チェンジマイライフ その①
車窓という切り抜かれた額には、緑色の風景画がゆっくりとスクロールしていた。
油絵なのか水彩なのかとよく目を凝らさずとも、緑色の正体が何であるかはすぐにわかる。樹齢三百年は下らないであろう天まで届きそうな高木植物が一定間隔に並べられ、幹と幹の間には名前も知らない低草植物がわんさわんさと生い茂っていた。初めて見る者には屋久島の原生林を訪れているかのような感覚にするその場所は、驚くべきことに幹線道路だ。
遥か上を樹冠に覆われた道はさながら緑のトンネルのようで、そこを一両の路面電車がゆったりとした足取りで進んでゆく。
ガタンゴトンとリズムを取る心地よい揺れに体を任せながら、神埼時音は自然のサナトリウムを満喫するのだった。
茶と菓子があれば悠々自適にくつろぎたいところだが、残念なことにそれはできない。路面電車は酉京都市内で指折りの公共交通機関であり、通学や出勤をする人間の重要な足として働いている。早朝のこの時間にはそれが顕著に見られ、隣で相席していたサラリーマン風の壮年だけでなく、車内にはそれと似たような格好をしている者や、制服を着た学生と思わしき者でいっぱいになっていた。
左を見ている分にはどこか遠い国にでも来たような気がするのに、横目に入る忙しそうに端末を弄繰り回していたサラリーマンを見れば、気分は一気に強制帰国だ。
もっとも時音にとっては見慣れた朝の風景なので、空気ぶち壊しだと憤慨することもなく、過ぎ去る風景に意識を向けて大人しく座席に収まっていた。
それから少し後、日の暖かさにうつらうつらとして気が付けば終着駅だった、という悲惨な結果を回避するために睡魔と一人葛藤するのが何時もの日課だが、今日は必要ないらしい。
これが、いつもとちょっと異なる点。
時音は右から左に流れていった散歩途中のお年寄りを見送りながら、昔の栄光を思い返すように思考を巡らしていた。
昨日の晩、宇佐見蓮子と名乗る少女にいたずらを仕掛けられ数奇な出会いを果たした後、蓮子の境遇や不思議な能力のことを教えてもらい、二時間にも満たない少ない時間でも親睦を深め合うことができた。
そして、妖怪を信じているという突飛な思想が似通っていたこともあり、幻想を追い求めることを活動方針とするサークルに勧誘された。
親代わりである夢美以外に、自分の考えを認めてくれる人間がいたというだけで驚きなのに、今まで考えたこともなかった希望溢れる活動方針のサークルに勧誘されたとあれば、時音が狂喜乱舞しない理由はない。
そんなわけで、興奮冷めやらぬといった状態であくびが出るわけもなく、時音は見慣れた風景の中にもちょっとした楽しさを見出すぐらいの余裕があった。
電車が進み目的地に近づいていく度に、徐々に気分が高まってくるように感じたのは、そのせいかもしれない。
『次は、千本北大路前、千本北大路前』
はっと顔をあげて車内の電光掲示板のほうを見てしまったのは、それだけ期待が膨れ上がっていたからだろう。
橙色で点滅している文字を注視するまでもなく、目的の駅はあと四駅も先だった。
不審に思われなかったなあ、などと呑気なことを考えつつ、視線を外の風景に戻す。いつの間にか樹幹の隙間からは閑静な住宅街が見え、折り重なる枝葉は先ほどよりも薄くなっているのがわかった。
不意に気になって樹冠を見上げてみれば、澄み渡った青色が隙間から覗いている。
さながら心の鏡のように、空の機嫌は良いようだった。
今日も、良い一日になりそうだ。
そう心の中で呟いて、時音は満足げなため息を漏らすのだった。
◇ ■ ◇ ■ ◇ ■ ◇
電車を降りて小高い山の頂上付近にあるキャンパスめがけてバスで遡っていったところまでは、何時もと変わらない通学の風景だった。高揚感が加味されていたことを含めればちょっとした非日常だが、この際は置いておくことにする。
問題は、白い壁面が植物の蔦に覆われている特長的な部室棟が見えてきたところで発覚した。その気持ちと言えば、宿題を忘れた結果、単位が落ち進級の危機を前に悲壮感をあらわにする学生のごとく、だ。流石にそこまで深刻ではないかもしれないが、宿題を忘れて評価が心配になるぐらいには面倒くさいことになってしまった。
