第4話:考える葦の立ち上がり
退職願の白い封筒を握りしめた指先は、もう震えていなかった。
休職期間が満了を迎える前に提出された一枚の紙。人事部長の「本当にいいのかね。君のキャリアなら、いくらでもやり直しのポストを用意できるんだが」という引き留めの声も、水底の泡のように遠かった。私はただ深々と一礼し、ビルの回転ドアをくぐって外の乾いた光の中へと踏み出した。
その日の夕方、駅前のガラス張りのカフェで、由奈と向かい合っていた。
大理石調のテーブルの上に、由奈の最新型のスマートフォンと、華奢なゴールドのバングルをつけた細い手首が載っている。向かいに座る私は、着慣れない厚手のチノパンに、洗いざらしのシャツだった。
「……正気なの? 歩実」
由奈の声は低く、苛立ちと困惑に濁っていた。運ばれてきたカフェラテの泡が、微かに揺れている。
「せっかく入ったトップ企業を捨てるだけじゃなくて、町外れの怪しい木工屋で見習い? お給料だって今の三分の一にもならないんでしょ。それ、ただの都落ちじゃない。世間から見たら、完全にレールから転落した脱落者だよ」
由奈の瞳の奥には、理解不能な異物を見るような怯えの色があった。
彼女にとって、人生とは明確な数値とブランドで構築された堅固なピラミッドであり、そこから自ら降りる人間は、狂人か敗北者でしかなかった。
「転落したんじゃないよ、由奈」
私は、自分の膝の上で重ねた手のひらを見つめながら言った。
「自分で降りたの。……今までずっと、誰かが敷いてくれた線路の上を、ただ前が詰まらないように走ってた。でもね、その列車の行き先には、私の欲しいものは最初からなかったんだと思う」
「綺麗事言わないでよ」
由奈は吐き捨てるように言い、カップの縁を指先で弾いた。
「誰からも評価されない場所で、汚れた作業着を着て木屑にまみれて、それがあなたの選んだ『本当の自分』ってわけ? そんなの、ただの自己満足じゃない。他人に認められて、社会の中でポジションを取ってこそ、生きてる意味があるんじゃないの?」
その問いは、かつての私自身の叫びそのものだった。
けれど今、私の胸の奥に立ち上ったのは、静かで揺るぎない確信だった。
「葦ってね、風が吹けば簡単に折れそうなくらい、自然の中で一番か弱い存在なんだって」
「……何の話?」
「でもね、人間は『考える葦』なんだよ。どれほど世界が無意味で、自分がちっぽけで無力でも、自分の頭で考え、自分の意志で立つことができるなら、その存在はただ流されているだけの巨大な宇宙よりも尊い。……他人の物差しで測られた値札がなくても、私は私の頭で考えて、目の前のものと向き合って生きていきたいの」
由奈は呆れたように息を吐き、視線を逸らした。
「……勝手にすれば。後悔しても知らないから」
彼女は席を立ち、伝票を無造作に掴むと、一度も振り返らずにカフェを出て行った。ガラス越しに見えた彼女のハイヒールの足取りは、いつものように規則正しく、けれどどこか薄氷の上を歩いているようにも見えた。
私は残された冷たい水を飲み干し、立ち上がった。
町外れの工房の引き戸をガラリと開けると、夕暮れの斜光が土間に長い影を落としていた。
作業台の前に立つ怜は、私が姿を現しても手を止めなかった。ノミを木槌で小気味よく叩く硬質な音が、作業場に響き渡っている。
「……会社、辞めてきました」
私の声に、怜は木槌を止めた。振り返った彼の無精髭の口元が、わずかに緩んだように見えた。
「そうか。お前が自分で決めたんなら、俺がとやかく言う筋合いはねえ」
怜は作業台の脇から、年季の入った一本の平鉋を取り出し、私に向かって差し出した。
樫の台座は使い込まれて黒光りし、刃の先端は鏡のように研ぎ澄まされている。
「お前の手は、まだ柔らかすぎる」
怜は私の白く薄い掌を一瞥して、淡々と言った。
「他人の引いたレールを走るのには都合が良かったかもしれんが、木と向き合うには弱すぎるな」
両手で受け取った鉋は、ずしりと重かった。鉄と木の冷たさが、掌の皮膚を通して骨まで染み込んでくる。
「道具のように他人に使われる側でいるうちは、楽だ。責任も、思考も、全部レールを敷いた奴に押し付けられるからな。だが、自分で道具を握るなら話は別だ。この刃の角度ひとつ、木目の読みひとつ、すべてお前の頭で考え、お前の手で引き受けなきゃならん」
怜は私の目を真っ直ぐに見据えた。その双眸には、厳しい職人の光が宿っていた。
「自分の頭で考えろ、歩実。木は嘘をつかねえ。お前が迷えば刃は止まり、お前が驕れば木肌は裂ける。全身で、目の前の現実と格闘してみろ」
「……はい」
私は鉋を胸に抱きしめ、深く頭を下げた。
他人の台本は、もうどこにもない。
暗闇の中にぽつんと置かれた作業台の上で、私は初めて、自分の意志という名の小さな灯火を掲げて立ち上がった。




