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時の迷路  作者: 幽雛
第一章 幻想の過去
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チェンジマイライフ その②

 太陽高度は、先にも増して高くなっているようだった。壁にくり抜かれた大きめの窓からはカーテンを引きたくなるほどの眩しい光が差し込み、手元にあった紅茶の水面がきらきらと輝いている。さっきまでは少し肌寒かったのだが、温められた空気は至福のひと時を過ごすのにちょうどいいぐらいの適温を提供していた。

 その恩恵に与りながら、至福とはほど遠いような話を聞き終えた対面に座る少女、宇佐見蓮子は、満足げな顔をしながら最後の紅茶を飲み下す。

 彼女の残っている紅茶が自分のものよりも少なく感じたのは、気温の上昇に伴う蒸発などではなく、きっとこちらが暇なく話を続けていたせいだろう。蓮子に意志を汲み取ってもらえるとするなら、正しくは『暇なく吐かされていた』だと思うのだが。

 そんなことは毛ほども気にせず、量も少ないのに何か間違っている「ぷはぁ」という言葉と共にカップを置いた後、蓮子はふっと外の景色に目を遣った。


「……そろそろ、時間かな」


 帽子のつばを押さえつつ眩しそうに目を細めて、そんなことを呟く。

 蓮子の反応から何となしに推察すると、見ていたのは外の景色や空模様ではなく、さんさんと輝く太陽だったらしい。


「お前の能力は、太陽でも構わないのか?」


 もうすっかり冷めてしまった紅茶を啜りながら、目を傷めたのか掌を当てている蓮子に問いかけた。

 月を見て場所が分かり、星を見て時間がわかるという不思議な力を持っていることを聞いたのは、昨日の晩のことだ。実際に夜空に浮かぶ月と星空を見上げて、時間を計っているような素振りを時音は確認している。そこでふと気になったのは、能力が昼間でも使えるのかということだった。月はもちろん出ていないし、星は太陽の強い光で遮られているのだから、残る可能性は太陽しかないだろう。


「太陽も星の一つじゃない」


 あっけらかんと答える蓮子の様子に、時音は思わず首を縦に振ってしまっていた。遥か昔の人間達は太陽と暦で時間を測っていたそうだし、蓮子が能力で時間が分かっても不思議ではないのかもしれない。

 ただ、今度は目を掌でぺしぺし叩いている蓮子を見ると、昼間の間は能力ではなく時計を使うだけで十分な気もする。怪我の功名というにはあまりにリターンが少ないので、過度な使用は控えるべきだろう。


「まあ、あまり無茶はするなよ。目を傷めるからな」


 そう言うと、ようやく痛みが引いたのか確認するように数回瞬きをして、こちらへ視線を向ける。予想していた通り、目は泣き腫らしたように赤くなっていた。


「んー、お気遣いありがとう。それより紅茶」


 目の前にすっと差し出された蓮子の掌には、何も乗っていない。紅茶を淹れて来い、ということだろうか。

 どうやら蓮子にとっては、気遣いよりも紅茶のほうが大事らしかった。さんざん話をさせておきながら高飛車な物言いだが、体を張って時間を測ってくれたのは事実なので、無下に断ることもできない。かといってそのまま素直に紅茶を淹れにいくのも嫌だったので、蓮子の掌を上から軽く叩いて、立ち上がり際にこう言った。


「お前はお姫様か」

「…………」


 ぽかんと呆けた表情をしている蓮子は、なかなか傑作だった。鑑賞しすぎると手刀が飛んできかねないので、そそくさとカップを盆に回収して急騰設備のほうへ向かう。物凄く恥ずかしいと思ったのも、後ろでくすくすと可笑しそうな笑い声が聞こえたのも、きっと気のせいだろう。からかう側が、顔が紅潮して逆にからかわれるなんていう間抜けなことがあるわけないと時音は信じて疑わなかった。


「いやあ、傑作だったわ」


 そんな言葉は他惑星文明に存在する言語だと思考の端に追いやって、目の前の作業に集中する。自宅にはない便利な電気ケトルがあったので、これを利用しない手はない。メリーもそろそろ来るということだったので、食器棚らしき場所から同じカップをもう一つ取り出して、盆に並べた。まだ一回分しか使っていない茶葉なら、そのまま湯を注いでも問題なく出るだろう。ポットの蓋を開けて湯を注げば、湯気と共に紅茶独特の芳醇な香りがほのかに漂った。