昨晩、蓮子にサークル活動に来いと言われたまではいいのだが、主な活動場所も言わなければ部室が割り当てられているのかさえ言っていなかった。
というより、時音が完全に忘れていたのが原因だろう。蓮子の身の上話と能力とやらの話に夢中になっていたせいもあったが、ここに来てようやく気が付くというのは少々浮き足立ちすぎかもしれなかった。
そういう理由もあって、時音は気勢を削がれながら部室棟にきびすを返し、いったん学生支援センターへと赴くことになったのだった。
昨日の言い方だと蓮子に部長権限があるようなので、その情報を元に調べれば活動内容や場所もわかるだろう。
蓮子ではなくメリーという少女が部長だったなら、正直なところ後がなくなってしまう。蓮子には彼女のフルネームを教えてもらっていないし、そもそも本名なのかどうかもわからない。最後の望みが絶たれれば、後は部室棟をしらみつぶしに探していくしかない。潰すのは不安の種だけで十分だ。
そんなことを考えながら学生支援センターにたどり着くと、時音は数ある部署の中を迷わずに突き進んでいった。
定期試験で公休したときぐらいにしか利用しないこの場所だが、サークルを管理している場所がどこなのかは全学生が知っていてもおかしくはないほど旧知の事実なので、入学当初よろしく路頭に迷うような心配はなかった。
「すみません」
カウンター席のようになっている場所に適当に腰を下ろしつつ、時音はパソコンに向かって何やら作業をしていた職員に声を掛けた。
「……はい、どうしました?」
作業に集中していたのかキーボードを切りがいいらしいところまで叩いて、こちらを見る。
そろそろ中年と呼ばれそうな年頃の優しそうな顔立ちで、印象に違わず口元には人の良さそうな愛想笑いが浮かべられていた。
「宇佐見蓮子という学生が部長のオカルトサークルを探しているのですが。活動場所を知りませんか?」
そう聞くと、職員は返答までの時間を先ほどよりも長くして、やがてちょっと渋い顔をした。学生の個人情報を聞くような真似をしたから警戒されたのかとも思ったが、それは違ったようだ。
「……ええと、はい。今調べてみますね」
職員の反応を不審に感じながらも、再びパソコンに向かって恐らく調べてくれているのだろう作業を始めた姿を見て、時音は詮索を止めた。
蓮子の言っていた活動方針を実行するならオカルトサークルがいいだろうと見当は付けていたので、職員がそんな反応をするのも無理は無いと思ったからだ。
新しく入ろうとしているサークルがオカルトサークルなど、馬鹿馬鹿しいにもほどがある、と。そこまではいかなくとも、似たようなことは思っていたはずだ。
大体、世間でオカルトは完全に趣味の一環として取り扱われているわけだし、最初から種がわかっているものを追求するなど無意味だと思う人間も多い。
時音はもう呆れるほど理解していることだったので、今さら世間に落胆するようなことはなかったが、目の前の職員の印象がマイナスへと補正が掛かったのは事実だった。
そんな無粋なことを考えながら職員が叩くキーボードの手元を見ていると、ふと手が止まった。
「見つかりましたよ。主な活動場所は、部室棟の四〇一号室ですね」
「ありがとうございます」
と、そのまま軽く一礼して早速向かおうと思っていたのだが、それは叶わなかった。
「あの」
「……はい?」
立ち上がろうとした姿勢のまま、表情が読み取れない職員の顔に視線を向ける。
職員は何か迷うことでもあったのか、しばし視線を漂わせてから、やがて決心したようにこちらを見て言った。
「私が詮索していいようなことでないのは承知していますが、もしやあのサークルに入られるのですか?」
時音は探るような職員の視線を不快に思ったが、それはひとまず無表情の奥に隠した。
しかし、学生がどんなサークルに入ろうと拘束されない自由であって、規則の下で働く支援センターの職員はそのことを学生よりも深く理解しているはず。
