第7話:夕暮れの窓辺、悔いなき息の果て
窓の向こうで、秋の夕陽がゆっくりと地平の向こうへと沈もうとしていた。
薄いカーテンを通して差し込む光は、病室の白い壁を柔らかな橙色に染め変えている。鼻腔をくすぐる消毒液の匂いの奥に、不思議と懐かしい香りが混ざっていた。削りたての木の、あの乾いて甘い匂い。
ベッドの脇に置かれた丸椅子には、怜が腰掛けていた。
深く刻まれた目尻の皺、白く染まった無精髭、そして私の右手を包み込む、節くれだった大きな掌。長年ノミや鉋を握り続けてきたその手肌は、やすりをかけたばかりの桜の木のように硬く、けれど芯までじんわりと温かかった。
「……静かだな」
かすれた私の声に、怜が微かに顔を上げた。
「ああ。風が止んだ」
怜は短く答え、私の指先を包む力をほんの少しだけ強めた。
その瞳には取り乱した色も、過剰な悲哀もなかった。ただ、何十年も前に工房の作業台で割れた欅の板を前にしたときと同じ、静かで深い受容の光が湛えられている。
心電図の規則正しい電子音が、静寂の合間を小さく刻んでいる。
身体の重みはすでに消え去り、手足の感覚は薄い和紙のように透き通っていた。かつて満員電車のホームですくんでいたあの重苦しい足も、夜遅くまでパソコンの画面を睨みつけていたあの強張った背中も、長い旅を終えてようやく役目を果たそうとしていた。
私の視線に気づいたのか、怜が作業着のポケットから小さな木片を取り出し、私の胸元に置いた。
手のひらに収まるほどの、丁寧に磨かれた楠の小箱。私が工房に入って三年目、初めて怜に「これなら売れる」と認められた、あの粗削りな小箱だった。
指先をわずかに動かし、その角の丸みをなぞる。
機械のように完璧な直角ではない。木目のうねりに従い、私の不揃いな手の力加減がそのまま刻まれた、不格好で愛おしい曲線。
「……怜」
「ん」
「私ね……何点、だったかな」
掠れた声で、冗談めかして問いかけた。
幼い頃、母の引く定規のような赤ペンに怯え、大人になってからも誰かの顔色を窺ってはずっと怯え続けていた、あの呪いのような問いかけ。
「私の人生の通知票……減点ばかりで、落第だったかな」
怜は私の手を包み直した。その親指が、私の掌の硬いタコを、白く残る無数の切り傷の痕を、慈しむように一つひとつ確かめる。
「……いつの間にか、お前もすっかり分厚い職人の手になったな」
怜の声は静かで、けれど低く胸に響いた。
「百点なんて安っぽい点数じゃねえよ。お前が削った木肌とおんなじだ。他人の物差しにも、世間の規格にも合わねえ。誰にも真似できねえ、文句なしの『歩実』の形をしてる」
胸の奥の、一番冷えていた場所に、温かい灯火がぽっと灯った。
もう、誰も私を採点できない。誰かの路線図をなぞる必要もない。
「……私、敷かれたレールを降りて、本当によかった」
息を継ぎながら、途切れ途切れに言葉を紡ぐ。声は小さく、けれどその響きはどこまでも澄んでいた。
「誰の台本でもない私を……自分の頭で考えて、この手で生きて……たくさん失敗して、みっともなく転んで……」
走馬灯のように、記憶が鮮やかに蘇る。
母の顔色を窺ってばかりだった子供部屋。
満点を取っても空っぽだった通知票。
電車のドアの前で足がすくんだあの日。
工房の土間に積もった、光を透かす無数の鉋屑。
安酒を飲みながら、みっともない過去を腹の底から笑い飛ばした秋の夜風。
どれ一つとして、いらないものはなかった。
どれか一つでも欠けていたら、私は「私」という人間を自分の足で生き切ることはできなかった。
「……私の人生、上出来だったよね」
乾いた唇の端を、自然と持ち上げていた。
かつてオフィスで貼り付けていた十五度の作り笑いではない。心の奥底の、一番深い泉から湧き上がる、柔らかく穏やかな本当の笑顔。
怜の大きな掌が、私の頬にそっと触れた。
指先の硬いタコが、心地よく皮膚を擦る。
「ああ。上出来だ。……あとは俺が片付けておくから、胸を張って逝け」
「……ありがとう、怜」
ゆっくりと、最後の息を吐き出した。
肺の奥から抜け出していく空気は、驚くほど軽やかだった。誰の許可もいらない、誰の値踏みも届かない、正真正銘、私だけの呼吸。
窓の外では、夕陽が最後の光を放ち、空の青と溶け合いながら美しい茜色のグラデーションを描いていた。
規則正しい電子音が、ひとつの長い、途切れのない音へと変わる。
私の顔には、過去のすべての傷を抱きしめた、悔いなき笑みが残されていた。
病室に、完全な静寂が満ちる。
怜は、動かなくなったその小さな手を、両手でしっかりと包み込んだ。
歩実が息を引き取る瞬間まで決して崩さなかった職人の無骨な表情が、張り詰めた糸が切れたように歪む。
「……歩実」
掠れた声が、沈黙の中にぽつりと落ちた。
怜は歩実の冷たくなり始めた手に自分の額を押し当て、ぎゅっと目を閉じた。声を出さずに、けれど激しくその肩を震わせる。涙が節くれだった指の間を伝い、白いシーツへと静かに染み込んでいった。
四十九日が過ぎた、初冬の午後。
町外れの工房には、相変わらず冷たい風が吹き抜け、塗料と乾いた木の匂いが漂っていた。
怜は作業着の袖をまくり、一人で欅の一枚板の前に立っていた。
ふと、入り口の引き戸の隙間から、一筋の木枯らしが土間を吹き抜ける。
隅の木箱に残されていた、あの日の薄い鉋屑が、風を孕んでふわりと宙に舞い上がった。冬の柔らかな日差しを透かし、金色の光の帯となって、くるくると楽しそうに踊るように回っている。
怜は削りかけの木肌から視線を上げ、宙を舞うその鉋屑をじっと見つめた。
「……まったく。散らかしたままだな」
怜の目尻の皺が緩み、フッと静かな笑みがこぼれた。
その瞳にはもう迷いも湿り気もない。
怜は手にした平鉋を握り直すと、作業台の上の欅へ水平に宛てがった。
澄んだ摩擦音が、静かな工房に響き渡る。
誰の台本でもない、ただ自らの意志で刻まれる確かな呼吸が、今日もこの場所で続いていた。
(完)




