密かに封を その②
広々とした屋上庭園の林道を抜けた先では、地平線近くの満月が煌々と輝いていた。光害の影響も少なく、暗い海の中にぷっかりと浮かぶ満月はどこか幻想的で、見るものを狂喜させるような不思議な魅力を感じる。
月光に照らし出されるのは、遥か眼下に広がる広大な黒い森。その中で点々と灯る控えめな光は、夜空に散りばめられた星々と対称的な風景を創り出していた。
秋夜の風は冷たく、気温は低い。
小高い山の頂上付近に建てられた研究棟の屋上庭園では、それがより一層強く感じられ、今にもくしゃみが出そうな錯覚に陥るほどだった。
「…………」
そんなことはどこ吹く風で、眼下に広がる景色に物憂げな視線を向けている少女が一人。風で飛ばないように黒のハットを片手で抑えながら、線の細い焦げ茶色の髪を揺らしている。
黒いスカートに黒い肩掛け鞄、白いワイシャツにピタッと留まった赤いネクタイはどこか異国の紳士のようにも見えるが、そうではない。比較物理学科を専攻するこの大学の学生、宇佐見蓮子だ。
「ん……どうかしたか?」
その隣でフェンスに寄りかかりながら、気遣うように声を掛ける青年、神埼時音は、寒さで固まりそうな体をほぐすように一つ伸びをした。
「うん……」
小さな声で呟いた蓮子は、横目でちらりとこちらを見て、すぐにまた視線を眼下へと戻す。
何か話が続くのかと思って耳を傾けてみるも、聞こえてくるのはびょうびょうという風が吹く音だけだった。
蓮子と知り合ったのは、つい一時間ほど前のことだ。蓮子が仕掛けたいたずらがきっかけという数奇な出会いを果たしたのにも関わらず、すぐに友好な関係を築くことができたのは、ひとえに思想が似通っていたからだろう。蓮子は時音の前で、妖怪を信じていると公言した。心のどこかでそんな人間を求めていた時音にとって、それは衝撃的なことであり、蓮子に親近感を覚えるのもさほど時間はかからなかった。
話をしていく中で、少なからず距離が縮まっただろうかと思っていたのだが、ここにたどり着いたときから蓮子はあまり元気がないように見える。さっきまではくだらない水掛け論を交わしたり、帽子の取り合いをしたりと楽しげな様子だったのに、それがまるで夢の話だったかのように消え去っていて、時音は少しもの寂しさを感じていた。
蓮子が時音をここに連れてきたのは、身の上話をするためだったはずだ。正確にはそんな単語は使っていなかった気がするが、解釈としては間違っていないだろう。
この状況をあわせて鑑みれば、さっきまでの蓮子の楽しげな様子は、身の上話をするのが楽しみだったというわけではなく、単純に空元気だったのかもしれない。
だとしたら、たとえ夜風で体が冷たかろうが、時音はなおさら催促することなどできなかった。身の上話で楽しいものではないとするなら、それは少なからず蓮子が抱えている何かに関わっている可能性がある。不自由ない人生は温かみのある思い出話を生むが、その分逆は何があるかわからない。催促するということは、それらおいそれと人には言えないような話を、無理やり引き出すことになってしまう。己が内に秘めるものは他人に言われて話すものではなく、己が意思で、信頼できる人間にのみ話すべきだろう。
それを分かっていたからこそ、蓮子は時音が遭遇した不可解な事件のことも、詮索してこなかったのかもしれない。
ならば自分がすべきことは、寒さで身を震わせることではなく、いつでも来て構わないという姿勢を持って静かに待つことだ。
「ふう……」
そうして幾度目か、冷たい空気を取り込むように深呼吸をしたときのことだった。
「あなたは……」
怒るでもなく悲しむでもなく、平静を保った小さな声。
横目でちらりと見てみれば、蓮子は未だに視線を眼下に向けていたので、時音もそれにならった。
