第6話:夜風と笑い声、そして運命の肯定
工房の土間に落ちる影が、長い歳月の重みを帯びていた。
三十年という時間は、工房の梁を黒々と燻し、私の両手の甲に深い皺を刻み込んでいた。かつてぎこちなく鉋を握っていた手は、今や木のわずかな湿り気や歪みを撫でるだけで、その木が生きてきた日照りや風雨の記憶を読み取れるようになっていた。怜の白髪はすっかり増え、背中はわずかに丸くなったものの、作業台に向かうときの鋭い眼差しは若い頃と少しも変わらない。
初秋の午後、引き戸の隙間から滑り込んできた風とともに、鈴の鳴るような硬い足音が土間に響いた。怜は作業台の奥で木材の選別をしており、訪れた客の足音に一度視線を向けたものの、気にする風もなく奥の納屋へと材木を運び出していった。
「……ここ、本当に変わらないのね」
低く、けれどどこか乾いた掠れを含んだ声。
振り向いた先に立っていたのは、仕立ての良い薄グレーのパンツスーツに身を包んだ由奈だった。
手入れの行き届いたボブヘア、ハイブランドのスクエアバッグ、完璧に引かれたアイライン。けれど、その瞳の奥には、どんな高級化粧品でも覆い隠すことのできない、底深い疲労と空虚が淀んでいた。役員就任、経済誌のインタビュー、業界での確固たる地位――風の噂で耳にしてきた彼女の「栄光」の重さが、その細い肩に張り付いているようだった。
「由奈」
「近くのクライアントのところに来たから、寄ってみただけ。……変なところね、相変わらず。世間はどんどんスピードも効率も上がって、結果を出せない人間は容赦なく弾き出されるのに、ここだけ時計の針が止まってるみたい」
由奈は作業台に並ぶ使い込まれた鑿や鉋に視線を落とし、自嘲気味に口元を歪めた。
「立ち話もなんだから、お茶でも飲んでいって」
私が作業場の隅にある小さな丸椅子を勧めると、由奈はためらいがちに腰を下ろした。手渡した湯呑みの温もりに触れた瞬間、彼女の背筋を張り詰めていた見えない糸が、ふつりと解けたように見えた。
「……もう、疲れたのよ」
由奈は湯気の向こうで、ぽつりとこぼした。
「登っても登っても、終わりがないの。役員になれば満たされると思ってた。でも次は業績、次は株主、次は世間の目。ちょっとでも数字を落とせば、減点されて後ろから突き落とされる。画面を開けば、もっと成功してる誰かが私を値踏みしてくる……私、何のためにこんなに走ってきたのか、もう分からないのよ」
かつて私を「レールの脱落者」と呼び、減点のない路線図を誇らしげに闊歩していた少女の面影は、そこにはなかった。
走るべきレールを最後まで完璧に走り抜けた果てに、彼女が辿り着いたのは、ただ果てしなく広がる孤独な荒野だった。
「歩実、あなたはいいわよね。世間から逃げて、こんな静かな場所で、誰からも採点されないで生きてこられたんだから」
その言葉には、かつてのような棘はなかった。ただ、痛ましいほどの羨望が滲んでいた。
「逃げたんじゃないよ」
私は、自分の節くれだった手をそっと見つめた。
無数の切り傷の痕が白く走り、木の渋が染み付いた、無骨で厚い掌。かつて由奈と一緒にコンビニの自動ドアをくぐったときの、冷たく平坦だった手とはまるで別の生き物のようだ。
「私も、たくさん転んだよ。木を割って何日も無駄にしたり、お客さんに怒られたり、生活が立ち行かなくなりそうになって頭を抱えたりね。みっともないことばかりだった。他人の作った路線図を降りた途端、全部自分の頭で考えて、自分の手で引き受けなきゃいけなくなったから」
「じゃあ……後悔したことはないの? あのまま会社に残っていれば、もっと豊かな暮らしができたはずなのにって」
「一度もないと言ったら嘘になるかもしれない。でもね」
私は由奈の目を真っ直ぐに見つめた。
「あのとき駅のホームで足がすくんで、敷かれたレールから転がり落ちたあの挫折があったからこそ、私は私の頭で考えて、この手で生きることを選べた。あの惨めで情けない過去のどれか一つが欠けていても、今の私はいなかった。だから私、あの日の失敗も、絶望も、全部ひっくるめて愛おしいと思ってるよ」
由奈は大きく息を吸い、それから小さく息を吐き出した。
彼女の瞳から、張り詰めていた虚飾の光が消え、柔らかな翳りが差していた。
「……強いのね、歩実は」
「強くなんかないよ。ただ、自分の人生の通知票を、他人に預けるのをやめただけ」
由奈はそれ以上何も言わず、冷めかけた茶を飲み干すと、静かに立ち上がった。去り際、彼女の背中は先ほどよりもほんの少しだけ柔らかく見えた。
その夜。
工房の奥の小さな板の間で、怜と二人、粗末な木皿に盛った漬物と冷奴をつつきながら、安酒の入った徳利を傾けていた。秋の夜風が、網戸を揺らして心地よい涼気を運んでくる。
「昼間、えらく洒落た身なりの客が来てたな」
怜がお猪口を干しながら、無造作に言った。
「幼馴染。……昔の会社で、ずっと隣の席を走ってた同期の子」
私が答えると、怜は「ふうん」と短く喉を鳴らしただけで、それ以上詮索しようとはしなかった。
「あの子を見てたらね、なんだか昔の自分を見てるみたいだった」
私は思わず小さく笑い、お猪口に酒を注ぎ足した。
「覚えてる? 私が工房に入ったばかりの頃。初めて任された椅子の脚、寸法を間違えてノコギリで切り落としちゃって、土間で声を上げて泣いたの」
「ああ、覚えてるさ。『私の人生はいつもこうやって減点されて台無しになるんです』とか何とか、大層な悲劇のヒロイン気取りで喚いてたな」
「ひどい! あのときは本当に世界の終わりだと思ってたんだから!」
「何が世界の終わりだ。木を一本無駄にしただけの話だろ」
顔を見合わせ、どちらからともなく笑い出した。
腹の底からこみ上げてくる笑い声が、古い梁に反響して夜の闇へと溶けていく。
かつては死ぬほど恥ずかしく、消し去りたくてたまらなかった記憶の数々。
母の赤ペンに怯えていた子供部屋の夜も、電車のドアの前で足がすくんだ月曜日の朝も、不器用な手で木を傷つけて絶望した日々も。
今となっては、ただの愛すべき道草にすぎない。
「……なあ、歩実」
怜が笑いを収め、静かに夜空を見上げた。
「良い人生だったな」
まだ途上であるはずのその言葉が、なぜか胸の真ん中にすとんと落ちた。
明日何が起ころうと、この先どんな結末が待っていようと、この瞬間を怜とともに笑い合えている。これまでのすべての苦難が、この一杯の安酒と秋の夜風に繋がっていたのだと、魂の底から肯定できる。
「ええ、本当に」
私はお猪口を掲げ、夜風に向かって小さく乾杯した。
運命を愛するとは、こういう夜のことを言うのだと知りながら。




