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題6話 初めての言葉


十一月に入った。

田中先生に呼ばれたのは、放課後だった。

美術室には二人しかいなかった。先生はいつものように窓の外を見てから、桃子に向き直った。

「推薦の話、進めたい」

桃子は黙って聞いた。

「条件は満たしてる。あとは本人と、保護者の同意だけ」

「……はい」

「行きたい?」

桃子は少し間を置いた。

「行きたいです」

「じゃあ、家で話してきなさい」

それだけだった。

その夜、桃子は食卓で母と向き合った。

「お母さん」

母が顔を上げた。

「美大に、行きたい」

沈黙が落ちた。

母は箸を置いた。

「美大って……東京の?」

「はい」

「お金が」

「推薦があります。先生が、推薦してくれるって」

母はテーブルを見た。桃子を見なかった。

「あなたに、行けるの」

責めているわけじゃない。でもその言葉は刺さった。

ずっと聞かされてきた言葉だった。言葉にされなくても、ずっとそう言われてきた気がしていた。

桃子は俯きそうになった。

でも、顔を上げた。

「行けるかどうかじゃなくて、行きたいんです」

生まれて初めて、そう言った。

母が桃子を見た。

何かを探すような目だった。

三者面談は、十二月に設定された。

田中先生、桃子、母親の三人が美術室に座った。

先生はいつものように淡々としていた。余計なことは言わない。ただ、事実だけを並べた。

県のコンクール入選。全国コンクール入賞。推薦枠の条件を満たしていること。

「お嬢さんの才能は本物です」

母が先生を見た。

「この学校に来て、本物だと思った生徒は初めてです」

先生の声は静かだった。自慢でも誇張でもなかった。ただ、事実として言っていた。

母の目が揺れた。

「……先生、この子は勉強が全然できなくて」

「美大は絵で入ります」

それだけだった。

母はしばらく黙っていた。

桃子は自分の手を見ていた。震えそうになるのを、じっと堪えていた。

「桃子」

母の声だった。

顔を上げると、母が桃子を見ていた。

「行きなさい」

たった三文字だった。

でも桃子には、それが長い年月をかけて届いた言葉に聞こえた。

先生が小さく息を吐いた。

窓の外で、冬の風が木を揺らしていた。


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