 そんな一連の作業の間にも絶え間なく続いていた笑い声の幻聴が聞こえなくなったのは、一つ目のカップに紅茶を注ぎ終わった頃だった。


「お、来た」


 蓮子が背中越しにはっとしたような声を上げたが、時音にはいまいち分からない。言葉の意味としては『メリーが来た』ということなのだろうが、部屋の扉が開く音がしたわけではない。耳を澄ましてみても、廊下を歩く靴の音が聞こえたわけでもなかった。


「お前の耳は地獄耳なのか?」


 二つ目のカップに紅茶を注ぎながら、振り向かずに問いかけた。

 言葉の使い方としては間違っているが、本来の意味はそんなものだった気がする。まさか時間と場所が分かる能力の恩恵というわけではないだろうが、能力抜きにして情報収集が得意な蓮子が耳聡いというのは何となく納得できることだった。


「天国よ」

「そんなものは聞いたことがない」


 きっと後ろを振り向けば、不満げな顔の蓮子がわざとらしく唇を尖らせているだろう。

 単純に意味を逆転させるならば、天国耳とやらは本来の役割を失いそうなほど不便になる気がするが、蓮子が想像しているのはどんなものなのだろうか。

 天国という名前から発想して自分に都合のいいことしか聞こえてこない耳だと一見幸せそうな気もする。世界の理を知らないで自分の世界の中だけで生きるのが愚かなのか幸せなのか、という哲学的な話になれば、時音は人それぞれと答えるだろう。幻想を追い求めるような性格の蓮子からすれば、知らぬが仏というよりも無知は罪という慣用句のほうが似合っている。蓮子の場合は、自分に都合の悪い話でも都合良く聞こえる、ある意味悟りを開いた仏教徒のようなものなのかもしれない。

 そんなとりとめもない天国耳の考察は、控えめに扉を二、三回ノックする音で締めくくられた。


「……ほんとに来たんだな」


 少し遅れて三つ目のカップを注ぎながら呟く。

 どうやら蓮子の天国耳は、考察するまでもなくすごい性能を秘めているようだ。


「当たり前じゃない」


 蓮子の自慢げな声に次いで、立て付けの悪い扉が蝶番を軋ませて開かれる。

 誰かが入ってきたのであろう衣擦れの音を聞きながら、ちょうど紅茶を全て入れ終わった盆を持って扉のほうを向くと、話にしか聞いていなかった不思議少女メリーの姿が、そこにあった。


「あら……」


 一度蓮子の姿を認めて椅子に向かおうとしたところ、視界の左端の存在に気が付いた、といったところだろうか。メリーがこちらの視線に気が付くには、数瞬の遅れがあった。

 第一声は、メリーの驚いた声。透き通るような綺麗な声質は、服装の雰囲気も相まって優しい貴婦人を連想させる。

 窓から差し込む陽光に煌いているのは、見るものの目を引く金の髪。肩下まで伸ばしたその金髪は、不自然さがない程度にウェーブがかかっている。それを柔らかく包むようなフリルの入った帽子と、薄紫を基調とした衣服。それぞれのパーツが、彼女の白磁の肌を邪魔しないように整えられていた。

 西洋人とも日本人ともつかない中間の顔立ちは、開国政策のときに移住してきた外国人の子孫だからだろうか。少なくとも、祖先に西洋人がいるだろうことは間違いないはずだ。

 頭の中で想像していた不思議少女のメリーは、もっとオカルトチックで魔術師よろしく黒いローブでも羽織っているのかと思っていたが、そのことを今すぐ謝罪したい気分だった。


「ごほん……ええと、比較物理学科の神埼時音だ。今日から世話になる」


 とりあえず何か言わなければと思ったのと、蓮子が目配せをしてきたのもあって、時音はひとまず無難な挨拶をかけることにした。

 すると、ぽかんと口を開けて固まっていたメリーの時が、再び動き出す。

 

