第94話 青鷹の頭目
公開裁定が終われば、すべて終わる。
そう思っていた者は多かった。
だが湊だけは、まだ線が一本足りないと感じていた。
ガルドは確かに中核だ。
でも、青鷹の網をここまで深く王城へ食い込ませ、帳簿と工式の両方を整えられるのが、本当に第二王子一人だけなのか。
答えは、裁定の混乱の最中に動いた。
「ベルノルト殿が見当たりません!」
書記官の叫びが大広間へ響く。
宰相補佐ベルノルト。
穏やかで中立的に見えた古参官僚。
何度か湊の前へ現れ、薄く距離を測っていた男。
思えば、いつも近すぎず遠すぎない場所にいた。
反対派にも王女派にも同じ顔で頷き、必要な書類だけを少し遅らせ、必要な噂だけを少し早く流す。
あれは中立ではない。
流れを選んでいたのだ。
「やっぱりか」
湊は走った。
向かったのは王城西棟の古い転移補助室。
事前に封鎖していたはずの場所だ。
だが、ベルノルトほどの立場なら裏鍵を持っていてもおかしくない。
扉を蹴り開けると、そこにいた。
青い羽根章を机へ置き、淡い転移光の前に立つ白髪の男。
「予定より二日早いですね」
ベルノルトは振り返り、穏やかに笑った。
「だから君は厄介なのです、ミナト殿」
「青鷹の頭か」
「頭というより、管理者ですね」
「壊れかけの国で重要なのは、誰が王かより、誰が流れを管理するかです」
言い方がいかにもだった。
誇りすらある。
ベルノルトは帝国とも王都の大商会とも繋がっていた。
国王の病を理由に実務を握り、ガルドの野心を利用し、外へ国を切り売りする仕組みを作った。
第二王子は旗印。
この男は、その裏で構造を回していた管理者だ。
ガルドを倒せば終わると思わせることまで、この男の盾だった。
王子の野心が派手であればあるほど、奥で帳簿を動かす手は見えにくくなる。
湊はそこで初めて、公開裁定が本当の出口ではなく、入口だったのだと理解した。
「逃がすか」
湊が一歩踏み出す。
「私はね、この国が三代前に帝国へ飲み込まれていれば、今よりずっと静かだったと思っているのですよ」
ベルノルトの声はなおも穏やかだった。
「私は飢饉の年に、王都の倉庫が空になるのを帳簿で見ていました。地方からの請願が七十六通届き、救えた村は九つだけだった」
そこで初めて、老人の目に温度が差した。
怒りとも諦めともつかない、古い熱だった。
「この国は小さすぎる。誇りで腹は膨れない。強国の制度に組み込まれていれば、少なくとも配給の数字は揃った」
「だから売ったのか」
「売ったのではありません。畳もうとしたのです。きれいに、静かに、民が気づく前に」
その理屈に、湊は何よりぞっとした。
悪意よりも冷たい。
壊れていると知って、直すのではなく、壊れたまま別の箱へしまおうとする考え方だ。
「無駄に足掻く者が増えるほど、管理の手間が増える」
「逃がしてもらいますよ」
次の瞬間、ベルノルトが床の工式へ魔力を流した。
だが、転移光は途中で歪み、ばちりと不快な音を立てて消える。
「な……」
「転移封鎖、さっき中枢から掛けました」
湊は息を整えた。
「逃走用補助室から順番に」
ベルノルトの表情が、そこで初めて崩れた。
遅れて飛び込んできたカナンが、言葉もなく男の退路を断つ。
窓際には王女派兵。
もう完全に詰みだ。
「最後まで準備で負けたな」
カナンが冷たく言う。
ベルノルトは数秒だけ沈黙し、それから静かに肩を落とした。
青鷹の頭目は国外商人ではなかった。
王都の中枢で、ずっと善良な老人の顔をしていた。
だからこそ厄介で、だからこそここで折れた意味は大きい。
スパイ網の心臓部が、ようやく潰れたのだ。
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