そんな常識のようなことを、なぜ今更になって聞いてくるのか。
時音は理解不能からくる不穏な予感を感じて、当たり障りのない回答をするに留めた。
「いえ……興味があるだけです。何か問題でも?」
聞き返すと、職員は納得するかしないか、と言った感じで少し俯いてから、やがて一人頷いた。
「いいえ。変なことをお聞きしてしまい、すみません。……では、気をつけて」
奥にいた別の職員に呼ばれたのを潮時と思ったのか、そう言って目礼すると踵を返して行ってしまった。
最後の言葉が何か意味ありげに聞こえた気もするが、時音には詮索するほどの気概があるわけでもない。
胸に何かつっかえているような感覚を感じながらも、行けばわかるかと楽観的な結論に落ち着かせて出口へと向かう。
二人の職員たちが話をしながらちらちらとこちらに視線を向けていたが、何一つ得になりそうなことはなかったので、時音は次なる目的地を大まかに把握することにした。
◇ ■ ◇ ■ ◇ ■ ◇
清潔感のある純白の廊下は暖かな柔らかい日差しが差しこみ、開放感のある磨かれた綺麗な硝子が精一杯光を取り込んでいる。
外の風景を眺めれば、少し離れたところに白い研究棟が建っていて、その間には巨大な噴水を中心とした広めの中庭が広がっていた。赤、青、黄といった彩り溢れる花々がその噴水を迷路のように取り囲んでいる様は、さながら宮廷の庭を見ているような気分だ。
研究棟の屋上庭園から中庭を眺めたことはあったが、ここから見える景色もなかなか捨てたものではない。風が吹かず暖かく、窓越しという条件がつくだけでも違いは大きいのだな、と思った。
夢美の研究室を訪れる為に研究棟にはよく入っても、中庭には面していないために屋内から眺めるというのは新鮮な気分だ。
これからは頻繁にこの風景を見ることになるのだろうと考えると、本来の目的とは別に、ちょっとした楽しみができた気がした。機会があれば、中庭のほうまで散歩に行ってもいいかもしれない。
差し込む陽光に体を暖められつつ呑気にそんなことを考えていれば、目的地はあっという間だった。初めて来た場所だから迷わないかと心配もあったのだが、部室棟の作りは研究棟と比べて建物が大きくもないし、構造が複雑なわけでもなかったので、それは杞憂に終わった。扉の前まで来てしまえば一安心だ。
四〇一号室。純白な廊下と見比べると明らかに浮いている古風な木製の扉には、秘封倶楽部、とこれまた古風な文字で掘られたプレートがぶら下がっていた。
幻想を追い求めるという大仰な活動方針にしては意外と普通で何となく拍子抜けしてしまったが、ずっと脳裏を掠めていた職員の反応が否定されたのはいいことだ。
はやる気持ちを抑えて二、三度深呼吸をしてから、気持ちを切り替えるように一つ咳払いをする。
第一声は何と挨拶しようかと数瞬思考を巡らしてから、相応しいと思うのをいくつか用意、あとは相手の出方によって考えることにした。わずかに鼓動が高まるのを感じながら、ドアノブへと手をかける。金属製のひんやりとした心地よい冷たさが手に持った熱を逃がし、回転すると共に緊張のゲージがどんどん高まっていって―――。
「秘封倶楽部へようこそ!」
「…………」
暴発した。正確には、ドアノブは手からすっぽりと抜けてどこかへ飛んでいってしまった。それが自分が開ける前に、内側から誰かに開けられたのだと気が付いたとき、ようやく時音は目の前に居る人物を視認することができた。
黒のハットに純白のブラウス、赤いネクタイがやけに映える茶色の髪の少女は―――記憶の中にある人物でも比較的最近出会った―――宇佐見蓮子だった。
何が可笑しいのかは知らないが、にこにこと笑顔を貼り付けてこちらを見たまま黙って立っている。何か言えといわんばかりに。
仕方が無いので、時音はひとまずその場をやり過ごそうと考えてから笑顔のお面をかぶっていた蓮子に、予想百八十度上になってしまった記念すべき第一声を掛けた。
「いやあ、驚いたな」
「百人中百人が棒読みとわかる言葉をありがとう」
実際棒読みなので、特に反論する気も起きなかった。そもそも、蓮子の行動の時点でもはや理由を問い詰めることすら諦めていたかもしれない。