だが、返事は返さない。聞く姿勢は既に整っているのだから、今の蓮子に言葉は必要ないはずだ。
「あなたは、この街のことについてどう思う?」
少し、予想外の言葉だった。
てっきり過去に遭遇した奇怪な事件や、両親の死に関する重たい話から切り出すのかと思っていたが、違ったようだ。
蓮子が視線を向けている先、眼下に広がる黒い森は、正確に言えば森ではない。
樹海の街。
日本の首都である酉京都は、報道メディアや科学者たちの間でそう呼ばれることが多かった。緑化都市の最先端を行く日本の近未来都市は、地球環境保護主義を推進し、自然と人間の共生をテーマとした新しいランドスケープの創造に成功した。人口減少と条例による規制で高層建築は価値を失い、歴史的様式美として日本建築が主流になっていく中、現代的要素として加えられたのが自然の景観だ。陸屋根の住宅は屋上庭園を設けることが義務づけられ、主要な大通りだけでなく、網目のように張り巡らされた私道でも、後の生育を全て計算した上で苗木が植えられていった。
そして現在は、住宅の屋根が必要ないのではないかというほどの巨大な樹冠を形成している。住宅街に入ればこそ分からないかもしれないが、上空から見渡せばその異様な様相は一目瞭然だ。風に吹かれて風上から風下へと木々が揺れていく様は、植物の海のように見えることから、樹海の街という名がついている。
しかし、蓮子の質問の意図はどういうことだろうか。蓮子が物憂げになっている理由は恐らくこの眼下に広がる酉京都のことであり、印象の良し悪しを聞くものであるのは予想がつくが、それをわざわざ聞いてくるというのがいまいち解らない。
といってもこのまま黙っていては仕方がないので、ひとまず時音は自分の考えを述べていくことに決めた。
「少なくとも、あまり良い印象はないな」
「それは、なぜ?」
間髪入れずに、先ほどよりも冷たい口調で蓮子は言った。どうやら、下手な誤魔化しや的を外れた回答は許されないようだ。
時音は努めて冷静に、頭の中で選択すべき言葉を組み立てていく。
「先人の知恵や科学者たちによって技術は発達した。自然を自分たちの都合の良いものに作り変え、人口植物と合成食物が普及することにより、地球環境への負担は大幅に減った。その多大な功績を収めた先駆者とも言えるべき街が、日本の首都であるこの酉京都だ。だが」
蓮子が不満げな顔をして、何かいいかけたような気がしたが、それは遮った。
時音は有無を言わせぬように、言葉を続ける。
「だが、科学者たちは生み出してきた功績に自惚れて、自分たちを神か何かと勘違いしている。この世の全てにおいて理論で説明できないものは存在せず、理論という自分たちの領域に及ばないものは存在しないものだと勝手に決めつけ、排斥する。神が創り出したもの以外はこの世に存在しない、とね」
続けて喋ったおかげで乾いてしまった喉を湿らすようにごくりと唾を飲み込んでから、隣にいる蓮子を見やった。
視線に気が付くと、蓮子は軽く頷く。
「ええ。そして、そんな愚かな考えが視覚的に示された見本も、この酉京都」
「そうだ。自然や生態系が自分たちの手でコントロールできず暴走し始めたとき、どんな恐ろしいことになるかは想像がつかない。人がいくらシュミレーションをしようとも、事象に絶対という言葉は存在しないからな」
そこまで話し終えると蓮子がきょとんとしていたので、論点がずれてしまったかと思ったが、それは杞憂に終わった。
「……ふふ。比較物理学科所属にしては、随分と分かりやすい一般論ね」
蓮子が、ようやく笑ってくれた。それが遠い昔のことのように思えて、思わず懐かしみのある目でみつめてしまう。
感心したような口調からからかっているわけでないことはすぐに分かったが、例えそうだったとしても時音は素直に喜べていたはずだ。前を向いてひたむきに歩き続けるような蓮子の暗い表情は、それほどまでに重い。
