49. 帰還の時
エストと出かけてから、数日が経った。
恵麻の日々は、穏やかに過ぎている。
日中は主に、文字や文化の勉強をして過ごす。恵麻の言葉はなぜか通じるが、文字は読めないのだ。
その他に、薬草畑の手入れをしたり、時間があれば街に出たり。
エストは相変わらず忙しそうだが、朝夕は必ず一緒に食事をしてくれる。
そして今日の夜は久しぶりに早めに帰るから、ゆっくり話をしようと言われていた。
恵麻は、焦っていた。
器としての役目を終えてからというもの、恵麻はただのエストの穀潰しだ。
元の世界に帰るまでの期間だけだし、と甘えていたが、時が過ぎるに連れ、何とも気まずい思いが強くなっている。
元々、元の世界では社畜で日々命をすり減らして働くような生活をしていたのだから、こんなのんびり過ごしていて良いのかと、落ち着かないのだ。
シェドの言った期間まで、恐らく、あと一月弱。
でも、シェドが時間を守るかどうかは正直微妙だ。
そう考えると、恵麻もこの世界で独り立ちする方法を考えたほうが良いのかもしれない。
文字の勉強のため開いていた、精霊の愛し子を題材とした子供向けの絵本から目を上げると、恵麻はぼんやりと呟いた。
「はあ…シェド、いつ来るんだろ」
「呼んだか?」
独り言のはずが答えるように耳元で男の声がして、恵麻は飛び上がった。
「ぎゃあっ!!…しぇ、シェド!?」
「ああ」
振り向くとそこにはもはや見慣れた大精霊、シェドが立っていた。
「いつもいつも、驚かせないで!」
「む。驚いたのか?」
「驚くよ!…っていうか、なんか、ちょっと、雰囲気変わったね…?」
「そうか?」
代替わり後別れてから初めて目にしたシェドからは、何というか、はっきりとした存在感を感じた。
これまでのシェドは少し透明感があり、実際に透けていなくてもどこか幻想的な
雰囲気があった。しかし今のシェドは、とてもはっきりしている。薄く緑がかった白だったはずの肌はクリーム色になり、血色の良ささえ感じる。深緑の髪も金の瞳も顔立ちもシェドのままだが、印象は大分変わった。
「力が身体に定着したからな。そのせいだろう」
「そうなんだ。ってことは、もしかして…」
「ああ、エマの願いを叶えに来た」
「…帰れるの?」
「ああ」
目の前のシェドはなんてこと無いように言ってのける。
突然のことに恵麻は少し動揺した。
ずっと帰れる瞬間を、今か今かと待っていたはずなのに。
「えっと、もう今すぐに帰るの?」
「お前が望めばな」
「そ、うなんだ。えっと…せめて挨拶とかしたいんだけど、その時間はもらえる…?」
「構わないが、帰還の術には日取りも重要だ。今日の陽が出ている内。今日を逃すと、季節を5回程またいだ頃だ」
「それは、ちょっと先だね」
この世界の季節は大体3ヶ月周期で変わると、エストから聞いたことがある。5回となると、一年以上先だ。ならば、今日帰るべきだろう。
エストが帰ってくるのは、今日は早いと言っていたけれど、それでも夜になるはず。
ダスティンやシンシア、キーラとも挨拶をしたいが、これからすぐに会えるのはキーラだけだ。
恩知らずかもしれないが、一部の人にだけ会うのなら、全員に会わない方がいい。
恵麻はそう判断して、せめて手紙を置いていこうと決めた。文字は勉強したてだけれど、簡単な文章ならなんとかなるだろう。
「シェド、少しだけ準備するから、時間をちょうだい」
「わかった」
恵麻は以前キーラに貰っていた紙を便箋代わりにして、急いで手紙を書いた。
ダスティンにシンシア、そしてキーラ。お世話になったダスティンのお屋敷の人たち。エドワードを始めとする騎士団の方々。
そして…エスト。
(なんて…書こう)
エスト。親友で、相棒で、誰よりも大切な人。
美男子で、好青年で、優しくて真面目で。でも実はちょっと頑固で、お茶目なところもあって、強引な一面だってある。
この世界で恵麻を助けてくれて、支えてくれて、大事にしてくれた人。
