第9話 別世界
四月。東京は桜が満開だった。
美大のキャンパスに足を踏み入れた瞬間、桃子は立ち止まった。
広い。人が多い。そして全員が、どこか違う空気をまとっていた。
自信というのか。余裕というのか。
育ちの良さが、歩き方に出ていた。
最初の授業は、自己紹介を兼けた課題だった。
「自分を表現する作品を、一週間で仕上げなさい」
教授はそれだけ言った。
隣の席の女子が、すぐにスケッチブックを開いた。迷いがない手つきだった。
向かいの男子は既にイメージが固まっているのか、目を閉じて考えている。
桃子は、鉛筆を持ったまま動けなかった。
自分を表現する。
昭和園芸では、描くものに迷ったことがなかった。目の前にあるものを描いた。感じたことを描いた。それだけだった。
でもここでは違う気がした。
みんなが「作品」を作っている。桃子はただ「絵」を描いてきた。
その違いが、急に怖くなった。
一週間後、作品の講評が行われた。
同級生の作品が並ぶ。
抽象的な色彩。緻密な構図。見たことのない技法。
どれも、桃子には思いつかないものだった。
桃子が出したのは、あの食卓の絵だった。
新しく描いたものではない。昭和園芸で描いた、ラップの皿と空の椅子の絵だった。
他に出せるものがなかった。
教授が一枚ずつ講評していく。
桃子の絵の前で、教授が止まった。
長い沈黙だった。
「これは誰の作品だ」
「吉田です」
教授は桃子を見た。
「どこの出身だ」
「長野です。昭和園芸高校という——」
「聞いたことがない」
「底辺校です」
教室がざわついた。
教授はまた絵を見た。
「テクニックは荒い。でもこの絵には、痛みがある」
それだけ言って、次の作品へ移った。
桃子は自分の絵を見た。
痛みがある。
褒められたのか、貶されたのか、分からなかった。
でも、見てもらえた。
それだけは確かだった。
その夜、桃子は田中先生にメッセージを送った。
「なんとかやってます」
すぐに返信が来た。
「そう」
桃子は笑った。
変わらない人だ。
スケッチブックを開いて、今日見た同級生たちの顔を描き始めた。
逃げるためじゃない。
ただ、描きたかった。




