18. 宇深之輪という街が抱えた非日常『その拾捌』 日常回/硝子の安息、あるいは魔女達の遅すぎた朝
前半が燈華の視点、後半が流哉の視点となります。
前半と後半の境目に◇を入れてあります。
楽しんで頂けたら幸いです。
夜明けの青が、カーテンの隙間から滲み出している。
宇深之輪の街並みを見下ろす高台。
古びた町の共同墓地と教会を抱き、山全体に不気味な雰囲気を漂わせる。
古くからある建造物も多く残る西宮地区。
そこに建つ西園寺紡の洋館は、まだ深い眠りの中にある───はずだった。
バスルームから、水音が響いている。
床材のタイルを叩く硬質な音。
熱い湯が、少女たちの肌にこびりついた「怪異の残り香」を、泥と汗と共に洗い流していく。
立ち込める湯気は白く、硝子越しの世界を曖昧にぼかしていた。
「……はぁ。生き返る……」
濡れた髪をかき上げ、冬城燈華が曇った鏡を指で拭う。
鏡面に映るのは、疲労困憊の女子高生。
目の下には薄く隈ができている。
完徹明けの肌は、十代の回復力をもってしても隠しきれない倦怠を帯びていた。
肌を伝い落ちる水の雫。
豊かな双丘の谷間を滑り落ち、重力に従って腰へと吸い込まれていく泡。
その白磁の肌には、昨夜の激闘の爪痕が生々しく刻まれていた。
二の腕に浮いた赤黒い擦過傷。
柔らかな腿の内側に残る、何かに掴まれたような青い痣。
『七番目の教室』という異界が残した、少女の肢体への暴虐の証。
燈華は、その青痣を指先でそっとなぞる。
熱を持った皮膚の感触。
ズキリ、という鈍い痛みが、かえって自分の「生」を強く意識させる。
嫁入り前の身体になんてことを。
そんな嘆きと共に、燈華は一つ溜め息を吐く。
けれど、それは決して不快だけの感情ではない。
無垢な魂を汚されたような背徳感と、生き残ったという高揚感。
傷跡すらも愛おしいと感じてしまう自分は、やはりもう、常識側の人間ではないのかもしれない。
「秋姫ー。シャンプー取って」
「はいはい。……もう、とかちゃんってば、また自分のタオル忘れてる」
隣のブースから、呆れ声と共にボトルが差し出される。
大津秋姫。
燈華の幼馴染であり、この異常な生活における数少ない同じ日常を過ごす相手。
彼女もまた、昨夜の狂乱に付き合わされ、心身ともに限界を迎えていたはずだ。
それでもこうして気丈に振る舞えるのは、彼女が何代にも渡って「魔法使い」という隣人と付き合ってきた、大津の血筋ゆえか。
シャワーを終え、バスローブを羽織ってリビングへ戻る頃には、時計の針は七時半を回っていた。
本来なら通学路を歩いている時間。
現実への回帰を拒むように、燈華は重い足取りでソファへ沈み込む。
「……そうだ、連絡しなきゃ」
長い髪を纏めて包んだタオルを解こうとした指が止まる。
面倒な連絡を入れなければならないことを思い出したからだ。
スマートフォンを取り出す。
画面には無機質な時刻表示。
指先一つの操作で即座に接続する通信機器。
昨夜の生死をかけた時間と比べて、そのあまりの軽さに、少しだけ眩暈がした。
「私がしようか? とかちゃん、もう目が半分閉じてるよ」
「ううん。これは私の役目。
これでも一応、生徒会長だしね」
自嘲気味に笑い、通話ボタンをタップした。
数回のコールの後。
スピーカーから響いたのは、耳障りなほどに甲高い女の声だった。
『はい、私立宇深之輪高校職員室です』
運が悪い。
よりにもよって、電話に出たのは今年から学年主任を任されているあの女性教師だった。
「おはようございます。二年A組の冬城です」
『あら、冬城さん。朝早くにどうしたの?