「一応聞くよ。お前は何をしていたんだ?」
「新入部員が来るから、一番に出迎えてあげようと思ってドアの前で待機していたところ、偶然面白いことを思いついちゃってね」
その偶然は十中八九必然だろうと胸中で突っ込んだ。それを言葉に出せない理由は、迎え入れようという気持ちは純粋に嬉しかったからだろう。鬱憤を晴らすべく「やれやれ」という言葉と共にため息をついたが、内心はさほど呆れているわけでもなかった。それぐらいは構わないかと思ってしまうのは、自分が甘いのか馬鹿なのか。
「また心理テストか何かか?」
とりあえずそのまま立っているのもあれだったので、時音は部屋の中へと入りながらぼやいた。それに気が付いた蓮子がととっと先に走り、部屋の中央に置かれているテーブルに備え付けられた四席のうちの一つを指差す。ここに座れ、ということだろう。
「それもあるけど、あなた驚かないんだもの。これは心理的に異常がある可能性があるわね」
そんなことを顎に手を当てて真剣な顔で言うものだから、時音は椅子に腰を下ろしつつも笑ってしまった。
「ははは。驚いてはいるが、何とか隠しているだけだ」
実際にはわけのわからなさすぎる事態に動転しているだけだが、そういうことでも問題ない気がした。それに、無表情で突っ立っていて気が動転したといってもあまり説得力が無い。
「ふうん。あなたも意外と大変なのね」
「誰のせいだよ、誰の」
そんな言葉には可笑しそうに笑って、蓮子は部屋の隅にある急騰設備のほうへ歩いていった。
お茶を淹れるのだろうか、と蓮子の背中を見つつ思いながら、時音はぐるりと部屋の中を見回す。
ちょうど入って左手に備わっている急騰設備は流し台と冷蔵庫が備わった、部室としてはやたら豪華な仕様のものだ。その隣には一際大きな本棚が置かれていて、タイトルを見る限りでしかわからなかったが学術書や小説、雑誌まで雑多な本が整然と並んでいた。恐らく、民俗学やオカルトを中心としたものが収まっているのだろう。実際に活用するのかどうかは分からないが、サークルとしては相応しい内容だ。窓際にあるホワイトボードには、これから何か書き込まれるのはずの、「今後の活動予定」と左上に大きく書かれたまま、他は真っ白な状態になっている。
特に気になったものといえば、テーブルの中心に置かれている一つの花瓶だった。彼岸花、もしくは曼珠沙華とも言われるこの奇妙な花は、名前から連想できるように結構不気味な見た目をしている。特徴的な細い赤い花びらが放射線状に広がっている様は、血が飛び散っているように見えなくもない。季節的に人口植物なのだろうが、天然物を見たことが無い時音にはどこがどう違うのかは判断がつかなかった。
それとなく彼岸花をじっと観察していると、ポットにお湯を注いでいた蓮子が声を掛けてきた。
「それ、メリーが持ってきたやつ。気持ち悪いとか言うくせに、何故か活けてあるのよね」
「ふーん……」
確かに、見た目が気持ち悪いと言うのは何となく共感できた。縁起がいいものとして捉える見方もあると話だけは聞いても、時音には不吉を齎すような不気味な花にしか見えない。
嫌なものも度が過ぎると一周まわって好きになったりするんだろうか、と思って頭の中で適当に嫌いなものをあげてみたら、気持ちが悪くなったのでやめておいた。驚くことに関してなら蓮子に実践されているので理解できるが、これはちょっと無理らしい。
蓮子いわく不思議少女らしいメリーなら、何か力が湧いてくる不思議アイテムの一つにしていてもおかしくはないだろう。
一体どんな理由があるのかは、本人が来てからのお楽しみにしておこう。
「そういえば、メリーはいつ来るんだ?」
ちょうど、二つのカップに紅茶を注いでいた蓮子の背中に問いかけた。
今日の比較物理学科は講義がないので蓮子が朝っぱらから活動に参加していることは頷けたが、メリーはどうなのだろうと思ったのだ。
メリーの学科は、蓮子からも聞き及んでいない。
「メリーは確か……今日は一講目で終わりだったはずだから、しばらくしたら来ると思う」
