第5話:熱狂の静寂
工房の土間に、初夏のやわらかな陽光が斜めに射し込んでいた。
空気中を舞う微細な木粉が、光の筋の中で金色の粉塵となって静かに漂っている。作業台の中央に横たわっているのは、かつてある旧家で使われていたという、欅の一枚板の大机だった。長年の歳月によって表面は深い飴色に沈み、染みと無数の細かな傷が、かつてそこにあった誰かの生活の痕跡を物語っている。
「欅は暴れるぞ」
背後で鉄の定規を研いでいた怜が、低く言った。
「杉や檜と違って、木目が複雑にうねっている。逆目に刃が食い込めば、一瞬で木肌がめくれ上がる。力でねじ伏せようとするな。木がどちらに向かって呼吸しているか、指の腹で聞き取れ」
「はい」
私は短く応え、年季の入った平鉋の両端に指を添えた。
かつて母に好まれた淡い桜色のマニキュアを塗り、キーボードのプラスチックを撫でるだけだった私の手は、すっかり変貌を遂げていた。
親指と人差し指の股には厚いタコが張り、無数の小さな切り傷の痕が白く残っている。爪の間には、石鹸でいくら洗っても落ちない油と木の渋が染み付いていた。だが、この硬く無骨になった皮膚の奥で、確かに温かい血液が巡っているのを感じる。他人の敷いたレールの上を冷え切った義肢のように滑っていた手は、いま、私自身の命の手触りを取り戻していた。
刃の出具合を指先で微細に確かめる。出過ぎれば刃が跳ね、引っ込めすぎれば木肌を撫でるだけで削れない。紙一枚の十分の一にも満たないわずかな刃先を、木肌へと水平に宛てがった。
深く、静かに息を吐き出す。
意識が、驚くほどの速度で収縮していくのを感じていた。
工房の外を走る車のエンジン音、遠くの雀の鳴き声、怜が道具を置く金属音――それらの輪郭がすうっと遠のき、やがて消え去った。
視界のすべてが、目の前の欅の導管、年輪の濃淡、そして鉋の刃先だけに凝縮されていく。
すう、と息を吸いながら、身体の重心を後方へと滑らかに引いた。
シュウウウ――ッ。
澄んだ、乾いた摩擦音が静寂を切り裂く。
刃が木肌を捉え、逆目のうねりを撫でるように滑り抜けていく。抵抗と解放が、鉋の台座を通して両腕、背筋、そして足の裏へとダイレクトに伝わってくる。
削り出された薄い鉋屑が、台座の隙間からふわりと立ち上がった。光を透かすほどに薄く、向こう側の景色が滲んで見えるほどの一筋の帯。それが放物線を描き、私の足元へと音もなく落ちていく。
もう一引き。
足の踏み込みを変え、腰の回転だけで刃を引く。
シュウウウ――ッ。
刃先がわずかに引っかかりそうになる瞬間、指先の圧力を数ミリグラム単位で微調整し、木の繊維のうねりに身を委ねる。木を従わせるのではない。木が望む方向へと、自らの呼吸と筋肉を完全に一致させていく。
過去の後悔も、未来の不安も、そこには存在しなかった。
かつて私を苛んでいた「他人にどう見られているか」という自意識の檻も、「減点されずに正解を出さなければならない」という強迫観念も、一切の夾雑物が思考から削ぎ落とされていく。
ただ、目の前の木と、鉄の刃と、それを動かす自分自身の肉体。
その三者だけが溶け合い、完璧な調和の中にあった。
ふと我に返ったときには、作業台の周囲には膝の高さまで届くほどの鉋屑が幾重にも積もっていた。まるで、脱ぎ捨てられた無数の記憶の繭のようだった。
「……ふう」
鉋を作業台の上に置き、止めていた息を深く吐き出した。
全身の筋肉が心地よい疲労感に満ち、額を伝った汗が一粒、土間へと落ちて吸い込まれていく。
窓の外を見やると、いつの間にか陽は西に傾き、茜色の夕暮れが工房の中を染め上げていた。五時間という時間が、まるでほんの一瞬の深い呼吸のように過ぎ去っていた。
「……よく研げてるな」
いつの間にか私の隣に立っていた怜が、削り上がったばかりの欅の天板に掌を滑らせた。
ささくれ立っていた古い木肌は消え失せ、光を柔らかく乱反射する、赤子の肌のように滑らかで吸い付くような木肌がそこに現れていた。
「昔はね」
私は自分の掌を見つめながら、静かに呟いた。
「幸福っていうのは、どこか遠い未来にあるトロフィーみたいなものだと思っていました。満点の通知票をもらったら、良い会社に入ったら、昇進したら……その先にあるはずの『ご褒美』を求めて、ずっと今を犠牲にして走ってた」
私は足元に積もった、淡く香る鉋屑をすくい上げた。指の間から、柔らかな木の繊維が滑り落ちていく。
「でも、違いました。幸福って、未来の約束手形なんかじゃない。今この瞬間、目の前のものに無我夢中で没頭して、自分という存在さえ忘れてしまえることそのものなんですね」
怜は短く笑い、作業着のポケットから手ぬぐいを取り出すと、私の頭にぽんと乗せた。
「何十年もかかってそこへ辿り着く奴もいれば、死ぬまで気づかねえ奴もいる。お前はもう、自分の足でその場所に立ってるよ」
夕暮れの静寂の中、削りたての欅の天板が、まるで生きているかのように深い艶を湛えていた。