「へ?ああ……ええと、相対性精神学科の、マエリベリー・ハーンよ」


 ぎこちない反応から返されたのは、流暢な日本語だった。本人が必死に努力して作っているのだろう柔らかい笑みも、心なしか引きつって見えるのは幻覚だろうか。


「メリー、とりあえずここに座って」


 そんなメリーの挙動不審な動きに気付いているのかいないのか、蓮子は何食わぬ顔で自分の隣の席を指差した。ここに座れ、という意思表示だろう。


「え、ええ、わかったわ」


 蓮子の隣に向けて歩き出そうとして、こちらに視線を合わせ直して、また歩き出そうとして、を二、三回は繰り返してから、メリーは未完成のAI搭載ロボットのように角ばった動きで示された席のほうへと向かっていった。途中、何もないところで転びそうになったり、椅子に座るときに躓きそうになったりしたが、険しい道を乗り越えて何とかたどり着けたようだった。


「メリー、大丈夫?」


 そんな様子のメリーを見てようやく違和感に気が付いたのか、隣の蓮子は不自然なほどピンと背筋を伸ばしているメリーに視線を向けて、心配そうに、というより怪訝そうに眉根を顰める。

 

「……ええ、大丈夫。心の準備はできているわ」


 どこか神妙な面持ちで頷いたメリーの姿は、これから戦場に赴くのではないかと思うほどの決意に溢れていた。

 だが、テーブルの上で握られている拳は小刻みに震えているので、顔と体がてんでばらばらに動いているようでちぐはぐに見える。

 メリーの一連の反応についてもだが、もはや何に向けて準備をしているのかさえも時音には理解不能だった。

 これが不思議少女と呼ばれる所以なのだろうかと呑気なことを考えながら、突っ立っているのも不自然だったのでひとまず紅茶を配りまわる。


「…………」


 紅茶を目の前に置かれても、メリーは視線を一切動かさず微動だにしない。メデューサに睨まれて石像になったのではないかというほど表情が固まっていて、不思議少女と聞いていたこともあって時音は内心ひやひやしながら紅茶を配り終えるのだった。

 視線を向けられるのが何となく怖かったので蓮子の向かい側の席へ着くと、それを確認してから蓮子が口を開いた。


「ええっと、さっき自己紹介していた通り、今日から新しい秘封倶楽部のメンバーとなった、神埼時音よ。とりあえずメリー、何か質問はある?」

「あの!」


 蓮子が視線を横に向けつつ改まった感じで聞くと、メリーの時が突然動き出した。

 あまりに突然すぎる出来事と大きな声にびっくりして、思わず掴んでいたカップを落としそうになる。

 反射的にカップを置いてメリーのほうを見ると、これ以上ないくらいにメリーは真剣な表情をしていた。


「神崎君は……」


 そこまで言って、何か迷うことを聞こうとしているのか、視線を漂わせて躊躇する。ちらと隣の蓮子のほうを見れば、不思議そうな顔をしながらも紅茶を飲みつつ事の次第を見守っているようだった。

 当事者ではない蓮子は気楽なものだろうが、ほぼ初対面でしかも原因が分からない挙動不審な動きをしているメリーに、一体何を聞かれるのかと思うと気が気ではない。それがプラスの方向へ働くものなら構わないのだが、残念なことに予感はマイナスの方向だと告げている。

 不時着の衝撃を構えるように緊張した面持ちで待っていると、やがてメリーが決心したようにこちらへ視線を合わせた。


「神崎君は蓮子の彼氏なのよね?」

「ぶふうっ」


 その時、紅茶を口に含んでいた蓮子が犠牲になった。メリーの横でむせている蓮子の二の舞を避けることができたのは、蓮子に一発同じことを食らわされた経験と勘が生んだ結果であろう。やはりと言うべきなのか、予感はマイナスの方向で正しかったらしい。

 だが、ようやくメリーが挙動不審に陥っていた理由が発覚した。ただ同じ部室にいるだけで彼氏と勘違いするのもどうかと思うが、勘違いされたからにはきっちり誤解を解かなければならない。


「いや、そういうわけじゃない。妖怪を信じているという点で思想が似通っていたから、このサークルに入れてもらうことになっただけだ。蓮子との関係は……そんな甘ったるいもんじゃない」


 最後のほうで言葉が止まってしまったのは、蓮子との関係を何と言い表せばいいのか戸惑ってしまったからだ。出会って二日で友達以上恋人未満はあり得ないし、親友と言うのも前述した理由と、もっと多くの時間を重ねているはずのメリーに対して申し訳ない気持ちがあって言えない。かといってただ友人と言うには違うような気もするし、なかなか言葉で表現するのは難しいところだった。