「それは偏見というやつだ。ペンタブ片手にタコができるような数式の羅列は、机上だけで腹いっぱいなんだよ」
肩をすくめて苦笑いをすると、蓮子はこらえるようにくつくつと笑い出した。
「それはあなたの計算効率がよほど悪いか、ペンの握り方が悪いか」
痛いところを刺された、と思っても、時音は素直に白状する。
「恐らく前者だな。才色兼備のお前の頭脳には敵わない」
「それは褒め言葉として受け取っておこうかな」
蓮子の様子を見ると、少しだけ機嫌が直ったようだった。先ほどまで蓮子を覆っていた物憂げな雰囲気は夜風に流され、今は柔らかな微笑と共に髪を揺らしているだけだ。そんな蓮子を見ているとつい先ほどの話題を放置してしまいたくなったが、そのままではいけないと己の心に叱咤した。
この機会に蓮子が本当に望んでいた回答を掴めなければ、蓮子が自分の前から消えてしまうような、そんな焦燥にも似た危機感を抱いていた。
根拠のない、漠然とした思い。
だが、時音が懸命に頭を回転させるのには、ただ蓮子の為にという明確な目的があるだけで十分なだった。
酉京都があまり良い印象ではない理由を述べたとき、蓮子は一般論だと言っていた。だが、逸れに対して蓮子は馬鹿にするふうでもなく、また否定するわけでもなかった。少しだけ機嫌が良くなったという蓮子の態度と合わせて鑑みれば、少なくとも否定的な感情は抱かなかったはずだ。
ならば、蓮子が求めていた回答はそれに近からずも遠からずである可能性が高い。
そもそも、蓮子は妖怪を信じている。時音と同じような思想を持っているのなら、妖怪と言う幻想の存在を否定する社会は気に食わないと思っているはずだ。正確に言えば、自分の思想が受け容れられない社会について。
ならば、蓮子に掛けるべき言葉は自ずと見えてくる。
時音は頭の中で並べた文章をしっかりと反芻してから、意を決して蓮子のほうに向き直なった。
「自分は社会に受け容れられない存在かもしれないと……。お前が言いたかったのは、そういうことか?」
蓮子は一瞬だけはっと目を見開いた後、すぐに俯いてしまった。
やはり機嫌を悪くしてしまったか、と思ったのだが、それはすぐに勘違いだと判明する。
「うん。まあ、あなたならたどり着く答えだとは思ってた」
俯いた顔を少し上げて、満足げな笑みをする。
先ほどの、蓮子が何かを求めているような予感は、あながち間違いではなかったらしい。
ただ一つ予想外だったのは、蓮子に試されていたことだった。蓮子の言葉からは、時音をそれなりに信頼した上で回答を導かせていたことがわかる。内心冷や冷やさせられたといって腹が立つよりも、時音はある種の安心感を覚えていた。これで、妖怪を信じているという共通の思想が、より確固たるものになったと思ったからだ。
最初の不安げな様子は演技だったのか、というのは無粋だと思ったので聞かなかったが、恐らく演技ではなかったのだろう。僅かに見えた蓮子の瞳は、真実の色を示していたように思える。
「知らず知らずのうちに試されるのは心臓に悪いぞ」
蓮子と話すたびによくわからない危機感と焦燥感に駆られていては、正直なところ精神が持たない気がした。
「じゃあ、それに備えて心臓は鍛えておくことね」
「どこにそんなトレーニング方法があるんだよ」
半ば呆れ気味に言うと、蓮子は「自分で調べなさい」と言って声なく笑っているだけで、取り付く島もなかった。
もう二度と使うことはないような記憶の引き出しを覗いてみると、心臓を鍛えるのは筋力トレーニングなどでは不可能だったはずだ。
言葉を返すのも疲れてしまって時音が意気消沈したまま頭を冷やしていると、蓮子が真面目そうな顔に戻った。
