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第10話 閉じる


五月になった。

キャンパスの桜は散って、緑が濃くなっていた。

桃子は毎日描いていた。課題をこなして、空き時間も描いた。それだけは変わらなかった。

でも、何かがおかしかった。

同級生の作品が、週を追うごとに変わっていく。

大胆になる。洗練される。自分の世界が広がっていく。

桃子の絵は——変わっていなかった。

いや、違う。

変えられなかった。

昭和園芸でやってきたことを、ただ繰り返していた。目の前のものを描く。感じたことを描く。それだけだった。

ある日、講評で同級生が言った。

「吉田さんの絵って、なんか古くない?」

悪意はなかった。ただの感想だった。

でもその言葉が、頭から離れなかった。

古い。

そうかもしれない。

桃子には美術の基礎教育がない。有名な画家を深く知るわけでもない。コンセプトを言語化する訓練もしてこなかった。

昭和園芸の美術室で、ただ描いてきただけだった。

六月のある夜。

桃子はスケッチブックを開いた。

何を描けばいいか、分からなかった。

鉛筆を走らせる。消す。また走らせる。また消す。

一時間後、紙には何も残っていなかった。

桃子はスケッチブックを閉じた。

初めてのことだった。

描けなかったのではない。

描く理由が、見えなくなっていた。

机の上に閉じたスケッチブックを置いて、桃子は天井を見た。

何で生まれてきたんだろう。

小学校の教室で思っていた言葉が、また戻ってきた。

田中先生の声が頭に浮かんだ。

——描き続けなさい。何があっても。

でも先生、私は今、何のために描けばいいか分からないんです。

部屋が静かだった。

東京の夜は明るいのに、桃子の部屋だけ暗い気がした。

スケッチブックは、閉じたままだった。


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