「んー……?」


 かなり冷静に真実を述べたのだが、メリーはそれでも納得がいかないらしい。眉を顰めて首をかしげる態度からは、いかにも混乱している様子が見て取れた。


「げほっ、ごほ……あのね、メリー。時音の言うとおり、私と時音はそんな関係じゃなくて。新入部員以外の何ものでもないのよ」


 復活し始めた蓮子が、未だに呼吸が荒いまま助け舟を出してくれる。最後の言葉が何気に心に響くものがあったが、この状況で口に出すと更にややこしいことになりかねないので、心の中で呟くに留めた。

 大学入学以来からの関係らしい蓮子が説明すれば、時音が説明するよりも遥かに説得力があるだろう。

 そして、それは効果覿面だったようだ。


「……なるほどね。昨日のアレはそういうことだったのか」

 

 今度は納得したように数回頷いた。気になる単語を頭の中で拾い上げてみると、『昨日のアレ』というのは、蓮子が仕掛けたいたずらのことだろうか。それにしてはメリーの姿が見えなかった気がするが、ひょっとすると見えないところで隠れていたのかもしれない。


「メリー……」


 顎に手を当てて俯いていたメリーに、ばつが悪そうな顔をした蓮子が呟く。

 するとそれに気が付いたメリーが、安心しろと言うように優しく微笑みかけた。

 その一連の行動の意味がさっぱり分からずに、言葉なく会話し合っている二人を交互に見ていると、視線に気付いたらしいメリーが諭すように言う。


「神崎君は、蓮子に認められたのよ」


 それは、不思議な表情だった。柔らかな微笑みは陽だまりのように暖かい、貴婦人さながらのものなのに、どこか哀愁と動揺を滲ませた、水の中で一滴の絵の具を垂らしたときのような、混ざりきらない不安を感じる。それを言葉に表すのなら、『儚い』というのだろうと、時音はぼんやり考えていた。

 だが、そんな表情をしたのはほんの数瞬のことだった。一度俯いて、「ふう」と大きくため息をついた後には一つの痕跡も残されておらず、どこか達観したような、諦めにも似た表情でメリーは苦笑いを浮かべていた。

 言葉の意味と表情の変化が理解できず、時音はメリーに何と言葉を返したらいいのかわからない。『そうなのか』でもないし、『それは良かった』というのもメリーに悪い影響を与えてしまいそうな気がして、うまい言葉が全く浮かんでこなかった。

 

「それで、蓮子。能力の話はもうしたの?」


 そんな時音の内心に気が付いているのかいないのか、メリーは先ほどの表情をなかったかのように引っ込めて、蓮子のほうへと視線を向けた。話題が変わってしまって、結局メリーの表情の意味が分からずじまいだったが、その横顔からは問題から目を逸らしたがっているような雰囲気が感じられた。唐突に話題を切り替えたのも、視線と空気の気まずさから、強制的に直視させられる問題に耐えかねてのものだったのかもしれない。

 メリーが拒んでいながら抱えているものを追求するというのも憚られたので、時音はメリーの意を汲み取って二人の会話に耳を傾けることにした。


「う、うん。私と意気投合できるのは確認したから、問題ないと思うよ」


 少しばかり声に動揺が見られたが、何とか取り繕って蓮子が答えた。


「……わかった。じゃあ、参加してもらうからには精一杯頑張ってもらわないとね!」


 蓮子のほうにうなずいてから、高揚した調子でこちらに微笑んだ。空元気、などとは思わない。メリーの笑顔は、曇天の空も一発で吹き飛びそうなほどの、ちょうど照り輝いている太陽のように明るく魅力的なものだったからだ。その顔に濁ったような不純物は一切なく、全てが笑顔で吹き飛んでしまったかのようにも感じていた。ようやく見せてくれたメリーのぱっとした明るい表情に、時音はある種の安心感を覚えながら頷きを返す。それには、先ほどのように言葉に詰まることなくはっきりと答えることができた。


「もちろんだ。俺ができる範囲でなら、全力をもって手伝おう」


 そう言うと、メリーは僅かに落胆したような表情を見せて、「はあ」とため息をついた。


「そこは何もかもかなぐり捨てて、っていうと格好いいんだけどねえ……」

「いや、時音には臭すぎるって」


 蓮子の一言が引き金となって、二人とも可笑しそうにに笑い出す。

 全く余計な一言だと思って何か文句を言おうと考えたが、つい先刻自分がやってしまった痴態を思い出したのでやめておいた。言えば、蓮子が真っ先にそれを言及してきて、結果的にメリーに暴露されるという冗談抜きで恥ずかしすぎて死にそうな事態になるだろう。それに、あまり認めたくはないが蓮子との一件以来事実だとも思ったので、なおさら反論することができない。蓮子もそれを狙って言ったことなのか、視線を向ければ、メリーに気が付かれない様に意地悪げな笑みを浮かべていた。