振り向かないまま、蓮子は思いだすようにしてそう言った。
「学科は?」
「相対性精神学科よ」
「ほー……」
想像していたメリー像と妙にマッチしてしまったので、無駄に感嘆の声をあげてしまった。学科が正反対とも言えるので完全にお門違いだが、一応何をする学問であるかは知っている。相対性精神学は夢や心といった人の精神に関する問題を取り扱い、夢と現実が相対、つまり対等の関係であるという考え方を基準にした、リアルとヴァーチャルが人の精神に齎す影響を追求していく学問だ。入学する前に貰ったパンフレットを多少読み流しただけなので、カリキュラムや勉強する科目についてはうろ覚えの状態になっている。
「まあ、楽しみにしていなさい」
そこでいきなり高飛車な態度を取る理由が時音には分からず呆けてしまったが、聞くのも野暮だと思ったので大人しくメリーの帰りを待つことにした。
「……ああ、そういえば。今日ここに来るとき、場所が分からなかったから学生支援センターに寄ったんだが……」
カップが乗せられたお盆を持った蓮子が対面の席に座るのを待って、言葉を続ける。
「……お前の名前を出すや否や、渋い顔をされたぞ。しかも、帰り際にはあのサークルに入るのかと聞かれたし」
部室の思ったより普通な雰囲気と蓮子との他愛のない会話で忘れかけていた。
あの時のことを思い返せば、目の前の彼岸花のよりも奇妙で不気味だったかもしれない。
あとで思い返して気になってしまっては困るので、これは蓮子にきっちり確認を取る必要があった。
「あー……それは顧問が教授のせいかもしれない」
カップを置きながらさらっと吐かれた爆弾発言に、時音は一瞬耳を疑った。
「それは本当なのか?」
「うん、本当」
現実を突きつけるように即答で返ってきた言葉には半信半疑ながらも、確かにそれなら全て辻褄が合うなと納得していた。
研究で多忙の毎日を送っているあの夢美が、といった感想はあるが、不思議な二人の少女が不思議な活動方針を掲げていれば、夢美が手を差し伸べる理由も何となしに分かる気がする。
夢美が幻想を信じているのかどうかについてはきちんと肯定しているので、思想が合えば夢美が二人を応援したくなるのも自然なことだろう。
「……なるほどな。ということは、お前が夢美と親しい理由も、色々と聞き出すことができたのも、その辺りが絡んでるわけか」
「そうね。灯台下暗しってやつ」
夢美と仲が良かった理由は単純に学科担当の教授だからだと思っていたのだが、よもやそんなことだとは考えもしなかった。案外、身近なことには気が付かないらしい。
「しかし……夢美が顧問となると、サークルを管理する職員達は気の毒だな」
夢美という権力的にも金銭的にも強力なパトロンを得てしまった以上、大学関係者からの目、もっと言えば今日立ち会った職員達の目を引くことになるのは自明の理だ。
幻想を追い求めるというサークルの活動方針は当然の如く表沙汰にはできないので、名目上ではオカルトサークルとして扱い、活動レポートは嘘の報告を書くか、もしくは権力で塗りつぶしてしまうかの二択だろうか。
そう考えると、蓮子の名前を出したときに渋い顔をしたことや、奇妙な対応をした職員達の気持ちも、何となくわかってくる。
権力で口封じをされてしまえば、例え虚偽の情報を知っていても口を噤まなければならない。不正を明るみに出せば、自分たちの首が飛ぶどころか首を括って吊りそうなほど追い込まれるのは簡単に予想がつく。その結果、大学側が岡崎夢美を失うという損失、風評被害のことを考えれば、最終的には大学自体に迷惑がかかることになる。夢美を敵に回すということは、死ぬのと同然と言っても過言ではないほど周囲に影響を及ぼすのだ。だから、権力に反抗する職員達は渋い顔をして黙認することしかできないのだろう。
「ははは。でも、いくら教授の権力でも、噂話には勝てないみたい」
「……それは真実が学生の間で広まっているということか」
だとすればちょっと冗談では済まされない。蓮子の言うとおり、いくら権力でも風の噂が夢美が統治できる以上に広まってしまえば、対処できるかどうかは怪しいところになってしまう。
