第8話 春の手前
三月になった。
昭和園芸高校の卒業式は、体育館で静かに行われた。
来賓の挨拶。答辞。校歌。どれも桃子の頭には入ってこなかった。ただ、この場所を目に焼き付けていた。
教室。廊下。美術室への階段。
二年前、仕方なく来た場所だった。
式が終わって、桃子は一人で美術室に向かった。
もう荷物はない。絵も全部持ち帰った。壁には何も飾られていなかった。
田中先生が窓際に立っていた。
「来ると思った」
「来ました」
先生は外を見たまま言った。
「東京は寒い。春でも油断するな」
「はい」
「あと」
先生が振り返った。
「あなたの絵が全てだ。余計なことに惑わされるな」
「はい」
「描き続けなさい。何があっても」
桃子は頷いた。
言葉が出なかった。出さなくていい気がした。
先生も、それ以上何も言わなかった。
二人で窓の外を見た。
校庭の桜が、ほんの少しだけ膨らんでいた。
「先生」
「何」
「ありがとうございました」
先生は答えなかった。
ただ、窓の外を見たまま小さく頷いた。
それだけで、十分だった。
家に帰ると、母が荷造りを手伝っていた。
無言で段ボールを畳んでいる。
桃子はその隣に座って、一緒に荷物を詰めた。
しばらくして、母が言った。
「お腹空いたでしょ」
「うん」
「ご飯にしよう」
温かい料理が、食卓に並んだ。
二人で食べた。
言葉は少なかった。でも、沈黙が違う種類になっていた。
冷たくない。ただ静かだった。
食事が終わって、母が立ち上がりながら言った。
「桃子」
「うん」
「頑張りなさい」
不器用な言葉だった。
でも桃子には、それで十分だった。
翌朝、桃子は東京へ向かった。
新幹線の窓から、見慣れた街が遠ざかっていく。
スケッチブックを開いた。
描いたのは、あの美術室だった。
窓際に立つ先生の背中。膨らみかけた桜。差し込む春の光。
描きながら、桃子は思った。
逃げるために描いてきた。
でもこれからは——
答えはまだなかった。
ただ、手が動いた。