「好き勝手言ってないで、さっさと説明してくれ」


 せめての反抗として少し不貞腐れてメリーに言うと、笑いの余韻を残した後に「そうね」と言って頷いた。

 何から話したものかと視線を合わせているメリーと蓮子を眺めながら、久しぶりな気がする紅茶を一口啜る。


「じゃあ、私の能力から説明しましょうか」


 二人の視線会議で結論が出たのか、あらたまった感じでメリーがこちらに視線を向けた。


「ほう……蓮子だけじゃなく、メリーも能力を持っているのか」


 蓮子が能力を持っているなら、秘封倶楽部の片割れであるメリーも何かしら能力を持っているのだろうと何となしに推察はしていたが、実際に本人の口から聞くと感嘆してしまう。


「ええ、まあね。能力の名前は……」


 そこで言葉が止まった。雰囲気を演出するための溜めかとも思ったのだが、様子を見るとどうやら違うらしい。

 視線を下ろして考えている素振りからは、何と名前を付けるべきなのか、わかりやすいようにテーブルの上で単語を組み立てているようにも見えた。

 実際、能力の説明をする機会などあっても夢美か蓮子ぐらいのものなのだろう。とあれば、メリーが多少悩むのもあまり疑問には思わなかった。

 しばしして、メリーは思いついた言葉をなぞるように、ゆっくりと言った。


「世界のありとあらゆる境界を見る能力」

「……境界?」


 そのあまりに予想していなかった単語と曖昧な言葉に、思わず聞き返してしまう。


「ええ。物と物の間に生まれる境目のことよ」


 メリーに言葉の意味を説明されて、ようやく頭の中に取り込むことができたようだった。恐らく『境界』という言葉が聞こえてきたとき、概念的な単語の意味は少なからず理解できていたはずだ。だが、その言葉の『曖昧さ』に、時音のあまり柔らかくない頭では理解が追いつかなかったのかもしれない。そして、その『曖昧さ』はメリーが話した能力の名前に終結する。

 そもそも、ありとあらゆる境界が見えるとはどんな状態なのだろうか。

 万物あれば境界あり、というほどに世界は境界で溢れかえっている。空気を遮断する物質は必然的に境界が生まれるからだ。言ってしまえば、空気にも水素原子や酸素原子などの物質が漂っており、原子同士のつながりや、原子核、はたまた電子にも境界は存在していることになる。十のマイナス何乗というミクロの世界に存在するそれら原子やウイルス、細菌といった存在、逆に大きくすれば、百三十六億光年という途方もない距離を持つ宇宙の彼方まで、世界は境界に作られているといっても過言ではないのだ。

 さらに解釈を拡大するなら、境界が存在するのは何も物質だけではない。

 生と死の境界、正と負の境界、そして、視線が生み出す境界といった概念にすら存在している。

 人によってはどんな解釈でもできそうなその『曖昧さ』こそが、時音を理解不能に陥れている何よりの原因だった。

 そして、そんな『曖昧さ』が視覚的にはっきりと証明される能力を持つメリーは、一体どんな風に世界が見えているのだろうか。

 蓮子や時音が生きているのは『曖昧さ』で埋め尽くされた世界であり、『曖昧さ』がない異なる世界に生きているメリーは、何もかもがまったく違って見えている可能性を秘めている。目の前に自分の知り得ない世界が広がっているのだと考えれば、気にならないわけがなかった。

 ふとした果てのない疑問は、溢れる好奇心が考えるよりも先に言葉にさせる。


「境界の、言葉の意味はわかる。だが、お前は一体どんな風に世界が見えている?」


 じっとメリーの目を見据えて聞くと、メリーは困ったように苦笑いを浮かべた。


「どんな風に、と言われてもね。こんな風に、としか言いようが無いわ」


 明確な答えが返ってこない質問だろうと思ってさほど期待してはいなかったが、そう言われるとやはりがっかりくるものがあった。

 第一、メリーが生まれたときから境界を見る能力を持っているとするなら、普通の人間が見ている世界をメリーは知らないことになる。メリーにとっては自分が見ている世界が当たり前だと思って生きてきたわけで、普通の人間が見ている世界は異世界に思えるのだろう。比較対象がないものに違いを見つけろといわれても、ただそう見えているとしか伝えることができないことは明白だった。