だが、蓮子はそんな真剣な雰囲気を消し去るように、殊更明るく言った。
「違う違う!広まっているのは真実じゃなくて、活動してない不良サークルっていう噂」
その言葉を聞いて、すぐに肩の力が抜けた。
「それなら、逆に好都合か。事情を知らない人間がやってくることもないと」
きちんと活動しているオカルトサークルなら、物好きな人間は寄ってくるかもしれないが、活動していないところに誰も入りたいとは思わないだろう。
むしろ、表向きでは忘れさられていたほうが隠れ蓑には好都合だ。
「そういうこと。そして部費はしっかり入るから、私達はお金に困ることもなく活動していける」
そこら辺の学生に教えれば誰もが羨むような夢のシステムが、このオカルトサークル『秘封倶楽部』には実現していた。蓮子が真顔で言ったのは金への執着心がさほどないからという理由もあるし、不正利用している気は本人からすればないのだろう。
表向きは活動していないことになっていても、実際はきちんと活動する上でお金を使うのだから、そこまで気にするようなことでもないだろうか。
「しかし、夢美の資金力ならサークル一つ支えるぐらい造作も無いだろうに」
ふとした疑問をぶつけると、蓮子は可笑しそうにくすくすと笑いながら、言った。
「曰く、もらえるものはもらっておきなさい」
きっと似せようとしたのだろうが、全然似てない声真似と夢美にぴったりな発言に、思わず笑ってしまった。
「あっはははっ。夢美らしい考え方だ」
時音はカップに入れられた紅茶を一口啜って、研究室で夢美がくしゃみをしている様子を勝手に想像していた。夢美の場合は、風邪の引き始めなのか本当に噂が原因なのか判断がつかないが。
最近は寒くなってきたから、風邪を引かないようにインスタント食品を控えさせるべきかもしれない。
大権力者である夢美の食卓事情をほとんどを時音が握っているという事実は、夢美自身も公開したくない情報だ。
去年のこの時期も、一週間の食事をほとんどインスタント食品に頼る夢美を嘆いていた気がする。 たまに食事をしに自宅にやってくるのだが、それだけだと到底栄養バランスが追いつかないのだろう。結果的に風邪を引いて寝込んだ夢美はひどかった。夢美自身の家があるのにも関わらず自宅を病床に選ぶのだから、困り者だ。食事を用意するのは造作なくとも、朝も昼も夜も、食べさせないと子供よろしく駄々をこねる。おまけに眠るときは、寝付くまで傍にいないと文句を言い始める。挙句の果てにはパジャマの着替えさえ手伝えと言われるのだから、本当にどうしようもない。着替えはもちろん断固として拒否したが。しかし、歳がさして離れていないのにも関わらず親代わりになってくれた恩を考えれば、それも仕方が無いかと納得してしまう。それに、完璧超人と思われている夢美の世話をするのは、まんざらでもないのかもしれない。
「……さあて、メリーが来るまでもう少し時間が掛かりそうだし、教授とのあまーい生活でも教えてもらおうかな」
「げほっ、ごほっごほっ……」
紅茶を飲んでいたせいもあってか、蓮子の二度目の爆弾発言には思わず咳き込んでしまった。若干涙目になりながら蓮子のほうを恨めしげに見ると、曇天の空も一発で吹き飛びそうなほど楽しげな笑顔を浮かべていた。きっと回想していたときに感情が顔に出ていたせいで胸中が読まれたのだろう。その時の表情は、蓮子のみぞ知ることだ。
「ほらほら、私が目の前にいることを忘れるほど楽しい話なんでしょ?それは是非とも聞いておかないとね」
そう催促する蓮子は、夢に出てきそうなほど怖い笑顔だった。いや、きっと今日間違いなく夢に出てくるはずだ。笑っていない目には強い願望を通り越してもはや狂気が感じられるし、咳き込んだときの涙が上塗りされるのも時間の問題かもしれない。
「わ、わかったって。話すからその笑顔をやめろ」
「よろしい」
半ば懇願のように言うと、蓮子はようやくのこと怖い笑顔を消してくれた。
それから時音は、理不尽な訴えで死刑になった罪人の気持ちになりながら話しを切り出すのだった。




