第4話 その先へ
六月になった。
田中先生の授業が、少し変わった。
桃子だけに分かるくらいの、小さな変化だった。
課題の講評のとき、先生の目が桃子のキャンバスで一瞬止まる。通り過ぎるふりをして、でも必ず見ている。
それだけだった。特別扱いはしない。声をかけるわけでもない。
ただ、見ている。
放課後、美術室に残っていると先生が来るようになった。
「その影の入れ方、もう少し考えて」
「はい」
「光源はどこにあるつもり」
「……ここです」
「なら影はそっちじゃない」
会話はそれだけだ。褒めない。でも見捨てない。
桃子はその時間が、少しずつ好きになっていた。
七月のある日、先生が一枚のパンフレットを持ってきた。
東京の美大のものだった。
「見たことある?」
「ないです」
「そう」
先生はそれを桃子の机に置いた。
「推薦枠がある。条件は全国規模のコンクールで入賞すること」
桃子はパンフレットを見た。知らない世界だった。自分には関係ないと思っていた場所だった。
「私に、行けますか」
先生は少し間を置いた。
「さあ。でも描けなければ話にならない」
それだけ言って、先生は自分の席に戻った。
桃子はパンフレットをカバンにしまった。
その夜、一人の食卓でそれを広げた。
ラップの皿が冷めていく隣で、桃子はページをめくった。
キャンパスの写真。学生の作品。知らない街の風景。
——ここへ、行けるのだろうか。
いや、違う。
——ここへ、行きたいのだろうか。
初めて、自分にそう聞いた。
答えは、すぐに出た。
行きたい。
誰に言われたわけでもない。親に期待されたわけでもない。ただ、自分の中からそう思った。生まれて初めて、自分の意志で何かを欲しいと思った気がした。
翌日、桃子は美術室に行った。
先生はコーヒーを飲みながら窓の外を見ていた。
「先生」
「何」
「全国コンクール、出ます」
先生は振り返らなかった。
ただ、カップをゆっくり置いた。
「そう」
それだけだった。
でも桃子には分かった。
先生の背中が、少しだけ緩んだ気がした。