 だが、本当に比較対象がないとするなら、メリーは自分が不思議な能力を持っていることに気が付くことができない。

 他の人間と言葉を交わすだけで何か明確な違いを見つけられる、決定的な証拠が存在するのだろう。


「そうすると、メリー。お前は何をもって自分が境界を見る能力があると判断した?」


 そう言うと、メリーは目を見開いて驚いた後、躊躇するようにして蓮子のほうを見た。何か許可を取る必要があるのか、と思ったのだが、それは違ったようだ。

 蓮子は無表情を不敵な笑みに変えて、こちらを見ながら言った。


「なるほどなるほど。時音も意外と頭が回るじゃない」


 感心しているのか馬鹿にしているのか微妙な話し方からは分からずじまいだったが、それ以上に頭が切れるのだろう蓮子に褒められてもあまり嬉しくはない。


「そりゃあどうも。世辞はいいが、そこで蓮子が出てくるのはメリーの代弁をするためか」

「いいえ、違うわ。……とりあえず、落ち着いて紅茶でも飲みなさい」


 急かすような雰囲気が伝わっていたのか、眉間に皺が寄った蓮子に強い口調で言われてしまった。

 確かに答えを前に気が急いていた気もしたので、時音は言われた通り頭を冷やすように紅茶を一気に煽る。たいした中身を消費しないうちに温くなってしまったが、冷静さを取り戻すにはちょうどいいぐらいの温度だった。

 トン、とカップをテーブルの上に置くのを見て、確認した蓮子が一つ頷く。


「メリーが能力を確信する証拠たるものは、私たち……ああ、もちろん時音も入ってるけど。私たち秘封倶楽部の活動において、重要な要にもなってるわ」


 そこだけ早口になった気遣いの言葉に優しさを感じながらも、どうしてメリーの代わりに蓮子が話し出したのかが蓮子の言葉でようやくわかった。メリーの能力の説明のついでに、活動の説明をしてしまおうということらしい。


「メリーなくして活動は始まらないわけだ……」


 呟き気味に言ったのだが、メリーと蓮子には十分聞こえていたらしい。メリーは恥ずかしそうに微笑んで、蓮子は満足げな笑みをして頷いた。


「そうよ。……うーん、説明するにはあれが一番手っ取り早いか」


 そう言うと、蓮子はテーブルの上に置いてあった肩掛け鞄の中に手を突っ込んで、何やら黒い手帳のようなものを取り出した。そこには色とりどりの付箋がこれでもかと付けられていて、蓮子がぱらぱらとページを捲るたびに狭い隙間を犇めき合っている。

 いまどき紙媒体に記録するなんて珍しいなと思ったが、きっと蓮子の趣味なのだろう。「こういうのは雰囲気が大事なのよ」とは蓮子がよく言いそうな台詞だ。服装や手帳においても黒で統一しているのもその辺りが関わっている気がする。

 大まかな当たりをつけたのか、流し読みする作業から一ページづつ確認し始めた蓮子を見ていると、ようやく見つかったようで「あ」と声をあげた。


「これよ、これ。去年の夏に、遠野まで行ったときの」


 そう言いつつ、蓮子が手帳に挟まれていたらしい一枚の写真をテーブルに置くと、隣で乗り出すようにして見ていたメリーが何やら納得した表情をしていた。そのときは蓮子と出掛けたはずだから、きっと昔の出来事をを思い出したのだろう。


「ん……どれどれ」


 蓮子に近いほうに置かれていたのでこちらも身を乗り出すようにして見ようとすると、それに気が付いた蓮子が気遣って目の前に置いてくれる。

 小さくお礼を言いながら写真を見てみると、時音は一目で不思議とわかるような異様な光景に、目を見開いた。

 時刻は夜。辺り一体は見渡す限りの草原で、写真の端まで青青とした低草が広がっている。空には煌々と輝いている満月が地上を照らしていて、そのせいか夜だというのに明りがいらないほどだ。そして、それだけ聞くと穏やかな夜の風景に見えるそれも、真ん中に写っている異様な物体が全ての常識を写真から奪い去っていた。

