第11話 戻っておいで
七月になった。
スケッチブックは、あの夜から開いていなかった。
課題は出した。最低限だけ。でも描いている感覚がなかった。手が動いているだけだった。
ある夜、スマホが鳴った。
母からのメールだった。
珍しかった。母がメールを送ってくることは、ほとんどなかった。
開いた。
『駄目だったら戻って来い』
それだけだった。
桃子はしばらく画面を見ていた。
駄目だったら戻って来い。
怒っているわけじゃない。心配しているわけでもない。ただ、そこにいていいと言っている。
あの人が、そんなことを言う人だったか。
桃子の目が熱くなった。
こらえようとした。でも今日は、こらえなかった。
泣いた。
声を出して泣いたのは、いつ以来だろう。
小学校の教室で笑われたとき、泣かなかった。通知表を見た親に何も言われなかったとき、泣かなかった。昭和園芸の入学式の朝、泣かなかった。
ずっと、泣かなかった。
しばらくして、桃子は立ち上がった。
目を拭いた。
机の上のスケッチブックを手に取った。
開いた。
真っ白なページだった。
鉛筆を持った。
描いたのは、食卓だった。
でも今日の食卓は、今まで描いてきたものと違った。
ラップの皿じゃない。温かい料理が並んでいる。湯気がある。箸が二膳ある。
母が推薦の結果を聞いた夜の食卓だった。
言葉は少なかった。でも、冷たくなかった。ただ静かだった。
あの夜の温度を、桃子は初めて描いた。
描きながら気づいた。
私はずっと、なかったものを描いてきた。
空の椅子。ラップの皿。いない人。
でも本当は、あったんだ。
不器用なまま、確かにあったんだ。
夜が明けるまで、手が止まらなかった。
翌朝、桃子は母にメールを返した。
『ありがとう。もう少し、やってみる』
返信はすぐに来た。
『そう』
桃子は笑った。
田中先生みたいな人だ、うちの母も。
スケッチブックを抱えて、桃子は学校へ向かった。
東京の空が、高かった。