「まあ、それは今回だけだと思うから大丈夫。その話は、私がこれから話すことの余興みたいなものだから」
「……余興?」
頑張って頭を働かせなければならないことを余興にされるのは、勘弁願いたかった。
それでも、少し不満げな顔をするだけで文句も言わずに話の続きを促す。
「そう。私の持っている、不可思議な能力の話よ」
「不可思議な能力、か」
何の前触れもない神秘的な単語が聞こえた気がするのに、時音は繰り返すだけでさして驚くことはなかった。
妖怪という人間が考え出した世の理から外れたような存在がいるのなら、超能力を持った人間の一人や二人がいてもさして不思議ではない。それに、蓮子も妖怪を信じていると言うからには何かしらの根拠があるはずだと思ったからだ。
一度でも夢か現か分からなくなってしまう体験をすると、たいていの超常現象を冷静に受け容れられてしまうような、そんな病があると時音は勝手に考えている。
「あれ、意外と驚かないのね」
蓮子がきょとん、とした顔で呆けているのは傑作で、思わず頬が緩みそうになってしまった。そんなことを思っていると簡単に見透かされて突き落とされかねないので、時音は誤魔化すように至極当然と言った態度を取る。
「ごほん。まあ、世の中に幻想は溢れているということかな」
蓮子は不自然な咳払いに訝しげな視線を向けていたが、やがてそれもそうかと納得したようだった。
「……私がさっき言っていた、社会が幻想を受け容れないということを強く実感したのは、この能力を自覚し始めてからだった」
そうして蓮子は、静かに一人語りを始めた。
時音はそれを邪魔しないようと再びフェンスに寄りかかって、聞き入ることに徹する。
「物心がついたばかりのときは、不思議なこともあるんだなあと呑気なことを考えていたんだけど、大きくなるにつれてそういうわけにもいかなくなるのよね」
ふむ、と眼下を見下ろしたまま相槌を打つ。
話についてこれているかを確認したかったのか、蓮子は反応を見てから言葉を続けた。
「次第に、周りとは違うんだって思うようになってくる。時には私だけが特別、なんて幼稚な考えをしたときもあったけど、それ以上に取り残された恐怖のほうが大きかった。もちろん、仲の良かった友達にも相談したけど、結果は日の目を見るより明らかよね。苛められるようなことはなかったけど……ちょっと奇異の視線で見られて、悲しかった」
周りに比べて突出している人間が攻められるのは、いつの時代も変わらないのだろう。人は心のどこかでそんな黒い欲望を抱えているから、欲の制御が未発達な幼少の時代はそれが顕著に見られる。出る杭は打たれる、だ。苛めに合わなかったのはこれ幸いだが、信頼していた友人に裏切られるというのは、計り知れないほど辛かったはずだ。
似たような境遇と言える時音は、その時のことをまた思い出してしまいそうになって、思わず目を瞑った。
「結局両親にも言うことができなかった。誰にも相談できず、理解してもらえず。能力のことは言わなければばれなかったから、隠すことに苦労はしなかったけど……。でもね。もう、わかるでしょ?」
その疑問系の言葉が自分に振られたものだと気付いたときには少し焦ったが、言葉の続きはすぐにわかった。
蓮子の境遇は、時音が共感できるようなところが多々ある。些細な部分こそ違っても、本質を考えれば似たようなものだ。それに自身を当てはめて考えればいいだけなのだから、答えを導くのにさほど頭を悩ませる必要はなかった。
眼下の森から、蓮子のほうへと視線を向け直す。
「この世界では、自分が自分らしく生きることはできない」
神妙な面持ちで、蓮子はゆっくりと頷いた。
その際、情景を思いだすように浅く瞼が閉じられる。
「そう。その答えにたどり着いたときこそ、落ち込んじゃったけど……。でも、すぐに希望を取り戻した。世界は広いのだから、きっと私以外にも似た境遇の人がいるって」