 文字通り、空間がはさみで切られたかのようにぽっかりと黒い穴が空いていた。真ん中に置かれたその空間の裂け目は、綺麗なひし形を崩して歪曲させたような形をしていて、辺の部分がところどころ歪んだり、割れたり、罅が入ったりと見るだけでも不安定な様子であることがわかる。


「不思議でしょ?」


 予想通りの反応が得られて嬉しかったのか、満足げな笑みを浮かべた蓮子が聞いてくる。


「……実に不思議だとは思うが。これが……メリーの能力を証明する、証拠なのか?」


 写真に写った空間の裂け目を示しつつ、確認するような口調で蓮子のほうへ顔を向けた。


「ええ、そうよ。……分かりやすく言い換えるなら、そこに写っているのはメリーが見ている世界の一端」

「……ふむ。となると、この裂け目のようなものの正体は境界か」


 メリーの能力が境界を見る能力であるとするなら、簡単にたどり着く結論だ。しかし、間違いないはずの早急な結論に、どういうわけか蓮子はあまり納得していないようだった。


「うーん。確かに、境界であることに違いは無い。けど、問題はその写真に写っている境界がどういう状態にあるか、よ」


 蓮子の言葉を聞いて、時音は再度写真へと視線を落とす。

 境界は世界を作る構成要素の一つだ。今現在見ている景色にも、写真の中にも、場所を問わず境界は様々な場所に存在している。

 蓮子がこの写真をわざわざ見せてきたということは、普段お目にかかっているような境界の数々とは、何らかの変化を起こしている通常ではない状態なのだろう。メリーが見ている世界を把握しているわけではない為に確信を持って言えることではないが、蓮子が問題提起したことも踏まえて可能性は高いはずだ。

 この黒いひし形の何かが境界であり空間の裂け目を表すものだとしたら、元々空間に自然に存在していた境界が何らかの影響を持って異常を引き起こした結果、境界と境界の狭間が離れることになってしまったというのが一説として考えられる。


「となると、この黒い部分は世界の裏側が見えている状態なのだろうか」

「そういう解釈でもいいかもね。もっとも、その先にある世界が地続きのどこか離れた現実なのか。それとも、現実と何ら関わりない夢であるのかは飛び込んで見なきゃ分からないけど」


 そこで、先ほど交わした蓮子との会話を思い出した。

 秘封倶楽部の活動目的は、幻想を追い求めること。妖怪であり神であり幽霊であり、科学で説明できない不可思議な存在や現象に出会えるのなら地の果てまで追いかけるというのが方針だ。

 メリーの能力が活動に必要不可欠なのとその活動方針を合わせれば、境界の裏側に飛び込むという危険そうな行為を日常茶飯事に行っているのだろう。


「……何となくわかってきたぞ。それが秘封倶楽部の活動の一つか」

「一つというか、ほぼ完全にそれね」


 秘封倶楽部の活動とメリーの存在が活動において必要不可欠な理由は判明したが、何でもないことのようにしれっと答えた蓮子に時音は逆に心配になってしまった。

 境界の裏側がどうなっているか分からない以上、自分達がそこに行って帰ってくることができるのかできないのか、といった身の安全は保障できない。

 それに向こうの世界で死んだとしたら、弔われることなく風化するか異世界の怪物の餌になるかといった危険も孕んでいる。

 

「そんな危険なことをしていて、よく今までやってこれたな」


 秘封倶楽部がいつ結成されたのかは不明だが、蓮子の使い込まれた手帳や写真を見る限り、何度も境界の裏側に飛び込んできたのだろう。

 そんな異世界に踏み込んでおいて重症を負うような事も無く、二人が今でも安穏と活動を続けていられるのがちょっと信じられなかった。


「私は夢だと思ってるからね」

「夢?」


 蓮子はてっきり現実だと認識しているのかと思っていたので、思わず聞き返してしまう。


「うん。その写真に写ってる境界に飛び込んだときもそうだったけど、死にそうになる直前とか、ピンチのときになるといつの間にか現実の世界に戻ってるのよ」


 それを聞いて時音が思い出したのは、恐らく自分だけではないだろう大多数の人間が分かるような、典型的な夢の話だ。

 空を飛んでいたら高いとこから落ちそうになるところで目を覚ましたり、遅れて地面に激突してからだったり。誰かに追跡されて捕まったと思ったら目が覚めたりと、蓮子が言ったことと何となく共通する部分があるように思える。