できればずっと、一緒にいたかった。
でも、恵麻はもう彼の役に立てない。
(ああ、そうか)
恵麻は別に、元の世界に強い思い入れがあるわけではない。もちろん、友人だっているし、両親は亡くしていても、お世話になった親戚はいる。それでも、恋しくて恋しくてたまらないものは、薄情だけれど、あまりない。
それでも帰ることをずっと望んでいた。
それは以前エストに語った通り、何もない自分が異世界で生きていける自信がなかったからだ。
でも、それよりもずっと恐れていたこと。それは、恵麻がエストの足かせになることだった。
彼はこの国になくてはならない、貴重で優秀で才能あふれる存在だ。見た目だって極上の美男子で、彼が願えばきっとどこかの国のお姫様だってお嫁さんにできるだろう。大士となればそれくらいの立場も、手に入れることになる。実際、罪人ではなくなったエストには、縁談がふるように舞い込んできていると、シンシアから聞いた。国王と同じくらいの権力を持つ立場なのだから、当たり前だろう。
対して恵麻は、ちっぽけな一般人だ。
たまたま器とやらになってこの世界に落ちてきただけの、一般人。
特別なスキルもなく、役目を終えた今となっては文字を書くことさえ覚束ない、異国の娘。
エストが苦しんでいる姿を、ずっと隣で見てきた。彼が苦しみながらも足掻いて、いろんなことを乗り越えて、そして今、大士になって国を変えていこうと前を向いていることを知っている。
エストが恵麻のことを、特別大切にしてくれていることくらい、分かっている。それに気づかないほど、恵麻だって鈍くはない。
でも、何も出来ない恵麻は、彼と一緒にいても邪魔になるだけだ。強力な後ろ盾もあげられないし、霊力さえ無い。言葉も文化理解も常識も怪しい。というか戸籍さえない。目が覚めるような美貌もない。釣り合わないにもほどがある。
それでもきっと、エストは恵麻を大事にしてくれるのだろう。でも、彼の隣で劣等感を抱えて、彼の足かせになって生きるくらいなら、手放すべきだ。
紙とペンを握って、恵麻は震える。
ああ、もっとちゃんと文字が書けたら良いのに。そうしたらもっとちゃんと、思いを言葉にできるだろうか。
ポタポタと、涙が紙を濡らした。
もったいない。貴重な紙なのに。
エストと離れたくない。ずっと一緒にいたい。
彼が恵麻を大切にしてくれるように、いや、もしかしたらそれ以上に、恵麻だってエストを大切に思っているのだ。
他人にここまで大きな感情を抱いたのは初めてだから、ずっと迷っていた。だって、これまでの恋人に抱いていたような感情とは、明らかに違うから。
でも、これが最後だと思うと、いやでも自覚してしまう。
恵麻はエストが好きなのだ。愛している、という意味で。
だからどうしても、エストの足かせにはなりたくなかった。愛する彼がこれ以上、何かに苦しむ姿は見たくない。それが自分のせいだなんて、耐えられない。
(我ながら、ややこしい女だな)
恵麻は自分の複雑な感情を理解して、苦笑した。ぐいっと涙を拭くと、色々考えて、紙にはこれまでのお礼と、直接お別れを言えなかった謝罪、そしてこれからの活躍を祈る言葉を書いた。
未練タラタラの手紙を書いたって、仕方ない。
恵麻は手紙をテーブルの上に並べ、荷物をまとめた。
と言っても、そこまで多くはない。
書き溜めた絵と、一応、着替えを数着。それだけだ。
文字を書くのに慣れなくて、予想以上に時間がかかってしまった。
シェドは屋敷の周りを飛んでいるようだ。恵麻は窓から顔を出してシェドを呼ぼうとした。
「シェド、準備が…」
バンッ!!!!!
言いかけたところで、部屋の扉がものすごい勢いで開いた。
飛び上がって驚いた恵麻が慌てて振り返ると、そこには肩で息をしている、見たこともないほど険しい顔をしたエストがいた。
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