そう言って、しっかりと目を開けた。
蓮子の瞳は過去と決別することを決めた希望と覚悟に満ち溢れていて、今も当時の輝きは失われていないように思えた。
やはり、蓮子は前を向いて歩ける人なのだなと、時音は素直に感心した。
後ろ向きの感情ではなく、心に持った僅かな希望で前進することができた蓮子は、本当にすごいと思う。
しっかりとした口調で話を続ける蓮子の姿は、月光に照らされていたせいもあってか、時音にはどこか神々しいものに見えた。
「それからは、勉強の毎日。勉強といっても学校でやるようなものじゃなくて、オカルトに関連することかな。色々なオカルト雑誌を買い集めて、それを検証するための知識を自分で身につけて、発見した人や有名な評論家を調べまくる。とにかく努力してたね」
今の時代でオカルト雑誌といっても、まず種類が少なければ、真面目に書いてある記事はほんの一握りほどしかなかっただろう。社会ではオカルトは研究するものではなく、ちょっとした暇つぶしの一環としてしか認識されていない。蓮子が言う評論家とやらも、面白おかしく書かれた記事にでっち上げられたエセ評論家が大半を占めているはずだ。
それでも、なお蓮子は諦めなかったのか。
「そんな風に生活してたら、高校も卒業間際。私みたいな人は結局見つからなかったけど、時間は待ってくれない。物理学が好きだったのと、岡崎教授が講師をやっているっていうのを聞いて、この大学にやってきたんだけど……」
そういえば、夢美がオカルトの趣味があるというのは巷でよく流れていた噂だった。それよりも、夢美の場合は発表した論文によって出来上がった突拍子もないイメージのせいだとは思うが。蓮子も、一縷の望みにかけてこの大学にやってきたのかもしれない。
「そこで、ようやく!」
お、と思って蓮子のほうへ期待の眼差しを向けると、蓮子は言葉を溜めるようにしてぎゅっと目を瞑っていた。
「ようやく、私と同じ境遇を持った少女に出会うことができたの!」
蓮子は喜色満面の笑みだったが、時音は内心が混乱していてそれどころではなかった。
ただでさえ蓮子のような、同じ思想を持った人間が身近にいて、更にもう一人もいるというのか。
ちょっと前までは、世界は広いのだから遠い遠い国のどこかにもう一人ぐらいはいるはずだとまるで夢の世界のことのように考えていたのに、これでは今までの考えが全て嘘になってしまう。
時音は世間が狭すぎることと、あふれ出る嬉しさに我慢できなくなって思わず笑い出していた。
「あっはははははっ」
突然笑い出してしまったせいか、蓮子が怪訝そうな目で見つめてくる。
少々誤解を招いてしまったかな、と思ってもこみ上げる笑いが止まらず、眉間に皺がよってきた蓮子に手刀で一発やられたとき、ようやく我に返った。
「ちょっと、人が真面目に話しているときに不謹慎!」
「いや、そうじゃなくてだな」
憤慨している蓮子を宥めるように両手を挙げて、説明を始める。
「まさか、そんな人間がもう一人いるとは思わなくてな。それに蓮子の友人だろ?まったく、世界は広いって言うが、これじゃあ狭すぎるぐらいだ」
再びこみ上げてきそうな笑いをひとまず抑えて蓮子を見ると、納得したように数回頷いていた。
「ふんふん。確かに、境遇は知らないにしても教授も私たちの考えを理解してくれるみたいだし……私も世界は広いとは言ったけど、これじゃあ狭すぎるわね」
やっと蓮子も笑いのツボを理解し始めたのか、可笑しそうにくすくすと笑い始めた。
それに釣られて、時音もこらえることなく一緒になって笑い出す。
「いや……っははは。しかし、もしかしすると世界が狭いんじゃなくて、それだけ世が幻想にまみれているってことなんじゃないか?」