「現実である境界の裏側が夢の世界とは妙な話だが、蓮子の話が本当ならさして危険はない……のか?」


 納得しようとしたところで、妙な引っ掛かりを覚えて不自然に疑問系になる。その不自然が何なのかと思考と目線を回してみれば、写ったのはメリーの不安げな表情だった。


「私は蓮子と違って現実の可能性が高いと思うけど……」

「そう思う理由は?」


 間髪入れずに聞くと、メリーは発言に自信がなかったのかたじろいで口ごもってしまった。

 夢や現実が絡んでくる当たり相対性精神学の話が返ってくるのかと思ったが、意外と根拠がしっかりとあるわけではないらしい。


「……境界の裏側の世界が、夢とは思えないほど五感がリアルだからよ。それに、蓮子と二人で同じ夢を見るなんてことあると思う?確かに蓮子が言ったとおり、活動してきたほぼ全てがそんな感じで怪我をしたことはないのだけど……」


 実際に行ったことのない身からすれば、何とも答えづらい問題だ。

 蓮子の言うとおり夢だったとしたら、怪我をしようが死に至るようなことをしようがお構いなしで済ませられる。だが、メリーが言う現実かもしれない可能性が潜んでいる以上、夢を前提とするような行動は極力控えたいところだ。といっても、自信満々で夢だと言い切っている蓮子にはそんなことお構いなしなのだろうが。それに振り回されるメリーの気持ちは推して知るべしだ。


「ここは二人で意見が別れているところか……」


 一人唸って、顎に手を当てて考え込む。

 二人の見解は基本的に一致していると考えていた節があったが、どうやらそれは大きな勘違いだったらしい。結成以来の仲間ながらも、互いの異なる意見を交し合いながら色々と議論を重ねてきたことも多々あるのだろう。その中でも、今のところ解決していない難解で重要な疑問といったところか。活動していく上では、後々問題が浮き彫りになってきそうではあった。


「そんなに考え込まなくても大丈夫よ。今まで大丈夫だったんだから、これからもきっと大丈夫」

 

 さして問題視しているわけでもないようなことを言うのは、蓮子だ。


「いらない死亡フラグは立てないで欲しいわ、蓮子」

「それは同意せざるを得ない」


 冗談を言って苦笑いをするメリーだったが、やはりどことなく不安が滲んでいるようにも見えた。未知の世界に踏み込んでいる以上、情報が足りない状況で不安を煽られるのも無理はないだろう。

 だが、先ほども考えたようにその世界に行かなければメリーの不安も、蓮子が主張する根拠も確かめることはできない。百聞は一見にしかずというように、一度活動を通して体験してみたほうがいいかもしれない。


「ま、時音には後のお楽しみ、ってことで」

「楽しむだけで済むことを期待しているよ」


 笑いながら言ったが、実のところ命は惜しいのでかなり本気だった。幻想を追い求める為に命までかなぐり捨てて行動するようなことは、蓮子と違って性格上付き合いきれないだろう。

 

「任せなさい。秘封倶楽部の部長としても、部員を怪我させるような真似なんかさせないわ」


自信たっぷりといった感じで、蓮子はその小さな胸を張った。一体どこからそんな根拠のない自信が湧いてくるのか、時音には理解出来なかった。苦笑いで蓮子を見るメリーには、果たしてその理由がわかっているのだろうか。


「せっかく入ってくれた新入部員くんを逃さないようにね、蓮子」


メリーが一度ちらりとこちらに目線を送りながら言った。


「もちろんよ、入ったからには絶対に後悔させないわ!」


時音に向かって一点の曇りもない笑顔で、蓮子は答える。不安には不安だが、その蓮子の顔を見ていると不安よりも魅力的な何かが待っているような気がして、気が付けば時音は釣られて笑顔を返していた。

平穏で平凡だった日常。平和であるが、どこか刺激のなく単調だった日々。人生の転換ともいえるべき秘封倶楽部の二人との出会いは、自分に何をもたらしてくれるだろうか。などと、プロローグめいたことを二人の笑顔を見ながら思うのだった。


「ぼーっとしてないで、早速今後の活動について話し合うわよ!過ぎていく時間がもったいないわ」

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