朝のホームルームにはまだ時間があるけれど』
「申し訳ありません。本日は大津さんと共に、欠席させていただきます。
……急な家の手伝いが入ってしまいまして」
嘘ではない。
冬城家と大津家。この街に根を張る古き家柄が「家の用事」と言えば、それは不可侵の領域となる。
だが、電話の向こうの教師は、鼻を鳴らすような音を立てた。
『家の用事、ねえ。
まあ、貴女たちの家のことは私には分からないけれど。
それにしても、今日は欠席が多いわね。
高橋先生も休みだし、神代先生に至っては電話口で偉そうなことを言って、一方的に切るんですもの』
スイッチが入ったのか、教師の愚痴が溢れ出す。
『あの人、何様のつもりなのかしら。
ただの臨時講師のくせに、契約だの領分だのって。
少し顔が良いからって調子に乗っているんじゃないの?
冬城さん、貴女も生徒会長なら、あの常識知らずな先生に少しは───』
ああ。
うるさい。
燈華の表情から、感情が抜け落ちる。
鼓膜を汚す雑音。
この女は何も知らない。
神代流哉が昨夜、何をしていたのか。
どれだけのものを背負い、どれだけの絶望を処理して、今この朝を迎えているのか。
その「平和」が誰によって守られているのかさえ知らず、ただ安全圏から石を投げている。
「───先生」
燈華の声は、氷のように冷徹だった。
一切の抑揚を排した、事務的な響き。
「神代先生の件は、私には分かりかねます。
それでは。失礼します」
『えっ、ちょっと、まだ話を───』
プツリと、通話を切る。
スマートフォンをテーブルに放り投げ、燈華は深く息を吐いた。
隣で秋姫が心配そうに覗き込んでいるが、燈華は気にしていない。
彼女の視線は、虚空を見つめていた。
「……幸せな人」
ぽつりと、唇から零れ落ちる。
「無知は罪じゃないわ。ただの特権よ。
一生、その薄っぺらな常識の中で吠えていればいい」
それは、少女の中に芽生えた「魔術師」としての冷酷な側面。
彼岸と此岸。あちらとこちら。
超えることのない境界線を確認し、燈華は瞼を閉じた。
「……もう限界。私、寝るから」
「私も。おやすみなさい、紡さん」
「ええ。良い夢を」
リビングの奥、優雅に紅茶を飲んでいた館の主、西園寺紡に見送られ、二人の少女は自室へと消えていった。
嵐が去った後の静寂。
後に残されたのは、香り高い紅茶の湯気だけ。
◇
神代流哉が帰宅したのは、それから一時間後のことだった。
重厚な樫の扉を開け、リビングへ足を踏み入れる。
そこには、予想外の光景が広がっていた。
「……学校はどうした」
流哉は眉をひそめる。
テーブルには、湯気を立てるティーポットとスコーン。
その向こう側で、西園寺紡が分厚い洋書を片手に、つまらなそうにこちらを見上げていた。
さらにその奥には、留学生のアレクサンドラとクリスティアナの姿もある。
三人揃って、まるで彼が帰ってくるのを待ち構えていたかのような陣形だ。
「燈華と秋姫なら自室のベッドの中よ。
完徹明けでゾンビみたいになっていたから、今頃は二人仲良く夢の中かしら」
紡は本を閉じ、流哉に向き直る。
その瞳には、眠気など微塵もない。
あるのは知識への渇望と、仲間外れにされた子供のような、ほんのわずかな不機嫌。
「それで? どうだったの。
貴方たちが対峙した『七番目の教室』の顛末、その全てを聞かせてもらえるかしら。
私は現場には立ち会っていないけれど、この土地の管理者の一人として、報告を聞く義務があるでしょう?」
「私も! リュウヤ、私も聞きたいデス!」
クリスティアナが身を乗り出す。
彼女たちもまた、ただのホームステイではない。
魔法連盟からの依頼で紡が預かった「お客様」だが、彼女にとっては既に「手駒」か「茶飲み友達」のカテゴリに分類されているのだろう。
流哉は小さく溜息をつき、空いているソファに身を沈めた。
ゆっくりと自分の部屋で紫煙を燻らせる時間はお預けらしい。
魔女のお茶会に招かれた以上、主賓は相応の「土産話」を提供しなければならない。
「……大した話じゃない。
因果が巡り、愚者が自らの撒いた種で窒息した。それだけだ」
流哉は仰々しく足を組み、淡々と、事実のみを語る。
感情を挟まない、報告書のような言葉の羅列。
被害者の少年がどうなったか、流哉がどう断罪したか。
