第12話 古臭い絵
七月の終わり。
桃子の絵が、変わった。
変わったというより、戻った。
余計なものを全部削ぎ落として、ただ描きたいものだけを描いた。テクニックは相変わらず荒い。構図も素朴だった。
でも手が止まらなかった。
八月の講評。
教授が桃子の新しい作品の前で止まった。
いつもより長い沈黙だった。
「吉田」
「はい」
「これを描いたとき、何を考えていた」
桃子は少し考えた。
「消えたのに、消えなかったものを描きました」
教授は桃子を見た。
「説明してみろ」
「小学校のとき、授業中に雲を描いていたら先生に消させられました。でも今でも覚えています。消したのに、消えなかった。そういうものが、私にはたくさんあって」
桃子は少し間を置いた。
「全部、重ねました」
教授はキャンバスに目を戻した。
一見、何を描いたか分からない絵だった。
薄い線が幾重にも重なっている。消しかけた跡。塗り重ねた層。その下に何かがある気がするのに、はっきり見えない。
隣で同級生が小声で言った。
「やっぱり古臭くない?」
誰かが笑いをこらえた。
教授が振り返った。
「古臭い」
静かな声だった。
教室が黙った。
「そうだな。古臭い。テクニックも構図も、今どきじゃない」
桃子は俯きそうになった。
「だがこの絵には、お前たちが描けないものがある」
教授は全員を見回した。
「見る者が、自分の中に同じものを見つける絵だ。それが本物の強さだ」
誰も何も言わなかった。
「デジタルアートが溢れて、抽象表現が評価される時代に、この泥臭さは異質だ。だが異質なものだけが、世界で戦える」
教授は桃子に向き直った。
「吉田。秋に国際コンクールがある。出してみる気はあるか」
桃子は顔を上げた。
「……私で、いいんですか」
「お前の絵が、だ」
「出します」
教授は頷いた。それだけだった。
その夜、桃子はスケッチブックを開いた。
国際コンクールのテーマは「人間の記憶」だった。
桃子は鉛筆を持ったまま、しばらく考えた。
記憶。
頭に浮かんだのは食卓でも母でもなかった。
小学校の教室だった。
窓の外の雲を描いていたあの日。先生に名前を呼ばれて、クラスが笑って、雲を消しゴムで消した、あの瞬間。
消したけど、覚えている。
消えなかったものを、描こう。
鉛筆が動き始めた。
その線は細く、頼りなかった。
でも止まらなかった。




