第3話:転落した岩のふもとで
休職届を提出した日の帰り道、空の青ささえ覚えていなかった。
適応障害、という無機質な四文字が記された診断書を人事部に差し出したとき、部長の眉間に一瞬だけ浮かんだ「困惑」と「処理の手間」の混ざった色を、私は視線を落としてやり過ごした。実家の母にはまだ言えていない。言えるはずもなかった。「あなたのためにどれだけのお金をかけたと思っているの」という、何百回も聞いたはずの正論が、今の私には致死量の毒になることがわかっていたからだ。
築三十年のアパートの一室。遮光カーテンを引いた薄暗がりの中で、私はただ横たわっていた。
シーツに染み付いた体温の冷たさと、時計の秒針の規則正しい電子音。スマートフォンの電源は切ったままだ。画面をつければ、同期たちの活躍や由奈の眩しい日常が、容赦なく私を値踏みしにやってくる。
自分は脱線したのだ。
誰かが丁寧に整備してくれた軌道から転げ落ち、路肩の泥水の中に打ち捨てられた屑鉄。それが今の私の正体だった。
――なんのために、あんなに必死で生きてきたのだろう。
減点されないため。母を失望させないため。他人の期待の枠からはみ出さないため。
その目的を失った瞬間、世界はただの冷たく広大な荒野に成り果てていた。生きる意味など、どこにも見当たらない。空腹も渇きも感じず、ただ皮膚の下の空洞が日に日に広がっていくのを感じながら、私は二週間を毛布の中でやり過ごした。
十一月の中旬、底冷えのする曇天の日だった。
冷蔵庫の中が完全に空になり、数日ぶりに玄関の重い鉄の扉を開けた。外の空気は刃物のように冷たく、私の鈍りきった頬を容赦なく撫でた。
目的もなく歩いていた。駅前のスーパーではなく、無意識のうちに線路を越え、人の気配が希薄になる古い住宅街の端へ、さらにその先の雑木林に沿った通りへと足が向いていた。誰の視線にも晒されたくなかった。
古い板塀が続く緩やかな坂道の途中に、その場所はあった。
看板らしい看板はない。ただ、風雨に晒されて銀色に褪せた古材に、黒い墨で控えめに「漣」とだけ書かれた小さな札が掲げられていた。
引き戸は半分ほど開け放たれており、冷え切った冬枯れの空気の中に、微かに甘く香ばしい匂いが漂っていた。塗料の揮発油と、削られたばかりの乾いた木の匂い。
自然と足が止まり、薄暗い土間のような作業場を覗き込んでいた。
「……何か用か」
低く、硬質な声が落ちてきた。
作業場の奥、裸電球の黄橙色の光の下に、一人の男が立っていた。
厚手の藍染めの作業着をまとい、腰には使い古された革のエプロンを巻いている。無精髭の顎の線は削り出した角材のように鋭く、深い影を落とした双眸が、じっと私を射抜いていた。
「あ……すみません。通りかかっただけで……」
慌てて踵を返そうとした私の足元を、風に煽られた一枚の紙片のようなものが擦り抜けていった。土間の隅に、鉋で削り落とされたばかりの、絹糸のように薄い鉋屑が幾重にも積もっている。
男――漣怜は、手にした鉄の道具を台の上に置くと、無造作に言った。
「寒いなら入れ。戸を開けっぱなしにされると風が巻く」
拒絶の言葉を飲み込む隙もなく、私は促されるように土間に足を踏み入れていた。
壁の棚には、無数のノミや鉋、鋸が整然と掛けられている。中央の広い作業台の上には、脚の一本が折れ、天板のニスが白く剥げかけた、見るからに古びた楢の文机が横たえられていた。
「これ……直しているんですか?」
自分でも驚くほど、乾いて掠れた声が出た。
「ああ。昔の職人が作ったもんだ。湿気で継ぎ手が腐って、脚も折れた。普通なら粗大ゴミに出されて終わりだな」
怜は作業台の前に腰を下ろし、折れた脚の断面を指先でなぞった。
その指は節くれ立ち、無数の細かな切り傷と木屑にまみれていた。爪の周りは黒く染まり、手の甲の皮膚は革のように分厚い。オフィスで見てきた、パソコンのキーボードしか触ったことのない人たちの白く滑らかな指とは、まるで別の生き物の器官のようだった。
「ゴミ、なのに……どうして直すんですか」
私の問いに、怜は顔を上げず、木肌の感触を確かめながら答えた。
「捨てた方が安上がりだ。時間も金もかかる。新品を買った方が合理的だし、世間じゃ誰もこんなものに価値を認めない」
「じゃあ……意味なんて、ないじゃないですか」
気づけば、声が震えていた。
胸の奥に澱のように溜まっていた暗い感情が、堰を切って溢れ出そうになっていた。
「意味がないのに、どうしてそんなことをするんですか。直したって、誰にも褒められないかもしれないのに。無駄じゃないですか。意味のないことなんて、やっていたって……」
それは文机のことではなく、自分自身の叫びだった。
レールを降りて意味を失った私。価値のない私。何者でもなくなった私。意味がないなら、生きていることそのものが無駄ではないのか。
怜は作業の手を止め、ゆっくりと私に向き直った。その瞳には、侮蔑も憐憫もなかった。ただ、深く静かな湖のような凪があった。
「意味なんてものはな、最初から世界に転がってるもんじゃない」
怜は作業台の隅に転がっていた、拳ほどの大きさの無骨な木の塊を拾い上げ、掌の上で弄んだ。
「山の上から岩を押し上げて、頂上に着いた瞬間にまた麓へ転がり落ちる。昔の神話にあるらしいが、生きるなんてのは、せいぜいその程度の繰り返しだ。最初からレールが引かれていて、終着駅で拍手喝采が待ってるなんて思うから、岩が転がり落ちた時に絶望する」
彼は木の塊を、コトンと作業台の上に置いた。
「意味がないからと立ち止まって、転がった岩のふもとで死んだふりをするのか。それとも、意味なんてねえと知った上で、ニヤリと笑って、もう一度その岩に肩を当てるのか。決めるのはお前自身だ。他人の書いた台本じゃねえ」
心臓の奥が、ぎしりと軋んだ。
意味がないから、生きられないのではない。
意味という「誰かが決めた正解」に縋り付いていなければ息ができなかったのは、私自身が自分の頭で考えることを放棄していたからだ。
「……手が、冷え切ってるな」
怜は短くそう言うと、奥の古い石油ストーブの上に置かれた薬缶を指差した。
「茶でも飲むか。一杯やるくらいの時間なら、くれてやる」
ストーブの上で、薬缶の湯気が白く立ち上っていた。
削られたばかりの木の香りが、私の強張った肺の奥へと、初めて自分自身の息として染み込んでいくのを感じていた。