詳細を語らずとも、その場に漂う空気だけで、聡明な魔女は全てを悟る。
「なるほどね。因果応報、自業自得。
実に貴方らしい幕引きだわ、流哉さん。
私たちは魔法使い。庶民がどうなろうと、俗世には極力関わらない。
本当に貴方らしい決断を下したのね。
その潔癖症なまでの徹底ぶり、私好みだわ」
紡がクスクスと笑い、新しいカップに紅茶を注ぐ。
琥珀色の液体が揺れる。
流哉はそのカップを受け取り、一口だけ啜った。
……悪くない。
この性悪な魔女の、茶の淹れ方は一流だ。
「ついでだ。昼飯を作るが、食べるか」
時計を見れば、時計の針は真上を指し示そうとしている。もう昼時が近い。
この館には家政婦などいない。
食事の支度は、当番を決めてある日以外は基本的に「気が向いた者」が行うルールだ。
一人分作るのも、全員の分をまとめて作るのも、手間は大して変わらない。
「食べる! リュウヤのご飯、とても美味しい!」
「私も頂きます。あ、私、手伝いますね」
クリスティアナが元気よく手を挙げて主張する。
アレクサンドラが手伝いを申し出て立ち上がろうとするのを手で制し、流哉はキッチンへと向かう。
冷蔵庫にあるもので、手早く七人分を作る。
寝ている燈華と秋姫の分だけ作らないというイジワルをするほど、子供ではないからだ。
使いかけのニンニクと唐辛子。
メニューは決まった。
寸胴鍋で、塩分濃度を高めにした湯を沸かす。
まな板の上に置いたニンニクに、包丁の腹を当てる。
ダン、と掌底で叩き潰す。
繊維が崩れ、芳醇な香りのカプセルが弾ける感触。
スライスしたそれと、輪切りの唐辛子をフライパンへ。オリーブオイルを注ぎ、火にかける。
弱火でじっくりと。
焦がさぬよう、オイルという溶媒に香りを移していく。
これは魔術における「抽出」の工程と何ら変わらない。
素材の特性を理解し、熱によってその本質を引き出す儀式。
トントン、と。
包丁がイタリアンパセリを刻むリズミカルな音だけが、静かな館に響く。
魔術も、怪異も、因果もない。
ただの「生活」の音。
パスタの茹で汁をフライパンへ入れ、オイルを乳化させる。
お湯と油が反発して飛び散るので火傷には注意が必要だ。
火の加減を調整し、手を緩めることなく調理を進める。
茹で汁を加え、オイルを乳化させる。
白濁したソースに茹で上がったパスタを絡め、強火で一気に煽る。
ジュウウウゥ、という小気味良い音と共に、小麦とオイルが融合していく。
最後に鮮やかな緑を散らし、フライパンを振って混ぜ合わせれば完成。
大皿に盛られたパスタが湯気を上げる頃、匂いに釣られたのか、二階から眠り姫たちが降りてきた。
「……んん……いい匂い……」
目を擦りながら現れた燈華と秋姫。
まだ眠そうだが、その顔色は早朝に別れた時より幾分かマシになっている。
「まだ、寝ていても良いぞ、燈華。
寝不足はお肌の天敵なんだろう」
「むぅ……お腹空いたんですーだ。
あ、パスタ! やった!」
食卓を囲む五人の少女と、一人の青年。
賑やかなランチタイム。
他愛のない会話。学校の噂話。テレビのニュース。
そこには「魔術師」としての顔はない。
ただの家族のような、あるいは奇妙な共同体としての時間が流れていく。
この暖かさこそが、流哉が守ろうとし、けれど決して彼自身の手には残らないもの。
食後。
片付けを少女たちに任せ、流哉は自室へと戻った。
重厚な扉を閉め、鍵をかける。
ようやく訪れた、完全なる孤独。
窓から差し込む青白い光が、部屋の中を静かに照らす。
流哉の部屋の景色には、太陽が映し出されることはない。
この部屋に、夜以外の時間はないのだから。
窓の外の異なる時間、異なる場所の月光だけが、主人の帰還を出迎える。
流哉は上着も脱がず、部屋の隅にある革張りのソファへ、倒れ込むように身を預けた。
「……やれやれ」
月明かりのみを光源として、暗い天井を見上げる。
七番目の教室。祖母の遺言。救えなかった少年。
様々な思考が脳裏を過るが、それも急速に薄れていく。
瞼が重い。
意識が、深い水底へと沈んでいく。
魔法使いに平穏は訪れない。
だが、今はただ。
泥のような眠りだけが、彼を待っていた。
※三上堂司からのお願い※
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