蓮子はこみ上げる笑いが未だに残っていたが、気にせずに言葉を返した。
「っふふふ。そりゃあもう、どうしようもないくらいにね」
世界は幻想にまみれている。その真偽のほどを知る術は今のところ存在しないが、こんな偶然に出会ってしまうとそう考えたくもなってくる。
自分たちが見ている世界はまだまだ狭く、自分たちが知らないだけなのか。はたまた世界には幻想がまみれていて、そんな存在に邂逅することはさして珍しいことではないのか。
どちらか片方なような気がするが、そうでもないような気もする。
だから、時音は纏めて考えてしまうことにした。
「俺たちが知っている世界は、まだほんの一部だ。世界は広い。その広い世界の中で、幻想は見えないところにたくさん隠れている」
そう言った瞬間に、見えている世界が広がった気がした。
実際には何ら変化のない、ただ柔らかな夜風が吹く静かな満月の夜なのに、時音にはまだ見ぬ未知の世界が、雲ひとつない星の空に広がっているように見えた。
蓮子と今日、出会うまでは絶対に味わえなかっただろう心が澄み渡っていく感覚。それまでは、どこか不鮮明な曇り空が心を覆っていて、視界が遮られてしまったかのように思えていたのに、そんな気持ちは綺麗さっぱりどこかに吹き飛んでいた。
新しい大切な何かを得ることができた。その充足感と高揚感に、時音は胸が踊らずにはいられなかった。
黒いものが消え去った心に灯されたのは、昼間の太陽のように静かに燃え輝く希望の火。その火が消えることのないよう、時音はそっと胸に手を当てるようにして、蓮子のほうを見た。
「……そうね。そう思うと、とんとやる気が湧いてくる!私たちの知らないまだ見ぬ幻想を求めて、明日へ向かって前進あるのみよ!」
高揚した声でびし、と天に向かって突きつけた指先は、少女という可憐さの中にも力強い雄々しさを表していた。
「その算段は、既に整ってるのか?」
挑戦的な笑みを浮かべて、ピン、と立てられた蓮子の細い人差し指を見つめる。
それがそのまま横移動してきて、時音の前に置かれた。
「もちろん。不思議少女メリーと私。この二人で、サークル活動として日々幻想を追い求めているわ」
蓮子は、性格に違わず行動力のある人物だった。メリーという少女はさっき蓮子が話していた、大学で出会った少女のことだろう。不思議少女というからには、近年稀に見る天然キャラで電波な発言を挨拶代りにしていたりするんだろうか。
気になるところではあるが、それを知る機会は果たして来るのかわからない。
「まあ、頑張ってくれよ。俺は影ながら応援してるぞ」
せっかく見つけたというもしかすると親友に近いような人間と二人だけで活動しているのら、そこに入る余地はないだろう。そんな思い出深い場所にずかずかと土足で入っていけるほど、時音は図々しい考え方をできなかった。
もちろん蓮子もそれに力強く頷いて、こっちまで影響されそうなほど幻想の果てまで突っ走っていくのだろうと思っていたのだが、時音の安易な予想は正反対の方向に外れることになる。
「え?あなたは入らないの?」
文字通り返す言葉もないまま、時音は蓮子が何と言っていたのかわからなくて、しばし呆然としてしまった。きっと頭では理解していたのだろうが、状況を受け容れられないのは込み上げる嬉しさのせいだったのかもしれない。
だが、蓮子が気を遣っているだけかもしれないという根拠のない考えが邪魔して、時音は素直に喜ぶことができなかった。
「お前、でも……今まで必死に努力してきて、せっかく見つけたいわば運命の人なんだろ?そんなところに俺が入る余地なんて、ないじゃないか」
