50. エストの想い
「え、えすと…?なんで」
エストは恵麻の質問には答えず、つかつかと部屋に入ってくる。
途中、テーブルの上に置かれた手紙を見つけると、軽く目を通し、眉を顰めた。非常に不機嫌そうに。
「エスト…」
初めて見るエストの剣幕に、恵麻は震えた。恐怖だ。こんなエストは、見たことがない。
エストは手紙をぐしゃりと握りつぶすと、迷いなく恵麻の前まで歩いてくる。
「あ、あの、エス…!?」
恵麻は怯えながらも目の前に来たエストに声を掛けるが、その言葉は強引に遮られてしまった。
エストの唇が、恵麻の唇を塞いでいる。
あまりに迷いのないエストの勢いに、恵麻には拒む暇さえ与えられなかった。
エストの手は恵麻の後頭部と腰を掴み、恵麻が逃げることを許さない。二人の身体はぴったりと合わさり、全身からエストの体温を感じた。
「んんっ…!」
我に返った恵麻は何とか逃れようと首を振るが、添えられた手は力強く、逃げられない。エスト、こんなに力強かったっけ、などとぼんやり考えるしか無い。
「はぁっ…エスト…!」
何とか少し唇を離して声を掛けるが、逆にその隙間に噛みつかれるようにキスされて、事態は悪化した。
もはや食べられるのではないかと思うほど深い口付けを与えられ、恵麻の膝から力が抜けていく。立っていられなくなった恵麻を、それでも尚エストは執拗に追い求め、ようやく解放された頃には恵麻は肩で息をしていた。
「はぁ…はぁ…な、なんで…」
戸惑いと疑問と羞恥と、そして想像以上の快感で、恵麻は涙目になりながら訴えた。
そんな恵麻の表情を、エストは満足げに見つめている。微笑んでさえいた。
恵麻が知る限り、エストはずっと紳士だった。
猫だった時の名残で、多少距離感は近かったが、下心的なものは一切感じなかった。大切にされている自覚はあったが、そういう欲を向けられていると感じたことは全く無い。それはダスティンの屋敷を出て、この屋敷である種の二人暮らしを始めてからもずっとだ。
だからエストがいっそ嗜虐的な欲を孕んだ目で涙目の恵麻を見つめていることに、恵麻は心から動揺した。
「なんで?…それは私のほうが聞きたいよ、…『エマ』」
「…!」
エストは恵麻のことを、ラナではなくエマと呼んだ。それは彼の飼い猫で相棒だったラナではなく、どこかラナとしての人生を俯瞰していた「葉月恵麻」を抉り出す。
「ひどいよね、エマは。私を君なしでは生きられないようにしておいて、こんな置き手紙一つ残して、さっさと元の世界に帰ろうとするなんて。私はエマにとって、そんなに簡単に捨てられる存在だった?」
「違う!違うよ。でも、私のこの世界でのお役目は終わったんだよ。エストはこれから大士として大切な役目があるでしょう?私はこの世界のことなんて何も知らない、姿も違う、常識も違う、かろうじて言葉だけが通じる、はみ出しものなんだよ!代替わりが終わった今は、もう精霊術も使えない。私なんてただの出涸らしで、だから、ここにいたらエストの人生を邪魔しちゃうって…」
「その言葉、撤回して」
「ひっ…」
エストが表情を消す。いつも美しく輝いている瞳が真っ暗な穴のように見えて、恵麻は悲鳴を上げた。
「エマが出涸らし?役目が終わった?…私の人生を邪魔する?バカバカしい事言うんだね」
「え、エスト…」
「役目も生きる目的も意味も、自分で見つけるものだ。エマが私にそう教えたんだよ。求められる以外の、好きな生き方をするべきだって。ねえ、エマ。私が本当に世のため人のため、ひいては自分のためなんていう高尚な理由だけで大士になることを決断したと思ってるの?」
「それは…」
「うん、はっきり言わなかった私も悪かったね。以前元の世界に帰りたいってエマに言われたから、まずはここから用意しないと説得材料にならないって思ったんだ」
エストはそう言うと、懐から一枚の紙を取り出した。
文字を覚えたての恵麻には細かいところが分からなかったが、そこにはどうやら、『エマ・シス・オスロレニア』と書かれていた。
「これって」
「私の身分が復帰した上、大士っていう権力も手に入れたからね。早速職権乱用させてもらって、ついでにダスティンにもねじ込ませてもらった。エマ、今君はシンシア様の娘だよ。養子だね」
「え。…え?」
「戸籍があればエマの不安の大部分は解決できる。仕事にもつけるし、望めば家だって契約できる。…まあ、それは私が望まないけど」
「…」
恵麻は震える手でエストから渡された書類を握りしめた。つまりエストは、以前恵麻がこの世界に残れない理由として挙げた生活面の不安を解消すべく動いてくれていたということだ。
「エマ」
書類から目を上げない恵麻の手から、エストはそっと書類を引き抜いた。
「本当にもう、帰りたい?私に黙ってこっそり帰るほど、元の世界が恋しい?」
「そ、れは」
「エマは分かっていたんでしょ、私に引き止められるって。エマがこの世界に心残りがなく、私を本当に説得できると思っていたなら、エマはちゃんと私に別れを言いに来たはずだ。手紙だけ置いてこっそり帰るなんて不義理を、エマがするはずがない」
「…買いかぶり、だよ。私は元から卑怯な人間なの」
「こっそり帰るのを卑怯なことだと分かってたんだ?」
「…っそれは」
「まあ、何でも良いんだ。こうして間に合ったから」
エストはそう言うと、まるでそうすることが当たり前かのように、もう一度恵麻に口づけた。
「…っエス」
「愛してるよ、エマ」
「は…」
唇を離して間髪入れずに告げられた言葉に、恵麻は硬直した。
「愛してる。本当は、大士の…父の企みも、どうだって良かったんだ。親だと、友人だと思っていた人達から捨てられた時、私はこの世を見限った。でも、そうしなかったのは、エマと生きていきたくなったからだ。だからこの国を守ろうと思った」
「え、エスト…」
「私の全てをあげる。生涯、エマだけを愛するし、大切にする。望みは全て叶えてみせる。だから…元の世界を捨ててほしい。行かないで。私の側にいて。私を選んで」
それまでずっと、むしろ怒りを孕んでいたエストの表情が、どんどん悲しげになっていく。まるで、捨てられてしまった子犬のように。涙目で、最後の言葉尻は、震えていた。
「…それが無理なら今すぐに、私を殴って、蹴り倒して、逃げて。殺してくれたっていいよ。エマがいないなら、どうせもう、生きる意味もない」
「そんな!」
「…ね、エマは私に、死んでやるって脅されて、この世界に残った。エマのせいじゃない。だから…」
エストはそう言って、左手で顔を覆ってしまった。
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