることしか許されないのだ……!?)
冷や汗がシンの美しい頬を伝い、顎からポタリと床に落ちた。
この世界の絶対的な法則(仕様)において、一騎当千は、
「その瞬間、自分以外の味方が攻撃を仕掛けた際、デメリットなしで間髪入れずに超高速の無限追撃を行う」
という、ぶっ壊れではあるが、極めて特殊な『味方依存の連携スキル』。
ソロであるシンには、当然、先にアクションを起こしてくれる味方など一人もいない。
誰も動かない。
だから、神のシステムは「追撃の瞬間」を待ち続けたまま、ただシンの肉体を待機状態(硬直)でガチガチに維持するしかないのだ。
「……ブ、ブン?」
ハイプレッシャー・ビーが、不思議そうに複眼をまたたかせた。
――あ、こいつ、ただ発光してるだけのカカシだわ。
魔獣の野生の勘が仕様を理解した瞬間、
「ブゥゥゥン!!」
と羽音が殺意の籠もった重低音へと変わる。
ハチのお尻の針が、不吉な紫色の光を帯び始めた。
数々の冒険者を一撃で昏睡させてきた、悪名高き凶悪スキル『まどろみの針』の予備動作だ。
(まずい、非常にまずい!
あの針をこの距離で食らえば、僕の美しい顔が台無しになる……っ!
つまり、悪いのはこの世界だ!!!)
内心での責任転嫁を爆速で完了させたシンの目の前に、紫の毒針が迫る。
大技に意識を全振りし、システムに肉体をロックされた今のシンは防御も回避もガラ空き。
ここで無様に刺されるなど、スメラギ家のプライドが絶対に許さない。
「――ふっ! 素晴らしいよ、魔獣!!」
シンは引きつりかけた顔を、一瞬で「余裕の笑み」へと整形した。
一騎当千の構えを強制解除し、肉体の自由を取り戻すと同時に、もう一つのスキルへ意識を切り替える。
(天才とは、引き際をも支配する者のことだ!)
「これほど僕の覇気に耐えるとはね。君のその不屈の闘志に敬意を表し……今日のところは、命を拾ったと思って見逃してあげよう!
スキル――『逃げるが勝ち』!!」
ソロゆえに、この状況から離脱できる確率は文句なしの100%。
ハチが「えっ」と呆気に取られている隙に、シンは東方貴族の洗練された美しいフォームのまま、ものすごいトップスピードで迷宮の入り口へとダッシュした。
「ふはははは! 追ってきても無駄だよ! 僕の速度に追いつけるかね、凡俗の虫ケラがーーーっ!!」
漆黒の髪を振り乱し、誰も見ていないのに捨て台詞だけは一丁前に響かせながら、天才エリート・シン・スメラギは、中層の風となって全力で逃げ散っていったのだった。
「逃げるが勝ち」はパーティーだとレベルにより確率がある逃走用のスキルですが、ソロだとレベル1で100%逃走なのです。