自分で言って何だか悲しくなってしまって、後半は力が入らなかった。メリーという蓮子と同じような境遇を持つ少女がいたことは、時音にとっても喜ばしいことだ。仲間は多いほうがいいと思うし、そのメリーについても色々と話をしてみたくもなる。だが、できれば最初に出会ったのが自分だったら良かったなと勝手な感想を抱くのも事実だった。半ば投げやりになって言ってしまったのは、そんな自己嫌悪に苛まれていたせいかもしれない。
それに対して、蓮子は静かに首を横に振った。
「運命の人。確かに、そうだと思ってる。私にとってメリーはそれほど大切な存在だと思うし、メリーもきっとそう思ってくれている。メリーと過ごす時間は、過ごしてきた時間は、本当に楽しい」
ならば、なぜだと言いそうになったが、それは蓮子の手で制された。
蓮子は、でも、と言葉を続ける。
「だからといって、私はあなたを蔑ろにしたいなんて思わないし、思えない。メリーは運命の人だったけど……私にとっては、あなたも同じぐらいに運命の人だと思えるから」
その表情は、恥ずかしげな笑みだった。それが何より貴重で大切なものに見えてしまって、もう二度と手に入らないかもしれないという気がして、時音は蓮子の目を見つめ返していた。きっと相当気の抜けた顔をしていたはずなのに、蓮子は決して笑うことはなく、ただ優しく微笑みかけるだけだった。気恥ずかしくはない。そんな上辺の矜恃よりも、ずっと満ち足りた感情が、心いっぱいに埋め尽くしていた。
「そうか……わかった。ありがとう」
その言葉に、蓮子は静かに微笑んだ。
「明日、よければ部室に来なさい。歓迎するから」
「ああ」
短く答えると、蓮子は凝り固まった体をほぐすように、一つ伸びをした。その体は、心なしかふるふると小刻みに震えているようにも見える。やはり、言い出さないだけで蓮子も寒かったらしい。
「さあ、そろそろ帰らないとね。もうこんな時間だし」
懐から端末を取り出すでもなく、『こんな時間』と言ったのは、夜が更けてきているという意味からだろうか。上空にしばらく視線をやっていたのが何だか気になったが、声には出さなかった。
「そうだな。また明日、話を聞かせてもらおう」
蓮子は短く「うん」と答えると、小さく手を振ってからすたすたと歩き出してしまった。
きっと帰る方向は違うのだろうから別に構わないのだが、時音はまだ何か聞き忘れたことがあったような気がして、それを引き止めたくなった。
蓮子といままでに話した内容をざっと数秒で思い返してから、それが何なのかが判明した。
「蓮子!」
距離はまだ五メートルも離れていないので、呼びかけると蓮子はすぐに後ろを振り返った。
「お前の能力、結局なんなんだ?」
蓮子は、そういえば、と言った感じではっとしてから、少し大きめの声で言った。
「星を見て時間がわかり、月を見て今居る場所が分かる」
それを聞いて、さっきの蓮子の行動に合点がいった。空を見上げていたのは、どうやら月と星の位置を確認するためだったようだ。
時音が満足したように頷きを返したが、対する蓮子は不満げだった。手をこちらに差し伸べているのは、感想を言え、ということだろうか。
「素敵な能力だ」
肩をすくめて笑ってみせると、蓮子は笑い返した。
「七十点」
それが感想に対する点数なのだと気が付いたときには、蓮子はくるりとスカートを翻して、さっきよりも早い調子で歩いていった。かぶっていた帽子を片手にくるくると回していたのは、機嫌がいいせいだろう。
もはや、引き止める必要もない。
時音は小さくなっていく蓮子の背中を見送りながら、勢い余って帽子を落としそうになっていた蓮子を見て小さく笑った。
秋夜の満月は、二人を静かに見下ろしていた。
酉京都の設定は伊弉諾物質の冒頭部分に影響されています。今までの酉京都のイメージが躍進的に変わった公式設定と言えるのではないでしょうか。緑化都市、というよりは緑都市ですね。これから少しづつ酉京都の街並みが見えてきます。




